Sweet  Dentist 12月15日(木曜日) 第5話



響さんがバスルームに消えてから、あたしはソファーにゴロンと転がった。

靴を脱いで大きく手足を伸ばしてみる。
飛行機も初めてなら、海外旅行も初めてのあたしは、右も左も分からず空港でも機内でも緊張し通しで響さんにベッタリだった。

「パスポート、取っておいてよかったぁ」

突然海外に行くことになるとは思っていなかったし、多分響さんが大会前にパスポートを取っておけと言わなかったら持っていなかった。
『パスポートは大会の前に取っておけ。そうすれば絶対に優勝のほうからお前のほうに転がり込んでくる』
…なんて無茶苦茶で俺様な発言だと思いながらも、お守り代わりに持っているのも良いかも知れないと、申請したパスポート。
まさかこんな形で必要になるとは思ってもみなかった。

「本当に…信じられないよ。こんな展開になるなんて…」

アンティークな柄のクッションを抱えて呟くと、 天井の高い部屋に思った以上に大きく反響する自分の声に驚いた。
このくらいで驚くなんて…と、神経の高ぶっている自分が可笑しくなる。
だけど、それも仕方がないと思う。
あたしの誕生日から、色々な出来事が一度に動き始めていて、その目まぐるしさにあたしはかなりテンパっている。
本当なら響さんのお父さんに会うという、とんでもなく緊張するはずの事も、何故か恐ろしいほどに冷静に受け止めているのは、あまりにも刺激的過ぎるこの5日間のせいで、感覚が麻痺しているのだと思う。

自分では抗えない力に押し流されているのを感じる。
突然の豪雨に足を取られ流されて、気付いたら向こう側の川岸に押し上げられ今に至っているといった心境だ。

ポケットの中でカサリと音をたてるメモを取り出し、暫し見つめる。
響さんがバスルームにいることを確認してからガバッと起き上がると、電話へと歩み寄り受話器を取り上げた。
外国で電話をかけるなんて初めての事。
英語が上手く通じるかも不安で、心臓が豪快に躍っている。
だけど、これだけは響さんに頼るわけにはいかなかった。

響さんには申し訳ないけれど、1時間で戻るとメモを残し、あたしは部屋を出た。

『【アムール】のロンドン店を見学してきます。シャルルさんも一緒なので心配しないでね。約束の時間の前には戻ります』

バスルームから出てきて心配している彼が目に浮かんだ。
【アムール】はシャルルさんたちセロン兄弟で経営しているお店の名前で、世界の主要都市に支店がある。
響さんにはロンドンに滞在中に見学する予定だとは言ってあったけれど、まさか到着したその日にあたしが動くとは思っていなかっただろう。
だけど、あたしにはどうしても今行かなければならない理由があった。

待ち合わせのロビーへ行くとシャルルさんが軽く手を挙げ、すぐに ホテルから5分ほどの距離にあるお店へと案内してくれた。

今からお店の見学とは名ばかりの、あたしの留学を左右する試験のようなものが行われる。
ここでシャルルさんのお兄さんである、ジャン・セロンさんを満足させるお菓子を作る事ができたら、あたしがシャルルさんの弟子になる為に必要なある条件をジャンさんが呑んでくれるのだ。

やや緊張気味ではあるものの、妙に度胸が据わっている最近のあたし。
ジャンさんが挨拶をしたときも、これからお菓子を審査されるなんて気負いはなくニコニコしていた。

だって、世界の【アムール】の店内にいて、しかもその厨房でお菓子を作れるのよ?
嬉しくて嬉しくて…

「千茉莉、緊張感がないね。僕らが師弟関係になれるかどうかの瀬戸際なんだけど…解ってる?」

「だって嬉しいんですもの。余り時間がないんですけど、もう始めていいですか?」

動じる事無く手を動かし始めたあたしに、シャルルさんは「相変わらずだなぁ」と笑った。

ステンレスのボールが泡だて器と触れ合う音がリズムを刻み、耳に心地良く響く。

あたしはその音を聞きながら、ただひとつの事を願っていた。



**


何故あたしがイギリスにまで来てお菓子を作っているのか…。

それを説明するには、あたしの誕生日の翌日までさかのぼる必要がある。


誕生日の翌日…
あたしは前日に車を置いていった響さんが訪ねてくるのを待っていた。

ソワソワと落ち着かないのはモチロン純粋に会いたかったからというのもある。
だけど理由はそれだけじゃなかった。

昼間、響さんから貰ったメール。
それには、今夜話したいことがあるので時間を空けて欲しいとあった。
昨夜遅くまでお父さんと話をしたらしく、そのことで伝えたいことがあるのだそうだ。

あれからずっと心臓がドキドキしている。
お父さんとどんな話をしたんだろう。
お母さんは本当に生きていたんだろうか?
響さんは今、どんな気持ちでいるんだろうか?

