時刻は午後2時まであと3分。
響さんが迎えに来る筈の約束の時間が迫っていた。
あの後、真由美さんに2時間ほど付き合って、解放されたあたし達。
コッソリ抜け出してきた手前、響さんと一緒に家に帰る訳に行かず、あたしは真由美さんに一旦送ってもらうことになった。
響さんには何とか簡単に事情は説明したけれど、彼はふぅんと鼻を鳴らしただけで、全く気に留める様子も無い。
簡単すぎる説明で、パパの切迫した状況が伝わらなかったんだろうか?
不安な顔をするあたしに、響さんは『心配するな』と言って軽くキスをした。
「俺がいればお前は無敵だって、何度も言ってるだろ? ぜってー留学も交際も認めさせてやるよ。安心してろ」
本当に…
彼がそういうと、何もかも上手くいく気がする。
根拠なんて無いけれど、無条件に大丈夫だと思えてしまう。
不思議だね…。
そして午後2時
時間ぴったりにインターフォンが鳴った。
ドキドキしながらドアを開けると…
スーツ姿の響さんが淡いピンクのチューリップの花束を抱えて立っていた。
「千茉莉、誕生日おめでとう」
ニッコリと微笑む響さんに、思わず赤面。
だって、誕生日に花束って…女の子だったら誰でも憧れるでしょう?
「わ…ぁ、嬉しい」
「花屋に寄ったら目にとまってさ、なんとなくこのベビーピンクが千茉莉のイメージだったから買い占めてきた」
「ピンク? あたしが?」
「ああ、癒しの色だな。ホワンと温かくて、柔らかそうで、微笑ましくなるだろ? 千茉莉はそんな感じだよ」
「ありがとう…何だか照れちゃうね。あ、ママ?」
いつの間にかあたしの背後にやってきて、ニコニコしている。
…いつから見ていたのよ?
響さんがママに挨拶をして、改めて交際していることを告げると、ママは上機嫌だった。
今までも付き合っていることを隠していたわけじゃないけれど、こうして家族にハッキリと彼の口から言われるのは、くすぐったい。
ドキドキと胸が高鳴って、頬が熱くなっていくのを感じた。
「お父さんはご在宅ですか? 挨拶をしたいのですが」
ドキーン!
先ほどまでのドキドキとは、明らかに質の違う胸の鼓動。
心拍数が一気に跳ね上がって、全身を血液が異常なまでのスピードで駆け巡る。
パパはまだお店から戻っていないらしく、明らかに響さんを避けたことが窺われた。
響さんに会って現実を直視するのが嫌なのかもしれない。
パパの事を思うと、高鳴っていた鼓動が徐々に静かになっていく。
冴えない顔をしていたあたしを元気付けようとしたのか、響さんがクシャッと頭を撫で、ニッと笑って『信じてろ』と囁いた。
パパへの挨拶は帰りにすることにして、とりあえず出かけていらっしゃいと言う、かなりハイテンションのママの言葉に従って、あたし達は家を出ることにした。
ママのそのテンションの4分の1でいいからパパに分けてあげて欲しいと、溜息を吐きながら、荷物を部屋へ取りに行こうとした、その時―…
玄関のドアが勢い良く開いた。
目の前には、かなり機嫌の悪いパパ。
その視線は真っ直ぐに、響さんへと向けられていた。
暫し妙な沈黙が流れる。
先に口火を切ったのは、パパだった。
「…お前か、千茉莉と付き合っているってヤツは」
パパはあたしの聞いた事の無いトーンの声で響さんに質問した。
低く、擦れた声には怒りが含まれている。
いつもは優しいパパのここまでの怒りに、あたしは怖くなって、響さんのくれた花束をギュッと抱きしめた。
「はい、歯科医をしています、安原 響と申します。」
「…安原? …年上とは聞いていたが随分離れているな。幾つだ?」
「来週の誕生日で30歳になります」
「さっ…30? 12歳も違うじゃないか? おいお前、千茉莉はまだ高校生だぞ? どういうつもりだ? 犯罪まがいの事をしやがって…。何も知らない千茉莉を手玉にとって楽しいか!」
「確かに年は離れていますけど、俺は本気です。俺達の交際を認めてもらえませんか?」
「千茉莉と交際だぁ? ふざけるなっ! どうせ遊びなんだろう? 女子高生に萌えるだけで学校を卒業したら興味がなくなるんじゃないか?」
「俺は制服に魅力を感じる類の趣味はありませんよ。俺が好きなのは女子高生じゃなく、千茉莉さんですから」
「そんな事を言っても、千茉莉が留学して何年も帰ってこない間に別の女を作って直ぐに忘れてしまうくせに。もうすぐいなくなるから…だから、今のうちに弄んでやろうって事なんじゃないかっ?」
「違います。俺は彼女を愛しています。留学だって応援してやりたいし、いずれ結婚するつもりで待ち続けます」
それを聞いていきなり響さんの胸倉に掴みかかったパパに、あたしは激しく動揺した。
だけど、響さんは落ち着いていて全く動こうとはしなかった。
「なっ…にぃぃ? 結婚だって? ふざけんな!千茉莉はまだ18だぞ」
「殴って気が済んだら、千茉莉さんとの事を認めてもらえますか?」
静かな響さんの声に、パパはビクリと反応した。
「今日は神崎さんとケンカをしに来たつもりはありません。千茉莉さんとの交際を許してもらいに来たんです」
二人の間の痛いほどの緊張感で、あたしも胃がおかしくなりそうだった。
「千茉莉は高校だって卒業していないんだぞ。大体、待ち続けるなんて口ではどうにでも言えるが、そんなに簡単なものじゃないんだ。
日本を遠く離れて心が揺らぐときだってある。フランスで千茉莉に恋人が出来ないとも限らない。それでも待てるって言うのか?」
「千茉莉が俺を裏切るなんて、あり得ないですね。1万歩譲って千茉莉に恋人が出来たとしたら…絶対に奪還しに行きますよ。
俺の辞書には諦めるとか譲るとか、悲観的な言葉は載っていませんから」
「過剰な自信だな。お前を見ていれば解るよ。それだけのルックスなら、今までさぞモテて、いい思いをしてきたんだろうし、自分に自信があるんだろう?
