12月15日、午後5時。
ホテルにチェックインした俺は、とりあえずスーツケースからスーツを取り出した。
今夜、千茉莉を父に紹介する事になっているのだ。
「千茉莉、とりあえず今夜着るものだけ出しておいたほうがいいぞ。皺になっていたら困るだろう?」
俺の声かけに、慌ててスーツケースを引っ張り出す。
暫く迷った挙句、白いワンピースを取り出した。
清楚ではあるが、少々若く見える気がする。
あ、いや、年相応に見えるのだが、俺の希望としては父の手前、もう少し大人っぽく落ち着いて見えるほうが良いという意味でだ。
「俺が買ってやったドレスは? 持って来たんだろう?」
「う…ん。でもなんだか恥ずかしくて」
スーツケースからリサイタルのときの桜色のドレスを引っ張り出すと、頬を染める。
「無理して背伸びしているように見えない?」
「大丈夫。むしろそのくらいのほうが大人っぽくて俺とバランスが取れるぞ」
「…あ、そうよね。響さんもついに30代だものね。あたしと益々年の差が…んっ!」
五月蝿い!と、その口を問答無用で塞ぐと、お仕置きのキスを容赦なく堪能する。
酸欠気味で腕の中でぐったりとする彼女をようやく開放して、ニヤリと一言。
「そうそう、今日は俺の誕生日だもんなぁ。30代の俺の体力が千茉莉の10代の体力にどの程度劣っているのか、ついに確かめる日が来たんだよなぁ?」
グッと言葉に詰まって、その場にヘナヘナと座り込む千茉莉。
やはりまだ心の準備が出来ていないらしいと、笑いながら抱き上げると、ソファーに座らせた。
「バーカ、冗談だよ。嫌がる女を取って喰うほど俺は飢えちゃいねぇって。そんなにビビんなよ」
「…ん…決心して来たつもりだったんだけど…ね」
「いいよ。時間はまだ沢山ある。俺達は始まったばかりだろう? それより…
本当に一緒に来てくれるなんて…嬉しかったよ。ありがとうな」
「ううん、あたしも傍にいたかったから。…でも5日間でこんなに色んなことが動くなんて、思ってもみなかったわ」
俺も同じ事を考えていただけに、思わず頬が緩んでギュッと抱きしめる腕に力がこもった。
「ああ…こんなことになるなんて…本当に信じられないよ。全部千茉莉のおかげだ」
「…あたし?」
「そう、千茉莉に出逢ったから…俺は幸せになれた。失っていたものを取り戻せたし、大切なことにも気付いた。
何より俺を癒し、愛してくれている。…この先どんな事があっても、俺はお前さえいてくれたらどんな事でも乗り越えられると思うよ」
「響さん…」
「…千茉莉…抱きしめて?」
千茉莉の両腕がしなやかに伸びて俺を抱きしめる。
背中に触れる小さな手の温もりが、どうしてこんなにも安心できるのかといつも思う。
「ずっと傍にいて…支えていてくれるか?」
「…うん…ずっと傍にいるから…安心して」
自分の声がこんなにも頼りないと感じたことがあっただろうか。
母の事となると、俺はまるで道に迷った子供のように不安定になる。
「怖いんだ…母さんの事、確かめるのが…」
「大丈夫。あたしがいれば響さんは無敵よ。きっとお母さんの事もちゃんと受け入れて乗り越えられる」
「―…ああ、そうだな」
フワリと香り立つ彼女独特の甘い香りに包まれ、徐々に波立つ心が凪いでいく。
ゆっくりと顔を上げると、穏やかに微笑む千茉莉に、還るべき場所に出逢った様なホッとするものを感じた。
「ずっとこうしている? それともシャキッとする?」
「…こうしていたい…けど、シャキッとしなきゃな」
「じゃあシャワーでも浴びたら? 少しは気持ちが落ち着くかもしれない。お父さんとの約束までにはまだ時間があるわ」
「ああ…そうだな。そうするよ」
千茉莉に勧められるままバスルームに篭もると、
いつもより熱めのお湯を満たしバスタブに身を沈めた。
シャワーでもよかったのだが、少しでも高ぶった気持ちを鎮めたい気持ちが強かったからだ。
大きく息を吐きながら伸びをすると、手足を可能な限り伸ばしてみる。
日本のホテルのバスタブより大きく感じるのは、異国の地という先入観からだろうか。
異国の地…
そう、俺たちは今朝のフライトで日本を発ちイギリスへとやって来た。
時差があるため、日本では既に日付が変わっているが、俺達にはいつもより長い1日が続いている。
別に婚前旅行とか、駆け落ちとか、そういった類の事ではない。
俺の父がイギリスに来ているからだ。
そしてその理由が、母親に纏わることであるが故、俺は半ば職務放棄を余儀なくされる形で空を飛ぶこととなったのだ。
千茉莉の誕生日の夜、タクシーに乗り込んだ直後から、俺の記憶でも未だかつて無い、超多忙を極める5日間が始まった。
今ここに二人でいるのは運命に引き寄せられている―…と言えばそうかもしれないとも思う。
そう、多分…
俺達が初めて出逢った12年前から、運命の輪はこの日に向けてゆっくりと回り始めていたのだ。
だがこの5日間で、それはゆっくりと…ではなく、ハムスターの回し車のような勢いのフル回転となっていた。
俺の人生30年が、僅か5日で一足飛びにひっくり返る程、事態が動いたと言っても過言ではないこの勢いに、流石の運命の輪もぶっ壊れるんじゃないか?などと、訳の分からない事が脳裏を掠めていた。
ハッキリ言って自分のおかれている状況に、いまひとつ現実味が無く、少々戸惑っているのが現状だ。
それを如実(にょじつ)に表すような先ほどの不安定な自分の発言。
…いくら心を許した恋人とはいえ、あれはイタダケナイ。
千茉莉だって俺の父と会うことに緊張していないはずが無い。
ただ、俺の事を心配する余り、自分の事が後回しになっているだけなのだろう。
12歳も年上の俺が泣き言を言ってどうする? と自分を振り返り、シッカリしなければと反省した。
ここまで来てしまったのだ。
その時はすぐ目の前まで来ている。
もう目を逸らし続けた傷から逃げるわけにはいかない。
自分の過去と向き合う為にここまで来たんだ。
そして…
そのために千茉莉が一緒に来てくれたんじゃないか。
照明を反射しながら壁伝いに流れる水滴をぼんやりと眺める。
滑り落ちる雫が、タクシーの中から見つめた、あの夜の外灯の光の筋と重なった。
+++ 12月15日 第2話へ続く +++
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