一週間後。瑞垣は塾の集中講座から解放されて、帰り道の橋の下でぼんやりとしていた。
八月の暑い盛りとはいえ、水辺の日陰は心地よい涼しさを保っている。
門脇とは帰ってきた翌日から会っていなかった。
実際集中講座が始まって忙しかったのもあるし、何よりまたグズグズと言われるのが嫌だった。
とにかく、誰が何と言おうと、オレはもう野球はする気がない。
「俊! ああ、おったおった。お前、携帯の電源くらい、入れとけや」
自転車の急ブレーキが軋む音がして、次に、門脇の大声が聞こえた。
着信履歴に門脇の名前が残るのが嫌で、電源を切って部屋に放り出していたのだ。
昨日までは夜十時までずっと講座だったから、門脇が例え家を訪ねて来ても会わずに済んだ。
しかし、今日は最終日という事で早めに終了したのだった。……母あたりがバラしたのだろうか。
「……お前、足はどうした」
近づいてきた門脇は細身のGパンを履いていて、特に足を引きずる様子もなく普通に歩いている。
けろりとした顔で門脇は質問に答えた。
「捻挫はもう平気じゃ。縫った傷も昨日抜糸したし、ちょっとは痛むけどまあ、痛み止めを飲んどるから我慢出来る」
一応、怪我の瞬間を見た時には心配したんだが。
瑞垣は馬鹿馬鹿しくなってさっさと立ち去ろうとする。
「……だったら早う寮に帰れ」
冷たい一言を投げかけると、門脇は慌てて腕を掴み、引き留めた。
「今はまだ無理はするなって言われとるから、俊、ちょっと、リハビリに付き合うてくれや」
「現役の甲子園出場選手に付き合う技量も体力もございません」
瑞垣の腕を掴む手に、冗談では済まされない力がこもる。
「……痛ぇんじゃ、馬鹿力! 離せ」
振り解こうとするが、門脇の手はびくともしない。
「付き合うてくれたら、離す」
幾度かの問答の末、結局瑞垣は折れた。
「……さっさとしろよ。オレは連日の講習で疲れ果てとるんじゃ」
掴んだ腕を放さぬまま、門脇は笑顔を見せ、頷いた。
*
陽は徐々に傾いてゆき、心地の良い風が瑞垣の少し長めに伸びた髪を撫でる。
門脇に先導されて渋々ついて行ったのは、古びた市営の総合運動場。
煤けた壁面の体育館を抜けると小さめのグラウンドがあり、人々が思い思いにボール遊びや運動をしていた。
隅でキャッチボールをしている連中に、瑞垣は見覚えがあった。
……いや、忘れるはずがない。半年前、様々な困難を克服して、試合をセッティングした相手チームの、要。
今も時折メールや電話での連絡がある、海音寺。何故か瑞垣に懐いてきた、吉貞。
そして。
野球する事を辞めた今も、時々夢に見る事がある、その顔。
新田東中の二年生バッテリー。原田巧と、永倉豪。
足を止め、無言で門脇を睨みつける瑞垣の元へ、場の雰囲気などお構いなしな吉貞がクネクネしながら走り寄ってきた。
「みっずがっきせんぱぁ〜〜〜〜〜〜〜〜い!」
「……ウザい、寄んな、クリノスケ! 何しに来たんじゃ!」
そばかす顔が瑞垣の目前に迫る。
「そんなの、遊びに来たに決まっとるでしょー。
だってぇ、甲子園出場の一年レギュラー 門脇大センパイから、呼ばれたんですよぉ? 下っ端のおれさまに断る理由なんて全くありませんから!」
遊びましょー、とまとわりつく吉貞の首根っこを引っ掴んで後ろに追いやったのは、実際に会うのは久々の海音寺だった。
「……っておれが原田と永倉を誘いに行ったら、こいつが勝手について来やがったんじゃ。
久しぶりじゃな、瑞垣。こないだの模試で、お前の名前見たぞ。すごいんじゃな。おれ、英語全然ダメなんじゃ」
七月あたまの全国模試で、瑞垣の英語と数学の点数は思った以上に良かった。
実は余り興味がなかったので、結果の紙を放り出していたのだが、それなりに順位も良かったらしい。
