父は自分の席の傍らに設置されたベッドにゆっくりと彼女を横たえた。
父が年を取ったように、母もまた年を取っていたが、今日の祝いの為に美しく化粧を施した母は、俺の記憶の中の面影のままだった。
ベッドの傍らに立ち母を見下ろすと、その手を取り跪く。
声を掛けようとするが、感情が込み上げ喉が詰まり、思うように出なかった。
「母さん…響だよ」
無理やり搾り出した声は、思った以上に小さく擦れていた。
「……久しぶりだね…会いたかったよ」
母はその瞳を閉じたままだったが、僅かに頬が色を増した気がした。
それは父も感じたらしい。
ほんの少しでも反応があった事は、全員を沸き立たせ、回復を促そうと皆で代わる代わる語りかけた。
俺はこれまでに思い出した僅かばかりの思い出を、物語を語るように母の耳元で話して聞かせた。
たとえ目覚めなくても、俺が傍にいることを知って欲しい。
もしも夢を見ているのならば、俺達の幸せだった思い出を夢見て欲しい。
この手が俺を抱きしめることは無くても、せめて夢の中で俺を抱きしめて欲しい。
そう願いを込めて母に語りかけた。
パーティの為に僅かに傾斜を付けたベッドに、身体が傾かないよう周囲をクッションで固めて、まるで自分の意志で座っているかのようにテーブルに着く。
その姿に幼い頃、誕生日のケーキにロウソクを灯してくれた母を思い出した。
霞の掛かったおぼろげな記憶の中、仄かなロウソクの明かりの向こうで微笑む母。
3本の炎と格闘する俺を、母の隣で微笑みながら必死にカメラに収める父。
断片的に蘇る思い出に、母を目覚めさせたいと願う心は益々膨れ上がっていった。
父の隣に母が、その隣に俺と千茉莉が座る形で七人全員が円卓を囲んだ頃、時刻は既に11時になろうとしていた。
随分と遅いパーティの始まりは、俺達の到着を待った為だと思っていたが、毎年パーティを始めるのは10時ごろからなのだそうだ。
家族とともに誕生を祝うことを公爵はとても大切にしていて、それはレクシデュール家がかつて、ヨーロッパの小国の王家だった頃から続いているしきたりだと教えてくれた。
誕生日はその人物の生まれた時間を家族で祝うのが王家に伝わる本来の形だったらしく、公爵はそれを今も頑なに守っているのだ。
母が生まれた時間は11時12分。
その時間に皆で祝いの歌を捧げ、一人ずつ祝福のキスを贈る。
今は滅びた王家の血が自分にも流れているという事実には驚いたが、もっと驚いたのは父の献身的なエピソードだった。
俺と母の誕生日が重なる為、母の誕生日に来ることが出来なかった俺の幼少期には、父は毎年電話機越しにパーティに同席し、母の誕生日を祝っていたそうだ。
時差を考えれば日本時間は翌日の午前7時ごろという事だ。それからその日の便で、誕生日を迎えた俺の写真を持って母の元へと飛んでいたのだそうだ。
言われてみれば俺の誕生日の翌日、父は必ず不在だった気がする。
俺の誕生日を祝っていたのは12〜3歳くらいまでだったから、約10年ほどそれを繰り返していたということになる。
父の母を思う一途さには、改めて脱帽する思いだった。
やがて時計の針が11時12分を指した。
俺と千茉莉以外の四人が、王家に伝わるという誕生を祝う歌を歌い始めた。
初めて聴くメロディーなのに俺はその歌を知っていた。
多分母が幼い頃に歌ってくれたものをどこかに記憶していたのだろう。
途中から歌いだした俺に、四人は一瞬驚いた表情をしたが、すぐに満面の笑顔になった。
そして千茉莉は、その場に居た誰よりも嬉しそうに俺を見つめていた。
歌が終わると、公爵から順に母に祝福のキスと祝いの言葉を贈っていく。
公爵夫人の後に父が、その後に俺が続いた。
頬に祝福のキスをして、それから耳元で祝いの言葉を述べた。
「誕生日おめでとう母さん。俺…会いに来て良かったよ」
そう言って母の手を取るとその甲に口づけて、万感の思いを込めて言葉を続けた。
「俺を産んでくれて…ありがとう…」
その瞬間…
母の頬を涙が伝った―…
**
響さんが感謝の言葉を述べると、アリスさんの頬を涙が伝った。
ほんのりと色を増し薔薇色に輝く頬。
その目じりから細く流れる一筋の真珠。
アリスさんは確かに響さんの言葉に反応した。
きっと奇跡は起こる。
あたしはそんな予感に駆られて、鞄の中から【アムール】で作ってきたクッキーを取り出した。
このクッキーにあたしは彼女から感じ取った沢山の愛情を込めた。
今ならば、彼女の眠りの封印をとくことが出来るかもしれないと思ったのだ。
