Sweet  Dentist 12月 5日(月曜日) 第5話



会場にホンワリと微熱にも似た温かな幸福感が漂う。

千茉莉の『想い』に満たされていた空間は、審査が始まってもまだ心地良さが残っていた。
審査結果が出るまでの約30分の休憩時間。
選手達はVIPフロアーへやってきて、両親や先生と話したり、寛いだりしていた。
先ほどまでの緊張感は払拭され、高校生らしい表情に戻った彼らには、まだあどけなさが残る。
緊張から開放され気持ちが軽くなったのか、数分前まで火花を散らしたライバルだったことも忘れ、早速仲良く話す数人の中に千茉莉もいた。

俺に気付くと、そそくさと先生らしき人物の元へ行き何事かを告げて、直ぐに俺の元へと駆け寄ってきた。

「響セン…さん。来てくれたのね、ありがとう。凄く嬉しかった」

嬉しそうに頬を染め声を弾ませる姿に思わず頬が緩む。
先ほどまで話していた先生が俺を見ていることに気付き、視線で『いいのか?』と問いかけた。

「うん、帰りは先生の車に乗せてもらう事になっていたんだけど断ってきたの。一緒に帰ってもいいでしょ?」

「ああ、もちろんそのつもりだ」

良かった。と、嬉しそうに笑う千茉莉に、もう大会の緊張感は残っていない。
結果を待つ身というのは、もっとドキドキしても良いもんなんじゃないか?

「緊張してる?」

「うーん…、そうでもない」

「…普通、結果が出るまでドキドキするもんなんじゃねぇ?」

「…そっかな? 終わったしホッとしたって気持ちのほうが大きいし、全力を出し尽くしたから結果が悪くても思い残すことは無いもの」

そうか…。と言うと、キッチンフロアーに展示された作品を良く見渡せる位置へ千茉莉をエスコートすると、審査員の様子を二人で肩を並べて見つめた。

「凄く楽しかった。途中でハプニングもあったけど、 壊れちゃったのは返って良かったかもしれない。今の形は他の人の作品よりもずっと小さくて目立たないけれど、最終的にはあたしがイメージしていたものに一番近いものが出来たから…凄く満足しているの。」

「良かったな、満足のいくものが出来て。壊れたときにはどうなるかと思ったぜ?」

「響さんが『お前なら出来る』って言ってくれたでしょ? そしたらあたしの中の何かが爆発するみたいに力が出てきたの」

「大した度胸だよ。 良くあれだけの時間であそこまでの作品が出来たな」

「響さんのおかげだよ。あの時魔法をかけて貰えたから…そうでなかったら焦りや不安で最後まで作れなかったかもしれない。響さんがいてくれて本当に良かった…来てくれてありがとう」

「そういえばお前、良くあの状況で俺に気付いたな? 」

「響さんの視線を感じたから…。来れないって言っていたから最初は信じられなかったわよ」

内緒にしていた事実を、サプライズの為と理解してくれたらしく、素直に喜ぶ千茉莉にチクリと痛んだ胸を誤魔化し曖昧に笑みを返した。

「すげぇ余裕に見えたけどな? 俺の眉間に皺が寄っているって教えてくれるくらいだったじゃねぇか」

「アハハッ、だって響さんたら胃に穴でも開いたような顔で見ているんだもの。これ以上心配させられないって思ったら自然と身体が動いていたのよ。だから、安心させる為にも絶対に完成させるって思ったの。失敗を恐れて後悔だけはしたくなかったし、壊れたものを修復するんじゃなく、思い切って新しく作ってみて良かった。本当に凄く楽しかったよ」

胃に穴が開いたような顔と言われ、どんな顔だよ?と思わず唸ってしまう。
自分の邪な気持ちが顔に表れていたのだろうと思うと、申し訳ないような、恥ずかしいような複雑な気持ちになった。

「優勝…出来ると良いな」

虚勢ではなく心からの言葉。
千茉莉は自分の作品を見つめたまま、黙って頷いた。




審査はかなり難航したらしく、ガラス越しに見ていた俺達にも、審査員がかなりの協議を重ねていることを見て取ることが出来た。
協議が別室に持ち込まれた事も、発表が遅れたことも、大会始まって以来の事だったらしい。