「……で、オレは門脇くんにハメられたんですか」
憮然とした表情を浮かべ、瑞垣は門脇を睨みつけた。
門脇は素知らぬ顔で冷たい視線を受け流し、奥でキャッチボールを続ける原田と永倉の方へと向かう。
「可愛い女の子と合コンかと思うたのに、何でお前らの不景気な面とご対面せないかんのじゃ。
オレはもう野球とは関係ないんじゃ。帰るぞ」
怒気のやり場を無くした瑞垣は、タオルで汗を拭う海音寺に怒りの矛先を向けた。
「まあまあ、久しぶりじゃからええじゃろ。後でマックにでもメシ食いに行かんか?」
「クリノスケじゃあるまいし、エサでつられてたまるか」
踵を返そうとする瑞垣の肩に手を置いて、海音寺が引き留めようとしたその時。
「瑞垣さん。……野球、ほんまに、辞めたんですか?」
背後から、僅かに戸惑いを含んだ呼びかけの声。
永倉豪……折角野球なんていう修羅の道から引っ張り上げて やろうと仏心を出したのに、みずからはらだ悪女の魔の手に飛び込んで行った哀れな男……、だった。
あえて振り返らないようにする。永倉の後ろには、必ずあの気にくわない最悪なお姫様がいるだろうから。
「ああ、ホンマホンマ。オレは勉強で忙しいんじゃ。野球なんかして遊んどる暇はないない。じゃあな」
もう、関係ない。野球とは全然、関係ないんじゃ。
足早に立ち去ろうとする瑞垣の背中に、投げかけられた、声。
「……遊ばないんですか?」
何の感情も感慨も、その言葉には含まれていなかった。
酷く冷静な……それだけに聞く者に怒りを孕ませる、その響き。
「刺激がなくて、退屈なんでしょう? それとも、しばらく現役じゃなかったから、身体が動きませんか」
原田巧。その傲慢なものいいは、紛れもなく原田のものだった。
振り返って確認するまでもない。どんな表情をしているかまで、手に取るようにわかる。
野球を知らなければ、こいつに感情をかき回される事もなかったのに。
知らず、唇の端を噛み破っていた。鉄錆の味が、口の中に広がる。
「……お前みたいな性悪と付き合わんで済む分、ストレスがなくてええわ……えらい、口が達者になったもんじゃな、お姫さん。クリノスケに毒されたんとちゃうんか」
怒りの矛先は門脇にも向かう。
「……秀吾。お前、そのコンディションでお姫さんに立ち向かえる程の力がついたんか?
流石に甲子園選手はご大層なこっちゃな。凡人のアタシには及びもつかない世界ですわ。
こんなに暑いのに、野球なんてしてたら倒れちゃう。……じゃあな」
立ち去ろうとする瑞垣を追いかけ、門脇が肩を掴んだ。指が肩に食い込む。門脇は真剣だった。
「俊……すまん。でも……お前に、証人になって欲しいんじゃ。
今の俺が原田と、どんな風に向かい合うかを。お前に……見てて欲しかったんじゃ」
「……」
門脇に冷たい視線を投げかける。
ドロドロとした腹の奥から、門脇に浴びせかけたくなった言葉を、必死で耐えた。
……そんなにそいつ原田が良かったのかよ。
わかっている。単なる嫉妬だ。
自分は原田のように、門脇が求めてやまない宿敵にはなり得ない。
だからこそ、自分は野球を捨てたのだ。
面倒だ、と思う。もう野球とは関係ない。
もう、あんな修羅の世界に足を突っ込むのはごめんだ。
求めても求めても自分の望みは叶う事がないのに。
もう、嫌だったんだ。うんざりだったんだ。
しかし一方で、腹の底から沸き上がる、ある衝動。
常に頭の中で構築し続けていた、戦略や奇策。
メンバーの状態に応じてやり方を変え、それが試合を決定的なものにする、その快感の残滓が、記憶の奥深くからぞろりと立ち上る。
何よりも、自分がバットを握り、グラブを構え、グラウンドを走る充足感を知っていたあの頃の記憶が、瑞垣の心を引き裂く。
