開始の合図を待つ選手達の緊張がフロアーに漂う。
ライバル達のレベルの高さは相当なもので、その気迫は威圧されるものがある。
ピンと張り詰めた空気の中、雰囲気に呑まれそうな弱い自分を叱咤して瞳を閉じると神経を集中していく。
瞼の裏にあたしだけの魔法使いが微笑んだ。
― 俺がいればお前は無敵ってことだ。どんな強運でも引き寄せられる ―
ホンワリと温かい気持ちが込み上げてきて、不安が徐々に消えていく。
うん、そうだね。
今日この場にいなくても
どんなに距離が離れていても
ずっと抱きしめられているような感覚があたしを包んでくれているよ。
心はずっと傍にいてくれているんだね。
あたしは大丈夫。
自分を信じてあたしらしいお菓子を作るだけ。
ライバルの事なんて考えなくてもいい。
あたしはきっと最高のお菓子を作ることが出来る。
あたしを信じてくれる人たちの為に―…
始まりを告げるブザーが鳴り響くのを、意識の何処か遠くで聞いた気がした。
周囲が慌しくなったけれど、あたしの意識は深く瞑想に入っていて動けないでいた。
今日の日の為のお菓子を作る前はいつもこんな風だけど、いつも以上に長く瞑想するあたしに、空も不安を感じているのだろうか。
目を閉じていても感じる視線からは、焦りのようなものが滲んでいる。
他の選手達は既に初期工程を終え、次の段階へと向かっているのかもしれない。
だけど、あたしは他の選手の事など全く気にならなかった。
心を飛ばし意識の深部に眠る『想い』を集める―…。
あたしらしいお菓子を作る為、何よりも大切な力。
幸せな『想い』であたしをいっぱいに満たす為に―…。
今日まで色んなことがあった。
ここまで頑張ってこれたのは、決してあたし一人の力じゃない。
沢山の人に支えられてきたからだ。
その一つ一つを感謝の気持ちと共に紐解いていく。
あんな形で別れて、二度と友達にも戻れないかもしれないと思っていたのに、これまでと変わらない態度で協力してくれた宙。
どうしても思う味が出せなくて凹むあたしに、『あいつの為にも諦めるな』と言って励ましてくれ、空と共に最後まで根気良く付き合ってくれた。
空に至っては、東京まで一緒に来てくれて、今回の助手まで進み出てくれた。
昨夜は『響先生とはその後どうなの?』と、芸能レポーターも真っ青な勢いで、根掘り葉掘り質問攻めにされたけど、修学旅行みたいに二人ではしゃいだり、卒業後の進路について話したりして過ごした夜は、きっとこの先も一生忘れられない思い出になると思う。
二人には本当に感謝いている。
あたしの友達でいてくれてありがとう―…。
二人の友情をギュッと抱きしめる。
『想い』が沁み込み胸の奥が熱くなった。
**
あたしのケーキがきっかけで結婚を決意したと言った聖良さん。
その言葉にどれだけ救われただろう。
感謝の気持ちと二人の幸せを願ったウェディングケーキが聖良さんと龍也さんの人生の大切な記念日を飾った感動。
二人が切り分けたケーキを食べた皆の幸せな笑顔を思い出す。
『俺達の結婚式にもケーキを頼むね』と言った聖さんの隣で、照れたように微笑む亜希さん。
ケーキを食べた瞬間に初めての胎動を感じたと驚く杏先生を、大喜びで抱きしめた暁さん。
聖良さんと龍也さんが永遠に幸せでありますように―…
ケーキを食べた全ての人が幸せになってくれますように―…
その願いが届いたようで、あたしはとても幸せだった。
誰かの幸せを願うお菓子を作ることは、あたし自身が沢山の幸せを貰うことなんだね。
聖良さん…
そしてみんな…大切なことを思い出させてくれてありがとう―…
みんなへの感謝をフワリと抱きしめる。
『想い』が沁み込み胸の奥が更に熱くなった。
