楽園(4)



*


 のんびりとメシを食い、買い物に出たのは昼前だった。門脇のリクエストに応えて、少し離れた所にあるショッピングモールへ出かける。
普段は練習だらけでまず外出なんて出来ないから、俺は寮の周りにどんな店があるかもわからない、と言って門脇は笑った。
 半年前と変わらない空気が漂う。違うのは、瑞垣の周りから野球が消えてしまった事だけ。野球を巡るわだかまりが消えてなくなった分、門脇に対しても以前よりは柔らかく向き合える気がした。
このまま過去の人間になってしまえば、もっとどうでも良く振る舞えるのに。複雑な心中を完全に切り替えてしまうには、半年は短いのだ。瑞垣は痛い位にその事を思い知った。
「……全く、お前はようわからん。オレはお前が寮に行く前に、『お前が嫌いじゃ』て何回言ったと思っとるんじゃ。それが、のこのこ顔出してメシ食って」
 瑞垣が恨めしげに門脇を睨みつけると、門脇は悪戯がばれてしまった子供のように、にやりと笑う。
「言うたじゃろ、俺にとってはお前は一番の親友じゃから」
「オレはそうじゃないって言ったじゃろ……もういい、この議論は何度もしたのに、お前 はちっともわかろうとせん。アホか馬鹿じゃ、全く……」
 そんな埒もない言い合いをしながら、あちこちをうろつく。横手の野球部の連中には会う事もなかった。
買い物に疲れたらファーストフード店に寄り、また新しい品物を物色する。気がつけば陽が傾き始めていた。
「そろそろ帰るか。秀吾、お前は家に帰るんじゃろ」
「帰るんじゃけど、オフクロがお前をうちに連れてこいってさ。マヨコロッケ作って待っとるから」
 マヨコロッケの誘惑は強烈だった。しかし、正直な所もう門脇と関わるのはこれで終わりにしたい。
「オレは留守番があるから遠慮しとく。おばさんによろしくな」
 門脇がこれ以上押しづらい理由をつけて断ろうとする。しかし、返ってきた言葉は、瑞垣をますますうんざりさせるものだった。
「じゃあ、うちから夕食もらって持ってくるな。俺、お前と一緒に食いたいんじゃ」
「……久しぶりに家に戻ったんじゃ。たまにはゆっくりしろ。俺は疲れたんじゃ。帰れ」
冷たく突き放す。しかし、門脇は珍しく食い下がった。
「明日の夕食は一緒に食うからって伝えとる。次はいつこっちに帰ってこれるかわからんから、なるべくお前と色々話がしたいんじゃ。ええじゃろ?」
 強く意志を伝える口調で、門脇が断言する。こうなると何を言ってもおそらく聞きはしないだろう。瑞垣は諦めて、また一つ溜息をついた。







 門脇は一旦家に帰り、大きなバスケットを持って瑞垣の家へ戻ってきた。
中には軽く三人前は入っていそうな巨大な弁当箱がある。横手にいた頃、門脇の母がよく野球部のみんなにお裾分け、と持ってきていたものだ。
 先にそれぞれシャワーを浴びて汗を流してから、瑞垣がこっそり買ってきていた酎ハイを取り出し、弁当と一緒に片づけた。
しかし二人で食べるには余りにも量が多すぎたので、とりあえず冷蔵庫にしまって明日に取っておくことにする。まだ温かいマヨコロッケは相変わらず美味かったが、食欲に負けただけのような気がして瑞垣は釈然としない。
門脇が行ってしまった後、瑞垣はよく門脇の母から夕食に誘われていたが、何かと理由をつけては断っていたのだ。係わりを絶とうと思っていたのに、肝心のそいつは絶つ事を許そうとしない。
瑞垣にとっては重苦しい食卓だった。いきおい、酒を飲むピッチが早くなる。門脇はミニ缶半分程で顔を真っ赤にし、飲むのをやめてしまったが、瑞垣は気づくと二本半ほど空けていた。
 リビングのソファに座り込んで、瑞垣はタバコに火をつける。向かいの二人がけソファに座った門脇は複雑な顔をしたが、溜息をついて一本くれとねだった。
 これまでにはないことだった。瑞垣は真意をはかりかねて、門脇を一瞬見つめてしまう。
「寮で悪い遊びでも教えてもらったんか? 品行方正な優秀選手がおタバコとは、珍しい」
「……タバコでも吸っとらんとやってられん時って、あるもんなんじゃな」
 昨日も瑞垣に見せた、やりきれないふうな表情をまた見せた。門脇はだまりこんでしまい、テレビの空々しい音声と換気扇のまわる音がミックスされた、何とも言えない騒音がリビングに響いた。
「……らしくないな、秀吾。そんなに、伝統校の新人イビリはキツいんか?」
 ざまぁみろ、と思ってしまう自分がどうしようもない。しかし、門脇はきっちりと結果を出してきている。
逆風に決して折れない友人を誇らしく思う。思い、その後ろにある自らの複雑な感情を瑞垣は整理する気もない。いなくなってしまえば、忘れられる感情なのだから。
 門脇はタバコに火をつけて吸い込み、思い切り噎せた。
「ああ、それ強いタバコじゃから。発ガン性物質たっぷりってやつ? お前はやめとけ」
 先に言ってくれ、と涙目で言いながら、門脇は今度はおそるおそる吸い込んだ。
「……正直、こっちに帰って来たいって、何度も思った。いくら強豪校と言っても、一年でレギュラーはめったにないから、色々言われたし、されたしな」
 門脇のはき出した煙がふわりと舞い上がる。それを目で追いながら、門脇は続けた。
「入る前から噂は聞いとったから、こんなもんなんじゃなって覚悟はしとったけど、現実になってみるとやっぱりしんどくて。何度もお前に愚痴を聞いてほしいと思ったけど、寮は携帯持ち込み禁止じゃからかけるにかけられんし」
 それでもお前は、選ばれた者だ。オレが辿り着けなかった向こう側に、黙々と努力を積み重ねて渡ってしまった。
 瞳に複雑な感情を滲ませる瑞垣に気づかないまま、門脇は言葉を連ねる。
「でも……やっぱり俺は野球が好きじゃから。あと半年我慢すれば二年になるし。それにな、俊……俺、甲子園で原田とまた対決したいんじゃ」
 原田。門脇を動かし、瑞垣の腹の底を引きずり出した、性悪なお姫様。瑞垣は門脇以上に、原田の事が大嫌いだった。あいつはバッターに、建前で勝負する事を許さない。しかしただ一人対等に、門脇と渡り合える相手。
「……なんで原田なんじゃ? もっとええ投手は、甲子園におるじゃろう?」
 低い声で瑞垣が訪ねる。門脇はまだ長いタバコをもみ消し、溜息混じりにつぶやいた。
「技術的には確かに、原田より出来上がっとる投手はいくらでもおる。でも、原田みたいに底知れん奴は、他におらんのじゃ……あいつは絶対、甲子園に出てくる。俺はそれを待っとる。
俺は、成長したあいつと真っ向勝負したいんじゃ。そして、堂々と打ち勝つ。そうやないと……俺は誰と勝負しても、勝った気がせんから」
 かすれた声に、強い決意が溢れている。門脇だけが、原田だけがたどり着く場所が確かにある。
それは瑞垣には届かない、そして憧れた末に届く事を諦めた場所なのだ。 

