今日の出来事を思い返し、自分の心の中を整理する。
シャルルの前ではああ言ったが、実際には何とか自分を納得させるところまで落ち着いたばかりだ。
ほんの少しの横槍で、心が乱れそうになるのは否めなかった。
「なぁ? あんたは千茉莉が留学しても平気なのか?」
余りにもタイミングの良い宙の問いに一瞬言葉を失った。
返答の鈍い事をどう受け止めたのか、宙は更に追い討ちをかけてきた。
「あんただっていい年なんだろ? 何年も外国で勉強するあいつが帰ってくるまで待っていられるのかよ?」
「……千茉莉の才能を俺の為に潰すなんてできねぇだろ? あいつはもっと大きくなれる。世界を見てもっと成長しなくちゃいけないんだ」
「ふぅん…大人だな。俺だったら絶対に無理だね。行かせられないか、俺が一緒に行くだろうな」
「…大人ね。そうかな?」
黙り込む俺にバックミラー越しに眉を顰め、答えを催促する宙が映る。
今日の事を思い出し、弱い自分の心を悟られないように叱咤した。
迷いが全く無くなったといえば嘘になる。
千茉莉を手放したくない気持ちは、時間を追うごとに大きくなり、いつまた暴走するか解らないと自分でも怖くなる。
それほどに千茉莉が愛しいのだ。
「宙には…俺が平気に見えるか?」
「…ああ、俺が千茉莉を必死の思いで諦めたのに、どうしてあんたはそんなに冷静に千茉莉を行かせられるのか理解できねぇよ」
「お前が思うほど俺は冷静でも無ければ大人でもないぜ。ぶっちゃけ、千茉莉が優勝しなきゃ俺から離れることも無いのにって、一瞬だけど大会の途中で願っちまったくらいだ。…最低だよな」
「…っ!」
「…そのくらい手放したくない、行かせたくないって気持ちは事実なんだ。でもさ、
それを口に出す訳にはいかねぇだろ?
俺の気持ちが揺らげば千茉莉は迷ってしまう。だから俺がこの手で背中を押してやらなきゃいけないんだ」
宙は不満げな顔で何か言いたそうだったが、そのまま唇を噛んで黙り込んでしまった。
「…宙、お前なら解るだろ? 千茉莉の未来の為に何が大切か考えたら…行くなとは言えねぇよな? 彼女を愛しているから手放さなきゃならない時もあるんだよ」
宙が視線を外したのは、俺の気持ちを察したからだったのだと思う。
そのまま窓の外を流れる灯りを目で追う彼の横顔は、蒼白く切なげだった。
千茉莉の為に自分の気持ちを諦めた宙だからこそ、俺の気持ちが苦しいほどに解るのだろう。
何も言わなくても、今は宙が俺の心の一番近い所にいて、痛みを共に耐えてくれている。
そんな風に感じていた。
先に空を降ろし、3人になった車で千茉莉の家へと向かう途中、
宙が少し広くなった後部座席から、再び質問をぶつけてきた。
「なぁ? 千茉莉は本当に留学しなくちゃ駄目なのか?」
意外な意見に言葉が詰まった。
「…しなくちゃ駄目なのかって…それは…千茉莉の意志だろう? あいつは大会で優勝して留学したいと言っていた。
いずれ父親の跡を継いで、自分にしかできないお菓子を作ると、瞳を輝かせて語っていたんだ」
「でもそれはあんたと付き合う前だろう? 今は違うんじゃないか?」
「…どうかな? 例えば俺が日本にいるから留学できないというなら、千茉莉はそれまでだ。
決して一流にはなれない。本物を見て、本物に触れることが、彼女にとってどれほど大きな財産になるか、お前だって解るだろう?」
「…解るよ、解るけどさ…。千茉莉は本当に行きたいのかな? 俺は…むしろあんたの為に行こうとしているような気がするんだ」
「は? 何だよそれ、俺が千茉莉に留学を強要しているみたいじゃないか?」
千茉莉が行きたいと言っていたからこそ、俺は応援したかったんだ。
なのに…どういう事だ?