クッキーを見た響さんは、瞬時にあたしの思いを悟ったようだった。
視線で問いかけると、お父さんは黙って頷きそれを受け取った。
公爵夫妻とアンソニーさんが、不思議な顔をして見守る中、お父さんは包みを開くとクッキーを少し噛み砕き、アリスさんに口移しで口に含ませた。
例え飲み込むことは出来なくても、口に含むことでその香りや味は伝わるはず…。
それが奇跡を起こしてくれることを願って、あたし達はアリスさんの変化を見守った。
ほんの一瞬、睫が揺らいだ気がした。
だけど…
それ以上の奇跡が起こることは無かった。
願いが届かなかったことに肩を落とすあたしに、ほんの少しでも反応があっただけでも嬉しいと、お父さんは少し潤んだ瞳で微笑んでくれた。
同じように頷く公爵とアンソニーさんの瞳にも、薄っすらと涙が光っていた。
公爵夫人にいたっては、洪水のような涙の量に、ハンカチが追いつかない様子だった。
夫人の涙がようやく落ち着いた頃、ちょうど響さんの生まれた時間が近づいていた。
公爵は毎年響さんの生まれた時刻にもお祝いをしてくれていたらしい。
初めて孫を迎えてお祝いが出来ると喜ぶ公爵に、夫人が再び感極まって泣き出してしまった。
響さんが「これからは毎年来るって約束するからから泣かないで」と宥めたのだけど…
…それは更に夫人を感動させて泣かせてしまう結果となり、結局お祝いの時間ギリギリまで泣き止むことが出来なかった。
11時58分
響さんの生まれた時間に、皆が歌を歌い祝福をした。
流石に男からのキスは要らないと、キスは夫人とあたしからだったけれど、男三人分と称してあたしが4回キスをさせられたのは、絶対王家のしきたりなんかじゃなく、響さんの独断だったと思う。
もしも時代が時代で、彼が一国の王だったりしたら、とんでもない暴君になっていたんじゃないかしら?
あたしの発言に響さんは不満気だったけれど、皆は「ありえそうだ」と大笑いしてその場はとても和やかだった。
誰もがとても幸せだった。
アリスさんを囲んでとても穏やかな家族の時間が過ぎていく。
公爵も公爵夫人もアンソニーさんも、今迄で一番幸せなパーティだと、嬉しそうに語った。
お父さんも響さんとのすれ違った気持ちを修復できて、これまでで一番晴れやかな気持ちだと微笑んだ。
そして響さんは…
ようやく知った本当の家族の温かさを噛み締めているようだった。
あたし達はアリスさんの強い願いに呼び寄せられたのかもしれないと思っていた。
それはきっと間違いではなかったのだと思う。
アリスさんはきっと皆がこうして一緒に幸せに笑う姿を見たかったんだと思う。
深い深い眠りの中から、ずっと祈り続けて、ここに響さんを引き寄せたのだと思う。
あたしと響さんが出逢い、惹かれあったのは、きっと運命だった。
こうして皆を幸せに導く為の、必然の出逢いだったんだと思う。
皆が響さんを囲んで笑っているのを、アリスさんの隣に座り微笑ましい思いで見つめる。
とても満たされた気持ちで、自分の作ったクッキーを口に含むと、アリスさんの優しい想いが伝わってきた。
あたしは彼女の手を取り感謝の気持ちを込めて語りかけた。
「お母さん…彼をこの世に送り出し、あたしと出逢わせて下さって、ありがとうございました。
あなたの味はあたしがずっと守って行きます。
響さんがいつもあなたの愛を感じることが出来るように…」
その手の甲にそっと唇を寄せ心からの誓いを立てる。
あなたの愛を、ずっと伝え続けていきます―…
あなたが願い続けた彼の幸せを、あたしが一生見守っていきます―…
開くことの無い瞳を見つめ、心で語りかける。
その時…
再び頬を綺麗な涙が伝い、瞼が揺れた…
「―っ! …お母さん?」
再び反応を示した彼女に、あたしは必死に語りかけた。
「お願い、目覚めて…。響さんの為に目覚めてください。
彼は今ここにいます。お願い、目覚めて! 彼を抱きしめてあげて」
皆が驚いてあたし達を取り囲む。
あたしは必死で彼女に語りかけ続けた。
どうか…響さんを抱きしめてあげて―…
寂しかった彼の心を、お母さんの愛で埋めてあげて―…
お願い―…
「……」
アリスさんの唇から僅かに息が洩れた―…
それは声にならない声。
だけど…
あたし達にはハッキリと聴こえた。
響…お誕生日おめでとう―…
硬く閉じられた蕾が永い眠りから目覚め…
ゆっくりと花を開いた。
+++ 12月10日 最終話 響へ続く +++
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