それは門脇とのセックスと、酷く似ていた。
八月の暑い盛りとはいえ、水辺の日陰は心地よい涼しさを保っている。
門脇とは帰ってきた翌日から会っていなかった。
実際集中講座が始まって忙しかったのもあるし、何よりまたグズグズと言われるのが嫌だった。
とにかく、誰が何と言おうと、オレはもう野球はする気がない。
「俊! ああ、おったおった。お前、携帯の電源くらい、入れとけや」
自転車の急ブレーキが軋む音がして、次に、門脇の大声が聞こえた。
着信履歴に門脇の名前が残るのが嫌で、電源を切って部屋に放り出していたのだ。
昨日までは夜十時までずっと講座だったから、門脇が例え家を訪ねて来ても会わずに済んだ。
しかし、今日は最終日という事で早めに終了したのだった。……母あたりがバラしたのだろうか。
「……お前、足はどうした」
近づいてきた門脇は細身のGパンを履いていて、特に足を引きずる様子もなく普通に歩いている。
けろりとした顔で門脇は質問に答えた。
「捻挫はもう平気じゃ。縫った傷も昨日抜糸したし、ちょっとは痛むけどまあ、痛み止めを飲んどるから我慢出来る」
一応、怪我の瞬間を見た時には心配したんだが。
瑞垣は馬鹿馬鹿しくなってさっさと立ち去ろうとする。
「……だったら早う寮に帰れ」
冷たい一言を投げかけると、門脇は慌てて腕を掴み、引き留めた。
「今はまだ無理はするなって言われとるから、俊、ちょっと、リハビリに付き合うてくれや」
「現役の甲子園出場選手に付き合う技量も体力もございません」
瑞垣の腕を掴む手に、冗談では済まされない力がこもる。
「……痛ぇんじゃ、馬鹿力! 離せ」
振り解こうとするが、門脇の手はびくともしない。
「付き合うてくれたら、離す」
幾度かの問答の末、結局瑞垣は折れた。
「……さっさとしろよ。オレは連日の講習で疲れ果てとるんじゃ」
掴んだ腕を放さぬまま、門脇は笑顔を見せ、頷いた。
*
陽は徐々に傾いてゆき、心地の良い風が瑞垣の少し長めに伸びた髪を撫でる。
門脇に先導されて渋々ついて行ったのは、古びた市営の総合運動場。
煤けた壁面の体育館を抜けると小さめのグラウンドがあり、人々が思い思いにボール遊びや運動をしていた。
隅でキャッチボールをしている連中に、瑞垣は見覚えがあった。
……いや、忘れるはずがない。半年前、様々な困難を克服して、試合をセッティングした相手チームの、要。
今も時折メールや電話での連絡がある、海音寺。何故か瑞垣に懐いてきた、吉貞。
そして。
野球する事を辞めた今も、時々夢に見る事がある、その顔。
新田東中の二年生バッテリー。原田巧と、永倉豪。
足を止め、無言で門脇を睨みつける瑞垣の元へ、場の雰囲気などお構いなしな吉貞がクネクネしながら走り寄ってきた。
「みっずがっきせんぱぁ〜〜〜〜〜〜〜〜い!」
「……ウザい、寄んな、クリノスケ! 何しに来たんじゃ!」
そばかす顔が瑞垣の目前に迫る。
「そんなの、遊びに来たに決まっとるでしょー。
だってぇ、甲子園出場の一年レギュラー 門脇大センパイから、呼ばれたんですよぉ? 下っ端のおれさまに断る理由なんて全くありませんから!」
遊びましょー、とまとわりつく吉貞の首根っこを引っ掴んで後ろに追いやったのは、実際に会うのは久々の海音寺だった。
「……っておれが原田と永倉を誘いに行ったら、こいつが勝手について来やがったんじゃ。
久しぶりじゃな、瑞垣。こないだの模試で、お前の名前見たぞ。すごいんじゃな。おれ、英語全然ダメなんじゃ」
七月あたまの全国模試で、瑞垣の英語と数学の点数は思った以上に良かった。
実は余り興味がなかったので、結果の紙を放り出していたのだが、それなりに順位も良かったらしい。
「……で、オレは門脇くんにハメられたんですか」
