楽園改訂版(7)
二 楽園

 





ながからむ こころもしらず くろかみの
みだれてけさは ものをこそおもへ







クーラーをガンガンにかけた部屋の外から、くぐもった蝉の鳴き声が伝わってくる。
 14インチの液晶テレビに映るマウンド上のピッチャーが、殺人的な陽射しを一度仰ぎ見、恨めしそうな表情で汗をぬぐった。
 瑞垣俊二は滴が零れ落ちそうなアイスバーを舐め上げ、一口齧った。しゃくり、と涼しげな音を立てる。
 夏の甲子園第八日、第二試合。第一試合が延長戦となり、予定より15分遅れての開始だった。
 門脇秀吾の所属する高校は当然のようにシードで、登場は2回戦から。
初試合は順当に勝ち進み、そして門脇は五番打者として、すでに二本のヒットを記録していた。
一年生の扱いとしては破格だし、結果としてもかなり良い。
 画面にちらりと、自分の打順を待つ門脇の姿が映った。
連休の時から三ヶ月が過ぎ、門脇の体は五月の時点よりも随分鍛えられ、引き締まっている。
 馬鹿真面目な門脇の事だから、期待通りに練習に励み、期待以上の結果を出し、そして評価を得る事が出来たのだろう。
一段と鍛え上げた肉体が、その努力を瑞垣に見せつけている。
 アナウンサーと解説者の騒々しいコメントを背にじっと目を閉じる門脇の姿は、酷く遠い存在に思われた。
彼は画面の向こうの存在になってしまった。
 数ヶ月前に肌を合わせた事が、蜃気楼のように瑞垣の脳裏に立ち上る。
……あるいはそれは、瑞垣が見た幻だったのかもしれない。
 門脇が寮に戻っていってから、こっそりと持ち込んだ携帯から何度か電話やメールがあった。
しかし、レギュラーに決まった、という一文を最後に、門脇からの連絡は途絶えてしまったのだった。
 仕方ない、と思う。あの一晩が奇跡だったのだ。
門脇は野球のために県外に出たのだし、瑞垣にも取りあえず進学校に通う高校生としての日常がある。
テストだ塾だと追い立てられているうちに時間は過ぎてしまうのだが、時折身体の芯に燻る熱が瑞垣を灼いた。
 適当に女の子を引っ掛ける事ももう出来なかった。
本当に欲しいものが身体に刻まれてしまったのだ。
どんな甘やかな感触も技巧も、それは瑞垣が望むものではない。
そして門脇が住む世界……野球……を今更共有する気にもなれなかった。
逃げるように勉強に集中し、順位だけはただ上がっていく。
その代わりに髪は伸び、食欲が落ちてしまったので中学時代に比べて十キロ近く体重が落ちてしまったけれども、
身長だけはいちだんと伸びたから、顔すらも変わってしまったような気がする。
実際、横手の同級生とすれ違ったとき、瑞垣とは気づいてくれなかった。
試合は五回表、ノーアウト、走者はなし。
バッターボックスに立った門脇は、静謐な闘志を抱いた目でピッチャーを見据え、バットを構えた。
「打ちました!」
 一球目。門脇のバットは高めに浮いたボールを捉え、無駄のない綺麗な軌跡を描く。
ミートする快音が響いた。
 わっと客席が沸いた。ボールはライト方面に抜け、相手ピッチャーには失望とも緊張ともつかない表情が浮かぶ。
 門脇はその俊足で三塁まで進む。アナウンサーが門脇の名前を連呼した。
 瑞垣は気がつけば、食い入るように画面を見つめていた。胡座を組んだ足の上に、ぽとりとアイスの雫が落ちる。
 秀吾はただ打つだけのバッターじゃない。
その事はオレが一番わかっていたんだ……と傲慢な気持ちを抱いてしまう自分が、未練がましくて嫌だ。
あいつの一点を求める執念はきっと、誰にも負けない。
次の打者が対峙する。一球目は見逃し、ど真ん中に来た二球目に、タイミングを外されながらもバットを当てた。
 ヒット。しかし遊撃手がキャッチし、その球はホームに目掛けて突き刺さる。
 弾丸のように、門脇がホームを目指していた。
クロスプレー。乾いたグラウンドから埃が舞い上がる。
「セーフ!」
 審判が両腕を水平に動かす。歓声とどよめきが甲子園に交錯した。
初得点。チームメイトが喜びに沸く中、門脇は立ち上がらない。
 画面に映るのは、赤く染まった右足と、裂けたユニフォーム。
 苦痛に歪む表情を浮かべて、門脇は身を縮めていた。
アイスが溶け砕けて、ぼたり、と落ちた。