千茉莉には天性の才能がある。
それはずっと前から周囲からも聞かされ、先日のウェディングケーキを通して、俺自身も強く感じていたことだった。
だが千茉莉の才能は、俺の見解を遥かに越えていた。
他の選手より遅れて作業を始めた千茉莉だったが、一度その手が動き出すと、誰もが彼女に目を奪われた。
口元に微笑を浮かべ幸せそうに創作をする様子は、あきらかに緊張と気迫でピリピリと神経の張り詰めているライバル達とは違っていた。
千茉莉の周囲だけ、空気が柔らかく温かい。
彼女が動くたびに、まるでフワリと花が咲き綻んだような優しい雰囲気が漂う。
そこだけに温かな陽だまりが出来ているかのような錯覚を覚えた。
ライバル達に遅れを取ったことなど全く気にも留めない様子で、創作をとても楽しんでいるのが伝わってくる。
指先がしなやかに動き、出来上がったケーキに見事な細工を施していく。
その様子はまるで…
恋人に愛の言葉を囁くように繊細で…
赤子を抱くように温かく慈愛に満ち…
魔法をかけるかのように観る者を魅了する。
その様子を観ているだけで、彼女の創るお菓子はきっと飛び切り美味しくて、口にした瞬間に幸せな気持ちになるだろうと納得させられるものがあった。
千茉莉の指先から生み出される魔法に、人々が羨望の眼差しを向け、感嘆の溜息を吐く。
彼女の才能は天が使命を持って与えたものだと、これほど強く実感した事は無かった。
本来なら喜ばしいはずの事。
だがライバル達を大きく凌ぐ圧倒的な才能の前に、俺は初めて彼女を旅立たせる事に不安を感じた。
彼女が海外へ行くことを危惧するのではない。
彼女が俺だけの天使では無くなることを恐れたのだ。
いつか彼女はその羽を大きく広げ、広い世界へ飛び立っていく。
それは解っていたはずだった。
彼女の才能を花開かせ、更に伸ばすにはそれは当たり前の事で、俺の為にその道を閉ざすなどさせてはいけないと思っていた。
それなのに…
千茉莉の愛情が万人に注がれるのを目の当たりにした俺は、彼女が遠い存在になったようで恐ろしいほどの喪失感に襲われた。
幼い頃から常に付き纏っていた孤独感が心を侵食していく。
左右違う瞳の色。
周囲とは違う金の髪。
幼い頃は忌み嫌われ続け、誰にも受け入れてもらえなかった。
成長する毎に少々出来栄えの良い頭や外見に群がる奴らにウンザリさせられ、冷めていった。
いつだって本当に欲しいものは手に入らず…
心の奥底に寂しさを抱えて、それを埋めてくれるものを捜し続けていた―…
そしてやっと見つけた俺の天使。
行かせたくない。
手放したくない。
その思いが膨らんで自分を覆いつくしていく。
彼女の為には何が必要で、そのために俺がどうするべきかは、良く解っている。
頭では解っているのに…
不安で…
寂しくて…
心が闇に囚われていく。
もしも…この大会で優勝できなかったら、彼女はどうするだろう?
亜希の留学話を断ったくらいだ。二度と留学しようという気持ちにはならないんじゃないか?
優勝さえしなければ…
千茉莉は永遠に俺の腕の中から飛び立つことは無い―…?
思考は負の感情に苛まれ、徐々にコントロールを失ってゆく。
弱い気持ちが邪心に呑まれそうになったその時―…
アクシデントは起こった。
大会終盤、残り時間も30分を切り、選手達の創作は最終段階に入っていた。
それぞれの持ち味を最大限に表現した個性溢れるお菓子はどれも見事で、中でも千茉莉の隣の男のダイナミックで豪華な飾り付けが審査員や観客をひときわ惹きつけている。
千茉莉の繊細さとは対照的な躍動的な作品で、千茉莉にライバルがいるとしたら、芸術性で群を抜いているあいつだろうと思われた。
あいつが優勝すれば、千茉莉は留学の機会を失い、ずっと俺の傍にいるんじゃないか?