 永遠に手の届かないそこは、選ばれた者だけが辿り着く楽園。

 焦がれても焦がれても、自分はその楽園の蜃気楼を追うばかりで。
瑞垣は知らず、奥歯を噛み締めていた。ぎり、と酷い音がしてはじめて気がつく。やっぱり断ってさっさと帰らせればよかった……瑞垣は深く深く後悔する。
そうすれば、こんな醜い自分をこいつの前で晒す事はなかったのに。
 酔いが、瑞垣の感情の枷を外してしまったようだった。
 高みを目指す羽根を持たない自分が出来るのは、羽根をもいでそいつを引きずり落とす事だけだ。
 折角お前は、オレという枷から外れて自由になったのに。どうしてまた戻ってきたんだ。
 瑞垣は無言で立ち上がってタバコをもみ消し、門脇の隣に座った。

 オレの腹の底を見せれば……どうせお前は引いちまうんだろ?

「……秀吾」

 お前とはもう、生きる道が違うんだ。思い知れよ。今更のうのうと、オレのことを頭から信じて友達面するなんて馬鹿もいいところだ。

 瑞垣は不意を討つように、門脇の唇に自分のそれを押し付けた。
呆然とする門脇の表情を酷く醒めた気分で観察しながら、門脇の日焼けして少し荒れた唇を舐め上げる。
女の子の唇の方が柔らかくて気持ちいい。淫らな夢の中で繰り広げられていた行為程の昂ぶりもなかった。
キスだけで痺れるくらい感じるなんて事はないし、ぞくりともしない。ただ、触れた瞬間に、頭の芯がくらりとした。
タバコを吸っていても、酒を飲んでいても得られないようなトリップ感。
 余りの行動に門脇が硬直してしまっているのをいいことに、瑞垣は噛み付くようなキスをした。
生臭いサビの味が口の中に広がった。無意識に門脇の唇を噛み破ったのだろう。血の味がする箇所を、音を立てて舐め上げた。ぴちゃ、と生々しい水音がする。
 早く突き飛ばせよ。オレを軽蔑して、さっさと出てっちまえ。二度とオレの前に顔を出すな。
しかし、門脇は突き飛ばす事も、引き剥がす事もしなかった。門脇は驚きに見開かれた目を僅かにすがめて、瑞垣の様子を伺っているだけ。
瑞垣は引くタイミングを失ってしまい、門脇の肩を掴んでいた手を所在なげにソファに下ろす。
「……何で抵抗せん。気持ち悪いじゃろう? ……オレの腹ん中じゃ、こんな事ばっかり考えとったんじゃ。
オレはお前に、抱いて欲しかった。かわいい女の子とヤッてる時でも、お前の事を考えとった……オレ、変態じゃろ? 
だから……自分の身がかわいかったら、とっととオレの前から消えろ。二度と……うちに来んな」
叩き付けるように一気にまくし立て、門脇から離れる為に立ち上がろうとする。その腕を、門脇は痛みに顔を顰める程の強さで引き寄せ、体勢を崩した瑞垣を抱きすくめる。
 お前、まだ良い奴でいようとするのか。怒りで自分を制御する術を忘れ、瑞垣は怒鳴りつけた。
「……離せ! 同情じゃったらいらん。お前のそういう所が大嫌いなんじゃ!」
 瑞垣は腕から逃れようと身を捩るが、門脇の腕は僅かも動かない。
 焦がれて焦がれて、それ故に嫉妬し、憎悪すら感じる存在。全身全霊をかけて求めていた時期が確かにあった、幼馴染。
吹っ切る為に全てをぶち壊しにかかったのに、どうしてこいつはオレの思った通りに動いてくれないのだろう?
 もう、まっぴらだ!
「……オレをこれ以上、惨めにさせんな。帰れ……!!」