**
真っ赤なもみじの絨毯が敷き詰められた公園を、二人で歩いた結婚式の帰り道。
『すげぇな。まるでバージンロードみたいじゃねぇ?』と、いたずらっ子のように響さんが瞳を細めた。
『誓いのキスのリハーサルしようか?』と言って触れた柔らかな唇。
優しい微笑みが、大会前の不安も焦りも全部吹き飛ばしてくれた。
少し前まで届かない想いが苦しくて、何も作ることも出来なかった。
だけど今は、こんなにもお菓子への愛情が溢れてきて、その全てを注ぎ込むように作りたいものがある。
これまでにないほどに、身体の奥底から力が込み上げて来るのが解る。
これはきっと彼が与えてくれるものだと思う。
あなたが好き。
切なくて苦しいほどに好き。
愛しくて壊れてしまいそうなほどに好き。
込み上げてくる想いを伝える術も、それに相応しい言葉も、あたしは知らない。
だけどそれをお菓子で表現することはできるから…
あたしにしか出来ない形であなたに伝えたい。
響さんへの溢れんばかりの気持ちを抱きしめる。
『想い』が大きすぎて胸が痛いほど熱くなる。
― その瞬間―…
瞼の裏に初めて出逢った日の情景が広がった。
ああ…そうだ。
ここがあたしの原点。
響さんと出逢った事が全ての始まりだった。
泣いていたお兄さんに元気を出して欲しくて、ありったけの気持ちで渡した小さなキャンディ。
本当はパパみたいに、元気になれるお菓子をあげられたら良かったのに…
ずっと、そう思って…いつしかあたしはパティシェを目指すようになった。
それから12年…
あたしは再びあなたに出逢った。
今度こそ、あなたを癒す為に―…
響さん…
あなたに出逢えて良かった―…
胸が苦しいほどに高鳴って、痛いほどに熱くて…
愛しくて、切なくて…
とてもとても幸せで…
あたしの中の沢山の『想い』が全身に満ちていくのが分かる。
指の先まで…
髪の芯まで…
沢山の幸せであたしを満たしていっぱいにしていく。
心が浄化され澄んでいくのを感じる。
あたしに幸せをくれたみんなに、沢山の感謝を込めて、それ以上の幸せを返したい。
あたしを支えてくれてありがとう。
あたしを好きでいてくれてありがとう。
ずっとずっと…
みんなが幸せでありますように―…。
瞼の裏に焼き付いた黄金の髪が蜂蜜色に染まる。
あなたがゆっくりと振り返る。
その瞳に涙は無く、優しい色であたしを見つめていた。
**
深い深い心の奥底からゆっくりと浮上する。
甘やかな夢の色が少しずつ薄くなり、徐々に意識が深部から還ってくる。
細く目を開くと、ステンレス素材に反射した人口の光が最初に目に入った。
無機質な冷たい色にようやく現実に還ったことを自覚し、瞬時にスイッチをフルモードに切り替えた。
そのとき―…
あたしは不意に視線を感じた。
今日この場所に在り得ない…
でも絶対に間違える筈の無いこの視線。
まさかと思いつつ、視線を感じる先へと感覚を追うと―…
そこにはホッとした顔をした響さんがあたしを見下ろしていた。
来てくれたんだ。
その事実だけで、胸に溜まった幸せの『想い』が今までに無いほどに膨らんでいく。
雲ひとつ無い晴れ渡った空のように、心も身体も軽い。
まるで幸福の羽が生えた様な感覚だった。
神経が細部まで研ぎ澄まされて、溢れんばかりの幸福感があたしを包み込む。
そう…この感覚。
今のあたしならきっと創る事ができる。
沢山の人を幸せにできるお菓子を。
あたしを愛してくれる全ての人を幸せするお菓子を。
そして誰よりも―…
響さん…あなたを幸せに導くお菓子を―…。
+++ 12月 5日 第4話へ続く +++
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