そんな気持ちが頭をもたげた瞬間…
千茉莉の作品の最後を飾る、一番大きな飴細工が壊れてしまったのだ。
飾りつけの際、空との呼吸が僅かに乱れた瞬間に、かなりの時間をかけた美しい飴細工は一瞬で崩れ去った。
空は真っ青になっておろおろしているし、宙も俺の隣で息を呑み呆然と二人を見つめている。
今からあれだけ大きな飾りを制作するのは時間的に不可能なことは明らかだった。
こういったアクシデントは減点の対象になってしまう。
どんなに才能があっても最高得点者になれなければ優勝は出来ないのだ。
不測の事態への柔軟な対応も審査の対象になるらしく、俺の位置から見える審査員席の偉そうなおっさん達の視線が一斉に千茉莉に注がれていた。
中でも俺と同じくらいの年齢の金髪の外国人の視線に冷たいものを感じゾクリとする。
フランスから来た有名なパティシェらしいが、まるで値踏みでもするような視線が不快感を煽った。
なんとも言えない重い空気が流れる。
まるで自分の邪念が災いを招いてしまったようで、全身から血の気が引いた。
同時に心の闇が晴れ、理性が還ってくる。
俺は…何を考えていた?
千茉莉が一人前のパティシェに成長するのを誰よりも応援し見守って行くつもりでいたのに…。
彼女の余りにも急激な成長に圧倒され、自分を見失うところだった。
しっかりしろ。
これじゃ亜希に留学するなと言ったガキの頃と何も変わっていないじゃないか。
いや、千茉莉の優勝を一瞬でも願えなかったなんて、あの頃よりもっと最悪だ。
俺はこんなにも心の狭い男だったんだろうか。
千茉莉と出会い、ずっと欲しかった安らぎを知ってしまった。
再びあの孤独な頃に戻りたくないと心が願うのは仕方が無いとは思う。
だがこんなことでどうする?
こんな俺に千茉莉を愛する資格があるのか?
本当に愛しているなら、彼女の本来あるべき道を示してやるのが本当のパートナーじゃないか。
ようやく我に返り邪念を振り払うと、グッと両手を握り締めガラスに押し当てた。
固唾を呑んで見守っていると、ふいに千茉莉が俺に向かって視線を投げかけた。
その澄んだ瞳の前に、自分の醜い心を曝したようでドキリとする。
だが千茉莉は、そんな俺の全てを受け入れ浄化するように、鮮やかな天使の笑みを浮かべた。
この状況で彼女が一番追い詰められているはずなのに…
まるで俺の迷いを悟り『気にするな』というように微笑む千茉莉に、心が満たされ愛しさが込み上げる。
ゴメンな千茉莉。
一瞬でもお前を裏切るような事を考えてしまった。
本当にゴメン…。
眉間の皺を伸ばす仕草に、自分が眉に皺を寄せ、悲痛な表情をしていたことにようやく気付く。
すると彼女は、
この間俺が魔法をかけてやると言った時の仕草を小さく真似して『大丈夫』と唇を動かした。
こんなときでさえ俺の心を癒してくれる千茉莉に頭が下がる。
この状況をどうしてやることも俺には出来ない。
だが最後まで後悔だけはしないよう、せめて不安を少しでも軽くして、最後まで思い切り楽しませてやりたいと思った。
千茉莉に応えるように同じ仕草で魔法をかけ唇を動かす。
『お前ならできる』
千茉莉は嬉しそうに頷くと、すぐに細い指先を動かし始めた。
まるで魔法のように繊細に金色の飴が柔らかな曲線に形を変えていく。
それをケーキに飾っていく手の動きは、音楽を奏でているようにすら感じられ、観ているものを惹きつける。
彼女の瞳に不安や戸惑いは全く無く、楽しそうにキラキラと輝いていた。
お菓子を創ることが楽しくて仕方が無いという気持ちが、全身から溢れている。
アクシデントと最後の追い込みで殺伐としていた会場の張り詰めた緊迫感が徐々に和んでいく。
千茉莉は残り時間を気にして必死になるライバル達とは明らかに姿勢が違う。
これが天使の羽を持って産まれた千茉莉の才能なのだ。
お菓子で人の心を癒す不思議な能力。
その力は無限大で、ライバルたちの緊張すら解いているようだった。
誰をも分け隔てなく受け入れ…
求める者全てに惜しみない愛情を与える…
彼女を中心に広がる幸福感は波動となり―…
温かな空気はフロアー全体に浸透していった。
千茉莉の背に神から授けられた金の羽が輝く…
それを見たのはきっと俺だけではなかったと思う。
+++ 12月 5日 第5話へ続く +++
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