彼を護りたいと思った…。
あたしには大きな力は無いけれど…
それでも彼が肩を必要としているときに、いつでも傍で差し出してあげたい。
彼が抱擁を求めるときには、抱きしめてあげたい。
彼が独り抱えてきた苦しみも…
孤独に涙したであろう幾多の哀しみも…
これからは一緒に受け止めてあげたい。
喜びも、哀しみも、全部一緒に分かち合い、共に生きてゆきたいと…
この時、強く思った―…。
響さんが顔を上げるまで、パパもママも静かに見守っていてくれた。
長い長い時間、心の奥底に抱え閉じ込めていたものを解き放つのは、痛みや苦しみを伴うものなのかもしれない。
急げば傷つき、血が噴き出す。
時には長い間に溜まった膿が流れ出すこともあるだろう。
だけどそれを乗り越えて、全てを吐き出したとき、彼は本当の意味で過去を乗り越えお母さんと向かい合うことが出来るのだと思う。
だから、あたし達は静かに待った。
響さんが自分の中に息づくお母さんと向き合い、語り、そしてそれを受け入れるまで…。
やがて彼はゆっくりと顔を上げて、パパに頭を下げた。
「俺は母親の事を、遠い記憶に僅かに残るイメージ以外、何も覚えていませんでした。
今日話を聞くまでは、母が俺を愛していたのかどうかも、思い出せなかった。
でも…今は感じることが出来ます。 俺は…本当に愛されていたんですね」
「ああ、そうだよ。アリスさんは本当に君を愛していた。とても可愛がっていてね、俺の勉強の間も、君はお母さんから片時も離れない甘えん坊だったんだ。
膝の上から降りなくて勉強の邪魔になると、いつもアリスさんが困っていたよ。
俺は全然構わなかったけどな。【響坊や】はお母さんから離れるとピイピイ泣いて五月蝿かったし、むしろ膝の上でも大人しくしてくれているほうが、勉強もはかどったからな。
あの頃まだ2歳くらいだったと思うけど、まるでフランス人形みたいに可愛くて女の子みたいだったんだぞ?」
シンミリとした雰囲気を払拭するように、ワザと【響坊や】を強調して、笑いを誘うパパ。
響さんはそれに合わせるかのように、あたしに向かって「覚えてねぇし」と拗ねたように言った。
二人がまるで仲の良い親子か兄弟に見えなくもなかったりして、あたしは心の中がふんわり温かくなって、嬉しくて仕方が無かった。
パパと響さんはすっかり打ち解けてしまったようだ。
特にパパは、響さんを気に入ってしまった様子で、まるで自分の息子のように気に掛けている。
…今日の昼間とは態度が大違いですよ?
響さんがついに観念してお酒に付き合ってくれたことが、益々パパの機嫌を良くしたらしい。
パパは男の子が欲しかったから、きっとこうして息子とお酒を飲むことに憧れていたのかもしれない。
…まだ息子じゃないけど。
でも、響さんがパパの息子になるのは、そんなに遠い未来の事じゃないのかもしれない。
だって、さっきの彼の涙を見たときから、あたしの中で確実に何かが変わり始めている。
ついこの間、結婚の話をされた時は、まったく現実味が無かった。
けれど今は…。
「それにしても、オッサンは何をしてたんだ? 彼女が響君の中に残したものはこんなにも沢山あるのに、それをちゃんと教えてやらなかったなんて…」
あたしがぼんやりと考え事をしている間に、いい加減お酒が回ってきたパパの怒りは『オッサン』なる人物に向かっていたらしい。
慌てて会話に参加しようと、すかさず「オッサンって誰?」と質問した。
「響君のお父さんだよ。写真の一枚も無いなんて、どう考えてもおかしいじゃないか? 子供に母親の思い出を与えないなんて、オッサンのヤロー父親として最低だな」
「父親はいなくなった母親とそっくりな俺のこの容姿を嫌っていたんでしょうね。仕事が忙しい事を理由に、俺を避けていましたから。父親と遊んだ記憶なんてありませんし…」
「響君を避けるって? 俺の知っているオッサンだったら、そんな事ありえないと思うぞ?」
パパは、響さんのお父さんがどれほど家族を大切にしていたかを、身振り手振りで語り始めた。
当時、響さんのお父さんは、中学生だったパパの目から見ても、とても家族を大切にしていたらしい。
愛妻家で有名な彼は、ちょっとでもパパとアリスさんが二人きりになるのが不安で、しょっちゅう様子を見に来ていたそうだ。
だから響さんがアリスさんの膝にいるのを見て、安心して仕事に戻るというのは、ほぼ毎回の恒例行事。
おまけにパパがそれをからかうように「オッサン暇だなぁ?」などと言うものだから、毎回デコピンをされるのも恒例行事だったそうだ。
「ったく、あの人は、俺が君とアリスさんと三人でいると、ヤキモチを妬いて必ず邪魔をしに来たんだ。
27歳にもなるいい大人が嫉妬して12歳も年下の俺にムキになって、デコピンしてくるんだからガキみたいだよな?」