そして…
ようやく審査結果が発表されたのは、予定より20分近くも遅れての事だった。

選手達はそれぞれの作品の前に立ち、やや緊張の面持ちで発表を待っている。
その様子に俺の心臓も益々ヒートアップしていくのが解った。

もしかしたら千茉莉自身よりも緊張しているんじゃないか? などと思ってみたりもする。

千茉莉は緊張より、むしろ晴れ晴れとした表情でそのときを待っていた。
今日まで悩んだことも、苦労を重ねたことも、全て目の前の作品に凝縮されている。
思い残すことは無いと言っただけあって、千茉莉の作品は本当に見事だと思う。

あの短時間でここまでの作品が出来るとは、誰が想像しただろう。

アクシデントで壊れたパーツの代わりは、急ごしらえの為、当初の予定よりずっと小ぶりだったが、オブジェのような他の選手たちの作品に迫力負けすることも無かった。
むしろ不測の事態に対応したとは思えないほどの完成度の高さに舌を巻いたほどだ。
小さくとも、優しく繊細で、何より温かい千茉莉らしさが十分に表現されており、その美しさに目を惹かれる。

薄く延ばし、金糸を織り込むように仕上げた飴細工は天使の羽を模している。
中央には宙が何度も試食を繰り返したという甘さを控えた紅茶のシフォンケーキ。
それをフンワリと卵を抱えるかのように柔らかく抱きしめる蜂蜜色に輝く金の羽。
カラフルな砂糖菓子が秋の紅葉を模(かたど)り、華やかに彩りを添えている。


これは千茉莉から俺へのメッセージだ。

紅茶の香りは記憶に無い母を求めていた心の傷。
紅茶のシフォンケーキは俺そのものを表しているのだろう。
それを優しく護るように包み込む金の羽は、俺の傷を癒そうとする千茉莉の心。

彼女は俺達が出逢ったあの日の風景の中に、俺への気持ちを伝えたかったのだ。

千茉莉の声が胸に沁みる。


あなたに出逢えて良かった。

どんなに離れていても、心はずっと繋がっているから―…

あたしが響さんの傷を癒してあげるから―…

ずっとずっと一緒にいようね。



俺はずっと求めていた。

幼い頃から感じていた孤独。
他に馴染めない疎外感。

それらを埋めてくれる温かい場所を―…

母親の顔すら覚えていない俺は、上手く誰かに甘えることも出来なくて…。
無条件で安心できる温もりを知らず、ずっとそれを心の奥底で捜し求めていた。

ずっとずっと欲しかったものは、心が穏やかに安らげる場所だった。

あの日、蜂蜜色の公園で出逢った幼い少女。
手渡された小さなキャンディ。
確かに受け取った温かな『想い』。

あの日の少女が今、俺の安らぎとなって目の前にいる。



何を恐れていたんだろう。

俺達はずっと昔から、こんなにも互いを求めていたのに…。

何年経とうと、どんなに環境が変わろうと、千茉莉はいつだってずっと俺の一番深い所に住んでいる。

多分それは千茉莉も同じなんだ。

俺達は一つの心を二つに分け合って生まれてきた。

互いに欠けた部分を補い、一つの心に還る為に…。

やっと見つけた心の安らぎ―…

彼女こそが俺の還る場所―…

そしてこの胸の中こそが―…

天使(千茉莉)が羽を休める唯一の場所―…










キィンという不躾(ぶしつけ)なマイク音が会場に響いた。


幸せな余韻に満たされ、現実から一瞬飛んでいた俺に今の状況を思い出させるが如く響く耳障りな音。

いよいよ発表の時がやってきたのだ。

上位3名の名前と得点が読み上げられる。


その中に―…



千茉莉の名前は無かった。




会場の空気がざわめき立ち、それまでの緊張とは別の意味で重苦しい空気が流れた。

千茉莉が入賞できなかった事実に、信じられない思いで呆然と立ちすくむ。
ライバルチームの中からも、『何故?』という疑問の声が上がった。
だれもが千茉莉の受賞を確信していただけに、その結果に不信感を抱いたのだろう。
だが、千茉莉は全く気に留めた様子も無く、入賞者にトロフィーが送られるのを、微笑すら浮かべ心からの拍手を送っていた。

