「アリスがどんな姿でも、お前は会いたいと思うか?」
その声はとても静かで哀しげだった。
どんな姿でも…
その言葉に父がこれまで胸の奥深くに留めてきた、苦しみが凝縮されている気がした。
俺に語ることを憚(はばか)られたというほどの母の状態とはどれほどのものなのか、考えるだけで痛ましかった。
「身体が不自由だからって、俺の母親であることには変わりない。どんな形だって受け入れられるさ」
「アリスにはお前が解らないかもしれないぞ?」
「―っ!…どういう事だ?」
父は瞳を閉じ、込み上げてくるものを堪えるように暫くの間黙り込んだ。
暫くして覚悟を決めたように顔を上げると苦しげに話し始めた。
その声は擦れてとても小さかった。
だが、その内容に受けた衝撃は…
計り知れないほど大きかった。
「アリスはずっと目覚めていない。この25年、ずっと眠り続けている」
二人しかいない狭い部屋が、音も重力も無い無限の空間になった気がした。
事情を説明する父の声が、空(くう)に吸収され、耳に入る前に消えていく。
そんな感覚だった。
母が生きていると知って嬉しかった。
いなくなった事情を知って、恨む気持ちも無くなった。
帰れないなら、せめて会いに行きたいと、そう思っていたのに…。
たとえ会いに行っても、
声を聞くことも、その微笑を直にこの目で見ることも叶わない哀しい現実…。
ショックだった。
僅かにでも期待した分だけ、その失望は大きかった。
25年前、母を迎えに行った父は、今の俺と同じ気持ちだったのだろうか?
いや…
多分、もっと衝撃は大きかっただろう。
その失望は世界の終わりにも等しくて、きっと希望のカケラも残らないほどだったに違いない。
これだけ時間が経った今ですら、母の状態を語る父の姿は、あまりにも小さく弱々しい。
長い年月、たった一人で苦しみを抱え、癒されることの無い心は今も尚、深い哀しみに耐えている。
もしも自分が父の立場であったなら…
そう思うと、いつの間にか小さくなった背中が痛ましくて仕方が無かった。
「飛行機事故から1年と5ヶ月…
ようやく家族で暮らせると喜び勇んでイギリスへ向かった俺を空港で待っていたのは義弟のアンソニーだった。
顔を見るや否や悲痛な面持ちで事故を告げられて目の前が真っ暗になったよ」
声にならない声を絞り出すように語り始めた父は、その時を思い出すかのように、眉を顰め眉間に深い皺を刻んだ。
視線は俺ではなく、一番大きな写真へと向けられていた。
結婚式のときのものらしく、純白のドレスを着た花嫁は幸せそうに若き日の父の隣で笑っている。
この日、二人は未来が幸せであると信じていたはずだったのに…
父が話している間、俺はその写真から目を逸らすことが出来なかった。
「その日の朝、病院で最後の検査を行ったアリスは、珍しく帰りに病院の近くの公園へ寄りたいと言い出したそうだ。
事故後は家に篭りがちだったのに珍しく積極的だったので、アンソニーは喜んで付き合ったそうだよ」
愛する夫が午後の便で迎えに来る。
数日後には夢にまで見た息子と再会できるのだと、この日を心待ちにしていた母はよほど嬉しかったのだろう。
日本に残してきた俺がどんなに可愛く賢かったかを瞳を輝かせて語り、早く会いたいと幸せそうに微笑んだそうだ。
虫の知らせとでも言うのだろうか。
事故以来塞ぎがちだった事が嘘のように、このときの母は良く笑い、良く話したらしい。
もしかしたら、本能的にこの後に起こる悲劇を予感していたのかもしれない。
アンソニーが「そのうち遊びに行くよ。姉さんご自慢のヒビキにも会いたいしね」と答えると、母は満面の笑顔で「約束よ」と言ったそうだ。
「天気が良いので公園の売店でスコーンとダージリンティーを買ってお茶にしようとアンソニーが誘うと、彼女は久しぶりに見た満面の笑みで応えたそうだよ。
それがアリスの最後の笑顔だった。アンソニーが売店へ行っている僅かな時間に事故は起こったんだ」
父の声が震えた…。
25年前の出来事であっても、その傷が未だ癒えない父にとって、その出来事を語るのはどれほどの苦悩なのか。
両の拳は膝の上で硬く握り締められ、肩が小刻みに震える姿は、怒りに震えているようにも泣いているようにも見えた。
「アリスの事故はまったく予想外の出来事だった。
公園でサッカーをしていた学生達のボールがぶつかったんだ。
彼女はその衝撃でバランスを崩し、車椅子は制御を失い左右に大きく揺れながら暴走してしまった。
気付いて戻ってきたアンソニーも追いつくことが出来ないほどのスピードだったらしい」
あまりの事に俺は思わず息を呑んだ。
父は一旦言葉を切り、次の言葉に備え呼吸を整えるように息を継いだ。
「更に最悪なことに、その時…アリスの前に幼い子供が飛び出してきたんだ。
