千茉莉の誕生日の夜、俺はタクシーに乗り込んで直ぐに、父に電話をし実家へと向かった。
既に日付が変わろうとしている時間に、父が起きているかは微妙だったが、翌日から1週間の休みを取っている父を、どうしても今夜捕まえて話をしておきたかった。
別に父が休暇にどこへ行こうが何をしようが、普段なら気にもならないのだが、今回ばかりは千茉莉の父親から聞いた事実を確かめなければ、一週間生殺しの状態で待ち続けなくてはならなくなる。
それは避けたかった。
今すぐに母の生死を確かめたい。
今すぐに父の本当の気持ちを訊きたい。
今すぐに真実を知りたい。
その気持ちは実家が近づくにつれ大きく膨らんでいく。
これまであえて避けてきたはずの事を、一度受け入れると決めたら、自分でも驚くほどに勢いが付いていた。
多少アルコールの力を借りていた為だと思うが、それは仕方がないだろう。
素面で父に向かって母の事を話して欲しいとは、幼い頃のトラウマでとても言えそうに無い。
千茉莉にはお酒の入っていないときに話せと言われたが、今夜この勢いで話さないと、もう二度とこんな気持ちにはなれない気がしていた。
幸い父はまだ起きており、突然の訪問を驚きながらも受け入れてくれた。
父と二人きりで向き合って話をしたのは、いつぐらいぶりだっただろう?
父のクリニックで毎日のように顔を合わせても、二人きりで親子らしい会話などした事も無い。
親子としての会話など、多分、歯科医になると決意し、それを父に報告したとき以来じゃないだろうか?
クリニックで働き出してからは、親子と言うより上司と部下の関係のほうが会話もスムーズだった為、あえて親子らしい会話を避けていた部分もあったかもしれない。
次から次へと持ち込まれる見合い話が五月蝿くて家を出てからは、プライベートな会話を極力避けていた自分に、今更ながらに気がつく。
もしももっと色んな話をしていたら、父も俺に母親の事を話す機会があったのかもしれない。
父は俺に余り関心がないのだとずっと思っていたけれど…
もしかしたら、俺にどう接していいか分からなかったんじゃないかと、千茉莉の父親の話を聞いて思うようになっていた。
「いったいどうしたんだ?こんな時間に、しかも急に話しがあるなんて…。お前らしくないな」
そう言って居間のヒーターをつける父の背中を見つめ、改めて随分小さくなったのだと思い知った。
俺が30になるのだから、父も年を重ねていて当たり前なのに、何故かとてもショックだった。
だが、俺が成長したように、父もまた、この二十数年で変わっただろう。
今ならば俺から母親の事を切り出しても、きっと答えてくれる。
そんな気がしていた。
「親父、明日からまた何処かへ出かけるんだろう? だからどうしてもその前に話しておきたいことがあってさ」
「なんだ? そんなに重要なことなのか?」
いざ父を目の前にすると、なかなか話を切り出せない。
すると、父は落ち着かない俺の様子に何を勘違いしたのか、いきなりとんでもない事を言い出した。
「お前、もしかして結婚することにしたのか?」
「はあっ?」
「だってこの間、本気の彼女がいるから、見合いはもう絶対に持ってくるなって言っただろう?」
父が乗り気だった真由美との婚約を断った理由が、本気で付き合っている相手がいるからだと言ったのだから、そう思うのは自然の流れだろう。
だが、まさか相手が12歳も年下の、しかも高校も卒業していない18歳になったばかりの女の子だとは思わなかっただろう。
恐る恐るそれを話した時の父の顔ときたら…
気分の滅入ったとき思い出すと良いかもしれない。と、思ったほど何度でも笑えそうな永久保存版の間抜け顔だった。
「18歳いぃ? まだ高校も卒業していないのか?…しかも駅前の『SWEET』って…神崎 充(みつる)の娘かぁ?」