まるで痛みを思い出すかのように、おでこを擦る仕草をするパパを見て、先日の宙を思い出した。
…デコピン…って
そういえば確か、響さんも宙にデコピンしていたわよね。
12歳の年の差と、パパ達二人の行動…
おまけにパパが響さんのお父さんを『オッサン』と呼ぶことも…
宙が時々響さんをそう呼ぶのを知っているだけに…
なんだかパパ達の関係が、宙と響さんに重なって妙な気持ちになった。
「俺はオッサンが響君を抱いて遊んでいるのを何度も目にしたことがあるし、君も父親になついていたと思う。
少なくともアリスさんがいた頃は、君たちは本当に幸せそうだったよ。
オッサンはアリスさんに惚れこんでいたから、あんなことがあってショックだっただろうと思う。
アリスさんを失ってから暫くは仕事もせず、随分財産を注ぎこんで捜したって話を聞いた事があるからな」
「財産を注ぎこんで捜した? そんな事初めて聞きます。それに『あんなこと』って?
…神崎さんは、俺の母がいなくなった理由を知っているのですか?」
「…え? 君は知らないのか?」
「幼い頃から何度か父に質問したことはあります。でも、
父親は母の事に触れられるのを凄く嫌がって、少しでもその話に触れると不機嫌になりましたから、幼心に、母の事を訊くのはタブーだと悟ったんです。だから今もその理由は知りません」
「…そうだったのか。それもまた辛いな」
「父は今でもあの場所で母の帰りを待っています。…そんなに好きならどうして別れたりしたのか、俺には理解できません」
「……そうか…。…あの人はまだ待っているのか。…どうしても認められないんだな」
「神崎さん、知っているなら教えてください。どうして母は俺を捨てて出て行ったんですか?」
「君を捨てて出て行っただって? 誰がそんな事を言ったんだ? アリスさんは君を捨てなんていない」
『捨てた』と言ったことがよほど不快だったのか、パパは僅かに声を荒げた。
「いいか、響君。彼女の名誉の為に言うが、アリスさんは誰も捨てたりしていない。
彼女だってまさか二度と戻れなくなるんなんて、あの時は思わなかったんだよ」
その時の事を思い出すように、パパはとても哀しげに目を伏せた。
眉間に寄った皺が、パパが語ろうとしている真実の哀しさを物語っているようで、あたしはその先を聞くのが怖かった。
「彼女はイギリスの貴族の出身で、日本人との結婚を実家の両親に認めてもらえていなかったんだ。
勘当同然に結婚したらしいんだが、孫の君が産まれた事もあり、両親も話し合いの場を設けてくれるなど、態度を軟化させた為、一度帰国することにしたんだよ。
だが、まだ小さかった君を長時間のフライトでイギリスまで連れて行くことをアリスさんは迷い、結局一人で旅立ったんだ。
ほんの1週間ほどで帰る予定だったんだ。
両親が認めてくれたら、今度は響君とオッサンの三人で里帰りするのだと、嬉しそうに語ってくれたのは、最後の家庭教師の日で、俺の受験の数日前だった」
そこまで言うと、パパは大きな溜息を一つ吐いた。
あたしは無意識に身体を硬くして、パパを見つめた。
響さんは覚悟を決めたように口元を引き締め、次の言葉を待っている。
パパは静かに口を開いた。
「それから暫くして、彼女は一人で旅立ったんだ。帰国後、俺の合格発表の結果を聞くのを楽しみにしていると言っていたんだ。
それなのに…彼女は二度と帰らなかった」
「どうして? …だって直ぐに帰ってくるはずだったんでしょう?」
「帰って来るはずだったよ。飛行機が…墜落しなければね」
あたしはとっさに響さんの顔を見た。
彼の顔は蒼白で、噛み締めた唇は色を失っていた。
飛行機の墜落
ショッキングな事実の前に、震えが止まらなくなる。
制御の利かない指に必死に力を入れると、胸の前で両手を組んだ。
「…乗客は全員死亡したと報じられた。オッサンは捜索が打ち切られた後も、ずっと捜し続けていたらしいが…」
「……全員死亡って嘘でしょう? だって母は生きているんですよ?」
響さんの言葉に、今度はパパが驚く番だった。
「何だって!? 生存者がいたとは聞いていないぞ?」
「…俺は祖母から母は死んだと教えられて育ち、中学生くらいまではそれを信じていました。
だけど珍しく父が酔って帰ってきたある日、俺の記憶の中で初めて自分から母の事を洩らしたことがあったんです。
母は…イギリスで生きていて、父は母との約束を護る為、帰ってくるのを待っている。
都市開発で立ち退きを言い渡されているにも関わらず、あの場所でクリニックの営業を続けようと立ち退きを拒否しているのは、母の為なんです」
あの場所でクリニックを営業する事に拘っている。
そういえば、初めて真由美さんと会った時、クリニックを存続させたかったら結婚しろとかそんな事言っていたわよね?
