Sweet  Dentist 12月10日(土曜日) 第7話



パパのお菓子が響さんの中に眠っていた記憶を呼び起こした。

それは、彼にとって大きな傷を一つ克服したことになる。
あたしは嬉しくて、パパやママの前だということも忘れて、響さんに抱きついた。

昼間響さんと話した後、焼いたというアリスさんのクッキー。
パパはどんな気持ちを込めてこれを焼いたんだろう。

きっと素晴らしい女性だったことを思い出して欲しいという願いをいっぱいに込めていたのだと思う。
お母さんに沢山愛されていたのだと…
その瞳も、髪も、全部お母さんから愛情と共に授かったものだと…
それを忌み嫌うものと考えないで欲しいと…
パパはそう伝えたかったのだと思う。

「神崎さん、ありがとうございました。ずっと忘れていた母の顔を思い出せました。写真の一枚すらなかったので…」

「今日の昼会ったときに、響君がコンタクトを取った姿を見て驚いたよ。彼女の瞳そのものだったからね。
だから君の口から『顔も思い出せない母親』と聞いた時はショックだった。
彼女は本当に素晴らしい女性だったよ。少しでも思い出してくれてよかった」

感無量の面持ちの響さんにパパは満足気に頷いた。

夕食の間も静かにあたし達を見守っていたのは、 響さんの中に、かつて自分の進むべき道を示してくれたアリスさんを見て、その息子の背負う重荷に胸を痛めていたのかもしれない。

「俺が一人前のパティシェになったら、是非作って欲しいとアリスさんに頼まれていたのが、君の誕生ケーキだったんだ。だけどそれを果たすことも出来ず、感謝すら述べることが出来なくなった事が、ずっと心残りだった。
彼女が望んだケーキではなかったが、このクッキーで君の心の傷が少しでも癒え、アリスさんの顔を思い出してくれたというのなら、彼女に恩返しが出来たようでとても嬉しいよ」

そう言って微笑んだパパは、とても幸せそうだった。
お菓子で誰かが幸せを感じてくれた時、パパはいつもこんな顔をする。
とても優しくて慈悲深いその表情には、娘のあたしでさえ近寄れないような神々しさを感じるのだ。
響さんの言う天使の金の羽が見える瞬間って、こういう時なのかもしれない、と思った

接点の無いパパとアリスさんが知り合った理由が解らず、頭を捻るあたし達に、パパは過去を紐解くように静かに話し出した。

アリスさんとパパの出逢いは、パパが15歳の夏休み直前。
当時中学3年生で受験を控えていたパパは、英語が大の苦手で、他の教科の足を引っ張っていたのだそうだ。
そこで、おばあちゃんの知り合いから紹介してもらった安原歯科医院(当時はまだこの呼名だったらしい)の奥さんに、受験までの半年間、英語を教えてもらう事になったのだそうだ。

アリスさんは当時23歳。
長い金髪に左右違う色の瞳という、とても神秘的で綺麗な女性(ひと)だったそうだ。

「初めて挨拶に行った時、彼女は2〜3歳くらいの天使のように愛らしい子供を抱いていたんだよ。
まるで教会に飾られている、天使を抱く女神の絵画を見ているようだった。
今でもあの出逢いは忘れられないね」

そう語るパパは、その時を思い出すように目を細めて響さんを見た。
8歳年上で、しかも天使のような愛らしい子供がいる大人の女性。
まだ中学生だったパパにとって、神々しいイメージの美しい彼女は、手の届かない女神のような存在だったのだという。

もしかしたらパパは、アリスさんに仄かな恋心に近い、憧れを抱いていたのかも知れない。

…でも天使のようなって?
…たぶん…いや、きっと100%の確率で、その子って、響さん…だよね?
…うーん…天使も随分堕ちたものだなぁ…なんて思ったことは、モチロン口が裂けても言えないけど、どんな子供だったんだろう。
見てみたかったなぁ。

あたしがそんな事を考えている間も、パパは思い出話を続けていた。

先ほどのクッキーは、パパが初めて挨拶に行った時に頂いたもので、その美味しさにパパはとても感激したのだそうだ。
色んなお菓子でもてなしてくれるアリスさんだったが、このクッキーは帰り際、ほぼ毎回お土産に持たされた。
その理由が『【響坊や】が毎日のようにママにオネダリをして作ってもらっていた大好物だったから』だそうだ。

パパが響さんの為にクッキーを選んだ理由はそこにあったらしい。
なんだか微笑ましいエピソードに、頬が緩んで幸せな気分になったが、響さんは【響坊や】と呼ばれたことが恥ずかしかったのか、そっぽを向くと、黙ってクッキーをもう一つ口に運んだ。