神崎 充と言われてピンとは来なかったが、そういえば千茉莉の家の表札にそんな名前があった気がする。
余裕に見えて実は密かに緊張していたらしい自分に、改めて気付いて苦笑した。
「ああ、その神崎さんが俺の為にこれを焼いてくれたんだ。これ…親父に食べて欲しいんだ」
透明な包みに入ったクッキーを受け取った瞬間、父は明らかに顔色を変えた。
包みを開く指が、震えていたように見えたのは錯覚ではなかったと思う。
もどかしげに一つ取り上げると、その香りに何かを思い出すように瞳を閉じた。
その表情がとても切なげで…
きっと母を思い出しているのだろうと思った。
やがて父は恐る恐るそれを口に運んだ。
次の瞬間
驚きに目を見開いた父は母の名を呟いた。
…アリス―…
父の声音で聴く初めての母の名前。
記憶の奥底に眠っていた、二人の幸せな笑顔が蘇る。
母を愛しむ父の声は、とても優しくて―…
切なさに身を焦がすその声が、とても寂しげで―…
俺は、父が今でも深く母を愛していることを改めて知った。
初めて父の心に触れ、傷の深さを感じた俺は、どうしてもっと早くに父の本当の心に触れる事をしなかったのだろうと後悔した。
「俺さ…母さんの事、知りたいんだ」
千茉莉の父親から知り得た事実。
そして僅かに記憶の奥底から思い出したこと。
ポツリポツリと話す俺に、父は黙って耳を傾け、手の中のクッキーを見つめていた。
俺が話し終えるまで、父は一言も話さなかった。
最後まで聞き終えると父は黙って立ち上がり、ついて来いと身振りで示し、自分の書斎へと向かった。
この部屋へ立ち入ることは禁止されており、常に鍵が掛けられていた。
たった一度、好奇心に駆られこっそりと入った事があったが、後で酷く怒られた記憶がある。
その時の父の形相は、幼い俺にとって、まるで鬼のように恐ろしかったことを覚えている。
それ以来、俺は一度も父の書斎に入った事がなかった。
父に続いて部屋に入ると、ひんやりとした空気が漂っていた。
最近は余り使っていないのか、きちんと整頓された書斎のあちこちに、埃が薄い膜を作っていた。
父はそのまま書斎を横切り奥の納戸を開いた。
そして、そのまま納戸の中に入り込むと、その奥にあったもう一つの小さなドアの鍵を開けた。
納戸の中に更に扉があるなんて、聞いた事が無い。
自分の実家にそんな秘密めいたものがあるなんて、全く知らなかった俺は、「先祖代々の宝でも隠してあるのか?」と、首を伸ばして覗き込んだ。
そこにあったのは―……
俺の記憶に蘇ったばかりの母の笑顔だった。
「…か…あさ…ん?」
部屋いっぱいに溢れる母の笑顔に、俺は暫し呆然と立ちすくんだ。
「まあ、座れ」
放心する俺にクッションを一つ手渡し、父はその場に座り込んだ。
受け取ったパッチワークのクッションに見覚えがある気がして、部屋中ありとあらゆる場所に飾られた、母の写真を見つめながらぼんやりと記憶を辿る。
霞が掛かった記憶の中に、確かにこのクッションは存在していた。
ハッキリとした記憶にはないが、多分母が作ったものだったのだろう。
4畳半ほどの小さな部屋だが、ここには母親に関する全てのものが保管されているらしく、どこか懐かしい香りが仄かに漂っていた。
所狭しと飾られた写真の中に、幼い俺を抱いて幸せそうに微笑む母を見つけ、
胸が締め付けられるように痛くなった。
「母さんのものは、何一つ残っていないと思っていたよ」
ボソリと呟く俺に、父は瞳を伏せ苦悩の表情を滲ませた。
「お前の為だったんだ…」
擦れた声で理由を話し始めた父。
その内容に父の深い哀しみを感じた俺は
声が詰まって何も言えなくなってしまった。
+++ 12月15日 第3話へ続く +++
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