「千茉莉はさ、子供の頃に出逢ったあんたを癒したくて今日まで頑張ってきたんだろ? あいつの中には昔からいつだってあんたがいて、あんたの為にパティシェを目指していたようなもんなんだ。つまりさ、留学してもあんたと離れちまうってのは意味が無いんじゃないか?」
考えてもみなかったことを言われ、俺は明らかに動揺した。
宙と話していると、千茉莉を手放すことが間違いのような気がしてくる。
自分の願望との相乗効果は絶大で、何が何でも千茉莉を傍に置きたくなってしまう。
―っ!駄目だ…
ブレーキを強く踏み込み急停車した。
宙が勢いで俺のシートに鼻をぶつけ、目を白黒させている。
突然の行動を理解できなかった様子で、猫でも飛び出したのか、と寝ぼけたことを言っている。
今の衝撃で、千茉莉も目を覚まし、キョトンとした顔で周囲を見回していた。
「宙、降りろ」
「はっ?」
「てめぇ、さっきから俺の気持ちを掻き乱すようなことばかり言いやがって…。俺だってイッパイイッパイなんだよ。俺が冷静でいられるうちに降りて歩いて帰れ」
「はあぁぁぁっ? ひでぇじゃん。夜道に置き去りかよ?」
「歩いたってせいぜい20分くらいだろ? 女じゃないんだから、襲われやしねぇよ」
サラリと冷たく言い放つと、ようやく状況がつかめてきたらしい千茉莉が、慌てて間に入ってきた。
「響先生、どうしたの? 宙が何か言ったの? そんなに怒らないで、ね? もう遅いんだし送ってあげて? あたしは最後でいいんだから。ねっ?」
可愛らしく小首を傾げておねだりされて、強く拒否することも出来ない。
渋々宙を送り届けることを了承したが、それは直ぐに後悔に変わった。
宙の家の前で運転席をスライドし、後部座席から引っ張り出してやると、長時間折りたたまれていた長い足がニョッキリと伸ばされる。
大きく伸びをする宙に荷物を投げ渡すと、それを受け取りながら渋い顔をしてボソッと呟いた。
「―ったくよぉ。あんたのプライドで千茉莉を泣かせたら―…俺がいつだって奪い返しに行くからな?」
思わずムカついてデコピンを一発喰らわせたのは自分でも大人げ無かったとは思う。
だが反射的に身体が動いてしまったのだからしょうがない。
驚いて車から出てきた千茉莉がデコを抑える宙に駆け寄ったが、それをさせまいと腕を掴み、ヤツにピシリと言い返した。
「バーカ、絶対に放すつもりはねぇし。お前ごときに奪われるか。100年かかっても無理だっつーの」
「…ふん、自信過剰が。放さない覚悟なら、千茉莉の本音くらいちゃんと知っておけよ?」
本音?と俺を見上げる千茉莉に、宙はご丁寧に先ほど俺にした質問を繰り返した。
千茉莉の本当の気持ちを知りたくないといえば嘘になる。
だが、千茉莉がどんな気持ちでいようと、彼女の未来を考えると答えは一つなのだ。
宙の質問に千茉莉は暫く考えていたが、やがて言葉を選ぶように口を開いた。
「あのね、宙。あたし、少し前までだったら響先生が行くなって言ったら行けないと思ってたの。
だけど…このままのあたしじゃ彼の隣に相応しい女性にはなれないのよ。
宙があたし達を心配してくれるのは嬉しいけど、あたしは自分が自分らしく、そして彼に相応しく成長する為にフランスへ行きたいと思う。
響先生に会えなく寂しくて泣いちゃう日もあるかもしれないけど…でもだからこそ、一日も早く一人前になって帰国できるよう努力したいと思うの」
千茉莉は改まった様子で俺と向かい合うように立つと、真っ直ぐに瞳を見つめてきた。
「…響さん…初めて出逢ったあの日、あたしにこの道を示してくれて…本当にありがとう」
深々と頭を下げる千茉莉に成長を感じて胸が熱くなり、柔らかな髪をクシャ…と撫でた。
出逢いの日、蜂蜜色に染まったこの髪を綿飴のようだと思ったことを思い出す。
懐かしい思い出と、目の前の彼女の成長に、胸に迫ってくる感動をどう伝えていいか分からなくて、そのまま肩を抱き寄せ、腕の中に取り込んだ。
「えっ…ちょ…っ? 宙が見てるっ響先生?」
相変わらず油断すると名前で呼べない千茉莉。
クスクスと笑いながら心の中で一つカウントする。
バツゲームまであと僅かだって…千茉莉が知ったら焦るだろうな、などと考えながら、腕の中でジタバタする彼女を黙らせる。
「…なぁ、あのシフォンケーキは俺だったんだろう?」
「え?」
一瞬驚いたような顔で俺を見つめ、照れたように頷く。
「嬉しい…気付いてくれるなんて思わなかった」
「俺を誰だと思っているんだよ。気付かないわけないだろ? …あれは俺達が12年前に出逢った日の風景だよな?」
「うん…感謝してるって伝えたかったの」
「…伝えたかったのはそれだけ?」
「あのね…ずっとずっと大好き…って…」
「よく言えました。…俺も好きだよ」
ほんのりと桜色に頬を染め、幸せそうに微笑む千茉莉。
釣られて紅くなりそうな顔を見られたくなくて―…
身体を屈めると染まった頬を隠すようにして耳元で囁いた。
「俺のほうこそ…ありがとうな…千茉莉」
俺に安らぎを教えてくれて―…
俺と出逢ってくれて―…
俺を愛してくれて―…
俺達の様子を見ていた宙は、納得したのか
「今夜は暑いなぁ」
と、ジャケットを脱ぐ仕草をしながら軽く手を挙げ、家に入っていった。
なぁ、宙?
俺と千茉莉はずっと昔から、深いところで繋がっているんだ。
どんなに距離が離れたって、心までは離れられないんだよ…
俺達なら絶対大丈夫だ…
お前だってそう思うだろう?
+++ 12月 5日 Fin +++
12月10日 /
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