特別ゲストとして迎えられていたフランスから来たパティシェが挨拶に立った時も、会場のざわめきは収まらなかった
千茉莉のアクシデントの際、妙に冷たい目で見ていた男は、有名なパティシェでゲスト審査員だったらしい。
マイクの前に立つと、ガラス玉のような青い目で、チラリと千茉莉を見る。

不意に、心が波立つものを感じた。

男が流暢な日本語で型どおりの挨拶で選手達を労う。
その間も会場のざわめきは収まる事無く、むしろ風に煽られ波立つ湖面のように、徐々に広がっていくようだった。

そのとき、3位入賞者の市山という女の子が突然立ち上がった。

「あのっ…私、この賞を受け取れません」

突然の事に、会場が一瞬静まり返る。
彼女は先ほどVIPフロアーへあがってきたときに千茉莉が話していた女の子の一人だった。

「…市山さん、どういうことでしょうか?」

「私より賞に相応しい人がいるのに、受け取ることはできません。何故、神崎さんが入賞できなかったのでしょうか? 私は納得できません。理由を教えてください」

彼女の視線は真っ直ぐに千茉莉に向けられていた。
それを聞いていたライバル達が一斉に拍手をし、それはさざ波のように会場全体に広まっていった。

千茉莉は驚いて周囲を見回して困った表情をしている。
青い目の審査員は、少し驚いた顔をして、 ガラス玉のような瞳を細めると、信じられないことを告げた。


「今日の審査結果に不満をお持ちの方も多いのは解ります。実は私もその一人です」

マイクを通した冷静な声に、会場のざわめきがピタリと止んだ。
同時に咳払い一つ許されないような静寂が訪れる。
静まり返った会場に、彼の声はマイクなど必要ないほど大きく響いた。

「…ですが、この大会の審査方法に基づいた結果は屈返せません。残念ですが受賞を辞退されても神崎さんが3位入賞することは無いのです」

「どうしてですか? 誰が考えてもおかしいでしょう? 彼女の才能はあの場にいた私達の誰もが感じました。プロである審査員の方に解らないなんて…」

「解らなかったなど、一言も言っていませんよ」

ニッコリと唇の端をあげると、冷たい瞳に僅かに温かさが宿る。
だが俺はその笑みに、何か含みを感じた気がしてザワリと肌が粟立った。

「神崎さんは残念ながら最終段階での破損で、幾つかの課題をクリアすることが出来ませんでした。それは大幅な減点につながり、今回の入賞を逃す形となりました。
しかし、その才能は誰が見ても明らかで、点数制という審査方法でなければ、満場一致で優勝していたでしょう。
ですが、この大会の為に努力をしてきた他の参加者の皆さんや、最終審査まで残れなかった方々、そして歴代の入賞者の努力と涙と考えると、この大会のルールを曲げる事はできません。
そうは思いませんか? 市山さん。あなたの気持ちは解りますが、彼女の才能とこの大会の結果は別物なのです。
我々も審議を重ね、苦渋の決断をしたことをご理解いただきたいと思います」

市山という女の子は、自分の手にあるトロフィーをじっと見つめ、黙り込んだ。

「ですが、市山さんと同じお気持ちの方は多いようですね。先ほどの賛同される拍手の多さに、私も正直驚きました。
人の心をこれだけ動かせるお菓子を作れる神崎さんに敬意を表し、ゲスト審査員特別賞を進呈したいと思います」

その瞬間、ワアッと大きな歓声が上がり、会場が拍手に包まれた。

俺を振り返る千茉莉に、『お前なら出来るって言っただろ?』と、魔法をかける仕草でウィンクを一つ。

それを見た千茉莉の表情がフワリと柔らかくなる。

そして、審査員に向かって一礼し―…


会場に向き直ると、拍手を送り続ける人々に深々と頭を下げた。







+++ 12月 5日 第6話へ続く +++


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