考えると、居ても立っても居られなくなって、今すぐに会いに行きたくなる。
早く会いたい。
会って彼を、その心に抱えるものごと抱きしめたい。

そんな風に気持ちが急いていたからだろうか…。
インターフォンが鳴った時、心臓が痛いほどに跳ね上がって、あたしは一瞬ママに出遅れた。

軽やかな声でインターフォンに応えるママは、昨日と同じ高いテンションですぐに玄関へと向かった。
響さんだと確信していたあたしは、またママの質問攻めにあう彼を想像して、慌てて後を追いかけた。

だけど… 玄関のドアを開けるママの前に現れた長身の男性は響さんではなかった。

「こんばんは。…お久しぶりですね、花蓮さん」

余りにも意外なその人に、あたしは言葉を失った。

流暢な日本語を話す、青い瞳の青年。


―シャルルさん?


「まあ〜シャルル、久しぶりね。立派になって♪待ってて、充さんを呼んで来るわね」

…なんでシャルルさんがうちに来るの?
ってか、何でママを花蓮さんって名前で呼んでいるの?
久しぶりって…どういうこと?

ポカンとしているあたしに向かって挨拶したのは、確かに見覚えのある、あのシャルルさんだった。
ママに案内され、あたしの前を素通りして客間へ消えていくシャルルさんを、放心したまま眺め続ける。
パタンと、客間のドアが閉まる音で、ハッと我に返った。

…どういうこと?

訳の解らないまま突っ立っていると、すぐに客間から出てきたママは、あたしに「シャルルにコーヒーを出してあげてね」と言い残し、パタパタとお店へ向かって駆け出して行った。
半ば放心状態で言われたとおりにコーヒーを淹れ、客間へと向かう。
ドアを開けたら、さっきのは幻で、シャルルさんは消えている…

…なんて事はもちろんなかった。

「こんばんは。…えっと…お久しぶり?…です」

「こんばんは、千茉莉。どうしてそこで疑問形なの?」

「えーっと…久しぶり…かな?って思って」

自分でもおかしなことを言っていると思う。
だけど、頭の中は疑問符でいっぱいで、何をどう話していいかなんて分からなかった。

「…どうして…ここにいるんですか?」

「呼び出されたんだよ、君のお父さんにね」

「はあっ?」

ちょっとパパ?
シャルルさんを呼び出しって、どういうつもり?
世界でも指折りの天才パティシェのシャルル・セロンよ?
日本の片田舎の洋菓子店まで出向かせるなんてありえないよ!

まさか…
もしかして留学の話を断るため?
でもだったら電話で話せば事は簡単なのに…。

そこまで考えてふと、昨夜の事を思い出した。

…そう言えば、響さんを見送って自分の部屋へと戻ろうとしたとき、パパがフランス語で電話していたのを耳にしたっけ。
普段からフランスの友人と時々連絡を取っているパパの事だから、余り気にせず聞き流していたけれど…

もしかして、あれってシャルルさんに電話をしていたとか?

でも確か昨日、頭から反対はしないって言ってたよね?
時間をくれって…そう言ったじゃない?
それなのに…
あたしに相談も無く断っちゃうなんて…酷いよパパ。

あたしの表情で考えを読んだのか、シャルルさんが困った顔をした。

「あー…千茉莉? 確かに僕は留学の話をしに来たんだけど、まだ断られたわけじゃないよ?そんなに心配しないで。お父さんは別に反対しているわけじゃ―…」

「大反対だね」

シャルルさんの台詞を奪うように入ってきたパパ。
その後ろからママがトレイにケーキを持って入ってきて、更にパパの台詞を奪っていった。

「どーぞぉ、シャルル。充さんのケーキよ。久しぶりでしょう? それにしてもすっごく素敵になったわね。ビックリしちゃった」

ママ…相変わらず空気読めていませんよ?
今、すっごく大事なトコじゃないですか?
なんでパパの台詞を遮っちゃうのよ?

パパは苦笑しながらあたしとママに座るように言い、自分もシャルルさんと向かい合うようにして座った。

「Bon soir 充。お久しぶりです」

「なーにがBon soir だ。お前なぁ、シャルルの分際で俺の娘をフランスに連れ出そうって、100万年早いんだよ」

シャルルの分際でって…。パパッ?
あのっ、シャルルさんは世界的に有名なパティシェさんなんだよ?
何でそんなに態度でっかいのよ。

「アハハ…まさか充の娘だとは思わなかったんだよ。すっげー偶然だよね。昨日の夜中に兄さんから電話があったときには、何事かと思ったけど、これってヤッパリ運命なんだって思ったよ」

「なーにが運命だ。好き勝手ばっかりしやがって。ジャンに頼んで強制送還してもらうぞ?」

「…うーん、それは勘弁して欲しいなぁ。もう少し日本でしたいこともあるし…」

………?
話しが全く見えませんが?
もしかして、シャルルさんとパパ達ってかなり親しいの?
そんな事聞いた事ないわよ?
それに、この間留学の話をした時だって…

…あれ?