不自由な手足で必死にバランスを取っていたアリスに、その子を避けることなど出来るはずがなかった。
だが、アリスは勢いの付いた車椅子から大きく身を乗り出して、衝突を避けようとしたんだ。
彼女の身体は勢い良く投げ出され、頭部から石畳に叩きつけられてしまった。
それでも意識を失う直前に「響は大丈夫だった?」と訊いたそうだよ。
…その男の子は、ちょうどアリスと別れた頃のお前と良く似た背格好だったらしい」
声を詰まらせた父の頬を、一筋の涙が伝っていった。
飛び出した子供を俺に重ね、身を呈して護った母。
足で踏ん張ることも、両手で身体を支えることも満足に出来なかった筈の彼女を突き動かしたのは、日本に残してきた俺への愛情だったのだろう。
意識を失った母は、それ以来目覚めていない。
頭を強打したことによる植物状態。
脳死とは違い、呼吸器をつけることも無くただ眠り続けている。
声を掛ければ微妙に反応することもあり、手を握ればごくまれにだが反射を返して来る場合もあるらしい。
確かに自分の意志で生きているのは解るのに、目覚めることが出来ないのだ。
母が植物状態になり、日本へ連れ帰ることが不可能となったとき、祖父は父に母を忘れ再婚することを勧めたらしい。
まだ幼い俺を思ってのことだったのだが、父はそれを頑なに拒絶した。
それからは、数ヶ月に一度、イギリスへ行き、母を見舞う生活が続いている。
イギリスと日本を往復する父には、休みなど無かった。
安原歯科医院は、年中無休、数人の医師でローテーションを組む今の診療体制を取り始めた。
俺が考えていたのと同じ要領で、数ヶ月休みなしに働き、纏めて休みを取る為だ。
母の為に始めた診療体制だったが、診療時間が長いことで仕事帰りのサラリーマンなどの患者が増え、更に腕が良いと噂を呼び、患者数は大幅に増えることとなっていった。
それに伴い歯科医師を増員し、技術、設備共に県内随一といわれる現在の【YASUHARA Dental Clinic】にまで成長し、仕事の面は順風満帆だった。
だがプライベートでは、多忙な中イギリスへ通う父と俺が親子で過ごす時間は益々少なくなり、俺とは1ヶ月に一度食事を共にする程度で、めったに会話をすることも無くなっていった。
俺はほとんど祖母の手で育てられ、成長と共に父との心の距離は離れていった。
それには父なりに焦りを感じていたらしい。
更に、クリニックの運営などよりも、一番順調であって欲しい筈の母の容態は一向に回復がみられず、父の努力も虚しく時間だけが過ぎていったのだ。
父にとって唯一の救いだったのは、当初は『親父の跡を継ぐなどありえない』と言っていた俺が、親友の助言で歯科医師となり、跡を継ぐことを考えたことくらいだったかもしれない。
母はすでに25年眠り続けている。
20年以上植物状態で目覚めたと言う症例は未だかつて無いらしい。
再び目覚める可能性が低いことを解っていても、父は諦めることが出来ないで、母を待っているのだ。
全ての話を聞き終えると、父は「寂しい思いをさせて…本当にすまなかった」と俺に頭を下げた。
いつの間にか小さくなった背中。
細くなった肩。
白いものが混じった髪。
それらに父の苦労した時間の長さを感じ、これまで自分の中でわだかまっていたものが解けていくのを感じた。
「もういいよ、それより…早く引退して母さんの所へ行ってやれよ。クリニックは俺に任せても良いから」
自分でも驚くほど優しい声だった。
これまで父にこれほど穏やかな気持ちで話したことがあっただろうか?
いつだって、どこか一線を引いて、ギクシャクしていたのに、あの頃がまるで嘘のようだ。
無限の空間に感じられた狭い部屋に、今は穏やかで静かな時間が流れていた。
幼い俺が親子三人で幸せに暮らしていた頃の写真を見て、懐かしい思い出を語る父の表情(かお)は…
俺が初めて見る、穏やかで幸せな笑顔だった。
一晩中父と語り明かし、母の思い出の品から写真を一枚抜くと、俺は実家を後にした。
空はいつの間にか薄っすらと明るさを取り戻しつつある。
冬の早朝の冷たい大気が、肺の中に浸透し、ブルッと一瞬体温を奪われた。
それでも…
ずっと忘れていた家族の思い出を手にした心は温かかった。
朝焼けに徐々に染まっていく空に、写真をかざしてみる。
薄明るい空が、やがて金色の筋と共に光に満ち溢れる。
その光の中に、幼い俺を抱いて微笑む父と母の姿が浮かび上がった。
たった一枚の写真。
それでも、俺にとってはかけがえの無い、幸せだった頃の思い出。
俺はそれを抱きしめるように胸ポケットにしまうと、自宅マンションへ向けて歩きだした。
+++ 12月15日 第5話へ続く +++
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