ゆっくりと何かを思い出すように目を閉じる。

きっとおぼろげな記憶を必死に辿って、お母さんの姿を思い出そうとしているのだと思った。

響さんの心が記憶を辿り、胸の奥深くへと還っていく様子見ながら、パパは更に話を進めた。

4代続いた老舗の和菓子屋の5代目として育ったパパは、学校給食のゼリーとかプリンくらいしか洋菓子を知らなかったそうだ。
ケーキなんて年に一度、クリスマス給食のショートケーキくらいしか見たことも無かったというのだから、あたしにしたら信じられない。

本当に美味しい洋菓子を知ったパパは、週に2回お邪魔するたびに、お菓子の魅力に益々ハマって、いつしか自分で作りたいと思うようになっていった。
だけど、職人気質のおじいちゃんの手前、恐ろしくて自宅で洋菓子を作るなんて出来なかったらしい。

あたしの中の記憶には、いつだってニコニコ笑っている優しいおじいちゃんしかいない。
だけど、跡継ぎであったパパに対しては、とても厳しい人だったそうだ。
パパが和菓子ではなく、洋菓子の道を歩みたいと言った時には、随分と対立したのだと聞いた事がある。
だからかもしれない…。
あたしがパパと同じ道を歩むことを決めたとき、「千茉莉も洋菓子の道に進むのか。頑張れよ」と励ましてくれたおじいちゃんは、少し寂しそうに笑ってたっけ。

そんなおじいちゃんに背いてでも、パパの気持ちは止められなかった。
そして、アリスさんに英語を教えてもらった後、時々キッチンを借りて作らせて貰うようになったそうだ。
もちろん英語の成績が上がらなかったら話にならないので、凄く頑張ったらしい。
おかげで2学期の成績で見事に苦手科目は克服されたそうだ。

『苦手を作るのは自分の心だ』

パパはあたしに幼い頃から、事あるごとにそう言った。

『苦手』と口にするのは、努力する自分から逃げる事。
それは上手く出来ない自分への言い訳でしかない。
下手なりに努力を続けることで『苦手』は克服できるのだ。
『苦手』だから出来ないのではなく…
『苦手』と思う心が出来なくさせているのだ…と。

パパはあたしにそう教えてくれた。
それは、きっとこの時に学んだ事なのだと思う。

アリスさんのお菓子と出逢った事は、 パパの中の価値観や、自分の可能性を大きく伸ばす切っ掛けとなったのだと思う。

たかがお菓子一つ。

だけど、時にそれは、人の心を大きく揺さ振り人生すら変えることもある。

アリスさんのお菓子は、確かに、パパの人生を大きく変える切っ掛けとなったのだ。

「さっき千茉莉が響君との交際を認めて欲しいって頭を下げただろう? 
留学の事も、響君の事も、自分でしっかりと考えて意志を持って歩いている事に、実はちょっと感動したんだ。
親に何かを許してもらう時って、凄く勇気が要るだろう? …今日の千茉莉を見てて、お前はあの頃のパパよりずっと勇気があると思ったよ」

そういうと、パパは小さく溜息を吐いた。

「パパはね、洋菓子の道へ進もうと決めてからも、おじいちゃんにそれを中々言い出せなかったんだ。
絶対に許してくれないだろうと、頭から思い込んでウジウジ悩んでいてさ、受験が終わって卒業しても、このまま英語を教えてもらう口実で、お菓子を作りに来たいってアリスさんに洩らしたことがあったんだ。
そしたらさ…『あなたの人生でしょう?自分のやりたい事をしなくてどうするの? 最初から出来ないと決めつけたら夢も何も無いわ。お父様を恐れていたら何も学べないし、前へ進むことも出来ない。あなたは永遠にお父様を越えられないわ』って言われたんだよ」

一呼吸置いて、再びゆっくりと口を開くパパ。
その姿が、幼かった自分を自嘲しているようにも見えた。

「ハンマーで頭を殴られたような衝撃だったよ。俺はなんて情けない男なんだろうって思ったね。
それで腹を括ったんだ。どんなに親父に反対されてもいつかきっと夢を果たすってさ。
さっき響君もアリスさんと同じことを言っただろう? 親子で同じ事を言われるなんてな。…本当に驚いたよ」

その偶然に、あたしは響さんの中に、確かにアリスさんの残したものが息づいていることを感じることが出来た。
アリスさんがどんな理由で響さんを置いて出て行ったのかは解らない。
だけど、彼女の愛情は、彼の中にこんなにも深く刻まれていた。

そのことが嬉しくて…

良かったね…

そう気持ちを込めた視線を響さんへと送った。

彼は無言であたしを引き寄せ、肩に額を乗せると―…


声をあげる事無く、静かに涙を流した。





+++ 12月15日 第8話へ続く +++


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