そういえば…パパ何か言いかけてたわよね?
『シャルル…? 千茉莉、だが彼は…』
って…あの時パパは何を言おうとしたの?

「ほら充、千茉莉が全く解らないって顔しているよ? ちゃんと説明してあげたら?」

「その前にシャルル、お前千茉莉を育てたいって言ったそうだな?」

「ああ、言ったよ」

「ジャンには話していなかったんだろう?」

「まだだったよ。でも充が先に話しちゃったからね、夜中に電話でたたき起こされて2時間かかって説明したよ」

少々オーバーな仕草で、肩をすくめて見せるシャルルさん。
話の流れからすると、ジャンさんというシャルルさんのお兄さんとパパが親しい間柄なのかしら?
で、今回の留学の件を直接お兄さんに電話して…
断っちゃったのかなぁ?

「…らしいな。ジャンから今朝電話があったよ。ドラ息子ならぬ、ドラ弟が勝手な行動をして、迷惑を掛けてすまないってさ」

「そりゃ、兄さんに相談なしに予定外の賞を勝手に作って報告しなかったのは悪かったとは思うさ。でも兄さんだって彼女のお菓子を食べれば僕がどうしてもと願った気持ちは解るはずだ。
充だってフランスで勉強することは絶対に彼女の為になるって解っているだろう? 自分だって経験したことじゃないか。どうしてそんなに反対するんだ?」

「長いんだよ、お前のいう修行期間が。数ヶ月ならまだしも、数年だろう?
千茉莉は女の子なんだぞ? おまえんとこの工房にどれだけ女が居るってんだよ。あそこは元々女人禁制みたいなもんじゃないか! オオカミの巣に羊を放すようなもんだ。
俺だって東洋人ってだけで、散々苦労したのはお前だって知っているだろう? 東洋人でしかも女。どんな扱いをされるか分かったもんじゃない。
そんなところに大事な娘をやれると思うか? 才能があればそれだけ、嫉妬の風向きも強い。
女だけに嫌がらせのセクハラなんかあったらどうするんだ? お前が四六時中ボディーガードみたいに護れるっつーのかよ?」

パパの剣幕にシャルルさんはタジタジだった。
嫉妬が云々って部分は過大評価だと思うけれど、自分が苦労しただけに、パパの心配は分からないでもない。
でもやっぱりあたしは学んでみたかった。

「パパ…心配してくれるのは嬉しいけど、あたし、シャルルさんの元で学びたいの」

「…それはフランスへ行きたいということじゃなく、シャルル自身から学びたいと言うことか?」

あたしは強い意志を込めてパパを見つめると、力強く頷いた。

「フランスへ行くのは確かに憧れるけど、そこは重要じゃないの。
あたしは、あの大会でシャルルさんに認めてもらって、この人についていきたいと思った。
彼から学び、一人前になりたいと思ったの。フランスへ行くことが大切なんじゃない。あたしが師と仰ぐ人がフランスに居る。だから行きたいの。彼から学んで一人前になりたいの。
お願いします、パパ。シャルルさんの元で学ばせてください」

あたしは立ち上がるとパパに向かって頭を下げた。
するとシャルルさんも一緒に立ち上がって、パパに向かって頭を下げた。

「充…いや、ムッシュ神崎。僕に娘さんを預けてくれませんか? あなたより若い僕が彼女を育てるなど、驕りかもしれません。でも僕は彼女の才能に惚れました。この蕾が大輪の花を咲かせるのを この手で育て、見てみたい。
お願いします。兄も必ず納得してくれると僕は確信しています。どうかお願いします。彼女の未来を僕らに預けてくれませんか?」

それまでのフレンドリーな話し方とは打って変わった真剣な口調。
世界的に有名なパティシェの彼が、あたしなんかの為に頭を下げてくれている。
信じられなかったけれど、とても嬉しくて…
あたしは涙が溢れて止まらなかった。

パパは大きな溜息を吐いて、ソファーに沈み込むように身体を預けた。
パパに頭を上げて座るように言われ、ソファーに掛ける。
誰も口を開くことが出来ず、言いようの無い沈黙が流れた。


その時、来客を告げるインターフォンの音が部屋の静寂を破った。

今度こそ響さんだった。




+++ 12月15日 第6話へ続く +++


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