憮然とした表情を浮かべ、瑞垣は門脇を睨みつけた。
門脇は素知らぬ顔で冷たい視線を受け流し、奥でキャッチボールを続ける原田と永倉の方へと向かう。
「可愛い女の子と合コンかと思うたのに、何でお前らの不景気な面とご対面せないかんのじゃ。
オレはもう野球とは関係ないんじゃ。帰るぞ」
怒気のやり場を無くした瑞垣は、タオルで汗を拭う海音寺に怒りの矛先を向けた。
「まあまあ、久しぶりじゃからええじゃろ。後でマックにでもメシ食いに行かんか?」
「クリノスケじゃあるまいし、エサでつられてたまるか」
踵を返そうとする瑞垣の肩に手を置いて、海音寺が引き留めようとしたその時。
「瑞垣さん。……野球、ほんまに、辞めたんですか?」
背後から、僅かに戸惑いを含んだ呼びかけの声。
永倉豪……折角野球なんていう修羅の道から引っ張り上げて やろうと仏心を出したのに、みずからはらだ悪女の魔の手に飛び込んで行った哀れな男……、だった。
あえて振り返らないようにする。永倉の後ろには、必ずあの気にくわない最悪なお姫様がいるだろうから。
「ああ、ホンマホンマ。オレは勉強で忙しいんじゃ。野球なんかして遊んどる暇はないない。じゃあな」
もう、関係ない。野球とは全然、関係ないんじゃ。
足早に立ち去ろうとする瑞垣の背中に、投げかけられた、声。
「……遊ばないんですか?」
何の感情も感慨も、その言葉には含まれていなかった。
酷く冷静な……それだけに聞く者に怒りを孕ませる、その響き。
「刺激がなくて、退屈なんでしょう? それとも、しばらく現役じゃなかったから、身体が動きませんか」
原田巧。その傲慢なものいいは、紛れもなく原田のものだった。
振り返って確認するまでもない。どんな表情をしているかまで、手に取るようにわかる。
野球を知らなければ、こいつに感情をかき回される事もなかったのに。
知らず、唇の端を噛み破っていた。鉄錆の味が、口の中に広がる。
「……お前みたいな性悪と付き合わんで済む分、ストレスがなくてええわ……えらい、口が達者になったもんじゃな、お姫さん。クリノスケに毒されたんとちゃうんか」
怒りの矛先は門脇にも向かう。
「……秀吾。お前、そのコンディションでお姫さんに立ち向かえる程の力がついたんか?
流石に甲子園選手はご大層なこっちゃな。凡人のアタシには及びもつかない世界ですわ。
こんなに暑いのに、野球なんてしてたら倒れちゃう。……じゃあな」
立ち去ろうとする瑞垣を追いかけ、門脇が肩を掴んだ。指が肩に食い込む。門脇は真剣だった。
「俊……すまん。でも……お前に、証人になって欲しいんじゃ。
今の俺が原田と、どんな風に向かい合うかを。お前に……見てて欲しかったんじゃ」
「……」
門脇に冷たい視線を投げかける。
ドロドロとした腹の奥から、門脇に浴びせかけたくなった言葉を、必死で耐えた。
……そんなにそいつ原田が良かったのかよ。
わかっている。単なる嫉妬だ。
自分は原田のように、門脇が求めてやまない宿敵にはなり得ない。
だからこそ、自分は野球を捨てたのだ。
面倒だ、と思う。もう野球とは関係ない。
もう、あんな修羅の世界に足を突っ込むのはごめんだ。
求めても求めても自分の望みは叶う事がないのに。
もう、嫌だったんだ。うんざりだったんだ。
しかし一方で、腹の底から沸き上がる、ある衝動。
常に頭の中で構築し続けていた、戦略や奇策。
メンバーの状態に応じてやり方を変え、それが試合を決定的なものにする、その快感の残滓が、記憶の奥深くからぞろりと立ち上る。
何よりも、自分がバットを握り、グラブを構え、グラウンドを走る充足感を知っていたあの頃の記憶が、瑞垣の心を引き裂く。
それは門脇とのセックスと、酷く似ていた。