千茉莉みたいな初心な女子高生は直ぐに堕ちるだろうな。からかうのは楽しかったか?」
「パパ!酷い」
パパの挑発的な言葉にも、腹を立てる事無く冷静に受け答えする響さん。
だけど、だんだんエスカレートしていくパパの発言は、響さんの容姿の事に及んでいる。
彼は自分の容姿の事を言われるのを酷く嫌う。
彼にとって見かけの美しさは忌まわしいものでしかない。
幼い頃からの深い大きな傷でしかないのに…
「大体だなぁ、交際を許してもらいたいなら、まずその金色に染めた髪を戻して、その変な色のコンタクトを外して来い。灰色の目なんて…人を馬鹿にするにも程があるっ!」
金の髪も、左右違う瞳の色も、彼にとっては哀しい思い出しかない。
どんな思いでその瞳を隠し、心の傷を覆ってきたのか…。
どれほど哀しい思いをして、どれだけの苦しみをそのコンタクトで封印してきたのかは、彼自身しか知らない。
それなのに…
「酷いわパパ! 響さんは…っ…」
「いいんだ、千茉莉」
あたしの言葉を奪うと、彼は静かに口を開いた。
「神崎さん、この髪はもともとこういう色です。これを黒にしろと仰るなら、今すぐに染めても構いません。瞳の色がお嫌いなら、コンタクトは外しましょう。…ですが…片方は替える事が出来ません。
左目の色も生まれつきで、神崎さんを馬鹿にするつもりなどありません。
この容姿を不快に思われるのでしたら申し訳ありませんが、母より受け継いだものですので、俺にはどうすることも出来ません」
そういうと、響さんは右目のコンタクトを外した。
漆黒の闇を映した瞳が現れる。
その色はとても哀しげで…
あたしは居たたまれなくなって、響さんに抱きついた。
「響さん止めて!外しちゃダメ。あたしの為に傷を抉らないで。パパ、お願い、響さんをこれ以上傷つけないでっ!」
「千茉莉、いいんだ。俺は、この髪もこの瞳も大嫌いだった。
だけどこれは、顔も思い出せない母親から受け継いだ唯一の思い出だ。
大切にしたい。…そう思えるようになったのはお前がこの瞳をずっと覚えていてくれて、綺麗だと言ってくれたおかげなんだ。
だからお前の両親にだけは、この瞳を隠したくないし、本当の俺を知って欲しい。
もしもこの瞳を気味が悪いと思われるなら、それも仕方が無いさ。その事で忌み嫌われるのは今に始まったことじゃない」
「でも…」
「こういう事は慣れているからそんな顔するな。瞳や髪の色で俺自身が変わるわけじゃないだろう?
こればっかりは自分で変えることなんて出来ない。
だが中身は…自分の努力で形成するものだ。
俺は生まれつきの容姿ではなく、俺の努力で形成した俺自身を見てもらいたい。そのためにも隠すものなど無いほうがいいんだ」
響さんの言葉に、涙が溢れて止まらなかった。
どうしてこの人はこんなに強くて優しいんだろう。
「神崎さん。俺は千茉莉を愛しています。彼女は12年前、俺の心を救ってくれました。今年になって再会したのは、もう一度出逢うべくして出逢ったのだと思っています。
彼女が留学しても、どんなに遠く距離が離れても、この気持ちが変わることはありません。どうか交際を認めてください」
凛とした声が玄関に響く。
頭を下げた響さんのとなりで、あたしも一緒に頭を下げた。
「パパ、あたしね、響さんがいたから、大会でも頑張ることができたの。
子供の頃、彼に出逢えたから、あたしはパティシェになる夢を追い始めたの。
今のあたしが在るのは、全部響さんのおかげなのよ。お願い、パパ。あたし達の事を認めて? お願いします」
パパは暫く黙ってあたし達を見ていたけれど、やがて、玄関のドアを開けると背を向けた。
まだ怒っているのかと、諦め顔でその背中を見送っていると―…
「今夜は千茉莉の誕生祝いをするから…安原さんも来なさい。8時だ。遅れないように」
ボソリと小さな声で呟いて、言い終わるや否や、バタンとドアを閉めて行ってしまった。
その時パパが、どんな気持ちだったのか
どんな表情をしていたのか
それを知っていたら、あたしはとても驚いていたと思う。
怒っているわけでもなく…
哀しんでいるわけでもなく…
何かを懐かしむような…
切ないようにも、幸せそうにも見える表情(かお)をしていたことを…
この時のあたしたちは、知る由も無かった。
+++ 12月10日 第5話へ続く +++
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