真由美さんのお父さんは地元の有力者だ。立ち退きを白紙にする力があったかもしれない。
だからこそ響さんのお父さんは、響さんと真由美の結婚を望んでいたのかもしれない。
「生存者がいたという報道は聞いていないが、もしもそれが事実なら、何故オッサンは迎えに行かないんだ?」
「それは解りません。俺は今まで
母に捨てられ、父には嫌われていると思っていたので、そんな事を考えてみたこともありませんでしたから。
ですが…今日、色んな事実を知って、俺自身が大きな誤解をしていたことも分かりました。
だから…父に真実を問い質してみたいと思います」
響さんのこれまでの傷を思うと、彼の素直な気持ちに胸が痛んだ。
けれど、その瞳は何かを吹っ切ったように澄んでいて、とても穏やかだった。
その後、響さんはパパに付き合ってかなりの酒量を飲む事となり、愛車だけ我が家に一泊していくこととなった。
帰り際にタクシーの前で「ぜってー親父に本当の事を吐かせてやる」と、気合をいれてた響さん。
「話し合うのは酔っていないときにしてね」と言うと、クスクスと笑ってから、急に真顔になった。
「なぁ、千茉莉。もしも本当に母さんが生きているのなら…親父がヨボヨボのじいさんになる前に、母さんを迎えに行ってやらないといけないよな?」
「…うん、そうだね」
「俺…どんな顔して母さんに会えばいいんだろう? ずっと俺を捨てたと思い込んでいて…憎む心が無かったとはいえないからな」
「…お母さんだって不安だと思うわ。幼い響さんを迎えに行けなかったこと、ずっと悔やんでいると思う。
きっと憎まれていると思っているんじゃないかしら?
もしそうだったら、気にしないでって、ちゃんと言ってあげなくちゃね?
だからこそ、お父さんと話し合って事実を明らかにしなくちゃ。
お母さんは、響さんが迎えに来てくれるのを待っている気がするの」
あたしはそう言うと、パパから預かったクッキーを響さんに渡した。
「お父さんに食べさせてあげて。…響さんと同じ効果は得られるかどうか解らないけど、もしかしたら、懐かしく思い出してくれるかもしれない。
ううん…アリスさんがきっと思い出させてくれると思うの」
「ああ…そうだな。迎えに行くときは千茉莉も一緒に行ってくれるだろう?」
「あたし?」
響さんを見上げると、同時にギュッと抱きしめられ、小声で耳元に囁かれた。
意外な台詞に驚いて聞き返そうとすると、お休みのキスを頬に残して、素早くタクシーに乗り込んでしまった。
唇の触れた頬を押さえ、ポカンとしている間に、響さんは笑いながら軽く手を振りタクシーを出した。
…彼の頬が少し赤かったように見えたのは、今にも消えそうな外灯の作った影のせいだったんだろうか。
黒い車体は滑るように走り出し、夜の闇に消えていく。
12月の冷たい夜風が、唇の余韻の残る頬を撫で、熱を奪っていった。
去り際に残されたテノールが、甘く切なく耳に残って、胸に熱いものが込み上げてくる。
『お前が傍にいてくれないと…とても会えそうに無いんだよ』
遠ざかっていく車が涙に滲んでいった。
心の傷は簡単には癒えない。
彼の傷は、今日の切っ掛けで、ほんの少し小さくなったに過ぎないのだ。
あたしには大きな力は無い
それでもあなたが必要としてくれるなら
求めてくれる限り傍で支えてあげたい
ねぇ…お願い。
独り抱えてきたその苦しみをあたしに預けて…
寂しさや孤独に囚われた夜はあたしの胸で泣いて…
あなたの全てを共に受け止めるから…。
お願い―…
もう二度と独りで苦しまないで。
小さくなっていくテールランプが、名残を惜しむかのように光って角を曲がる。
彼が視界から消え去っても、まだ傍にいるようで―…
あたしはその場から暫く離れることが出来なかった。
+++ 12月10日 Fin +++
12月15日 /
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