太陽が地平線の下へ向かおうとしている。
周囲から人の影が消えた。ざわざわと風の鳴る音だけが聞こえる。
ジャージ姿の原田と門脇が、静謐な緊張感を湛えて対峙していた。
きちんと準備していたらしいプロテクターを着けた永倉が、原田の球を受ける為に待っている。
前にこうして向かい合ったのは春だった。
たった半年で、門脇は将来への大きな一歩を踏み出し、そして挫折を味わった。
そして原田は、半年前と変わらない泰然とした態度で、門脇とまた向かい合っている。
瑞垣の隣に腰を下ろした海音寺が、のんびりとした口調で呼びかけた。
「まあ、座れや、瑞垣。しっかし、門脇、身体がちゃんと出来とるな。さすが、甲子園選手は違うんじゃなあ」
素直な海音寺の賞賛が誇らしくもあり、羨ましい気もする。
離れてから半年。
門脇には永遠に届かない、と思う自分は心のどこかに確かに存在していて、時折瑞垣を疼かせるのだ。
黙り込む瑞垣へさらに、言葉を続ける。
「……やっぱり、高校野球は、中学ん時とはちごうとるな。
また下っ端になるのも辛かったけど、慣れたメンバーとやっていけんのはもっと辛い。
純粋に楽しめるのは、中学までじゃって、ここんとこつくづく思うわ。
……お前、野球やってたら、多分しんどいえらいじゃろ。横手は、ほんまにいいチームじゃったから」
でもそれは、野球を続けているものだけが、知っている、わかっている事だ。
「……でも、あのお姫さんがおらんから、よけいなトラブルを背負い込む事もないじゃろ」
心が波立つ。それを悟られたくなくて、ウォームアップをする原田の姿を見ながら、混ぜっ返してみる。
原田も身長が伸び、程良く維持された筋肉が緊張感のある身体を作り出していた。
中学二年の出来方ではない。
横手の連中で、あんなに身体が出来上がっていたのは、それこそ門脇くらいのものだった。
「その辺は確かに楽じゃけど……でもな、瑞垣、やっぱり原田は他の学校にはおらんのじゃ。
あいつ、化けモン じゃ。高校に入って、つくづく思った」
海音寺の顔を覗き見る。真摯な表情だった。
「まあ、おれの学校も元々野球強い所じゃ。確かに、推薦とかでいい選手も入っとるし、スカウトが来とる先輩もおるんじゃけど……なんかな、インパクトが違うんじゃ。
一度見ただけで忘れられんような、そんな衝撃があったのは……今の所、原田と門脇だけじゃな。
……じゃから、お前も、幸せだと思うぞ、瑞垣。門脇くらいの選手に信頼される奴って、そーとーなもんだと思うんじゃがな」
「……信頼?」
海音寺は何を今更、という顔で首を傾げる。
「門脇は、お前の判断を全面的に信頼しとったじゃろ。
試合の前、打ち合わせで門脇に電話した時も、何度も『俊だったら大丈夫じゃ』って言っとった。
お前だって、門脇の力には全面的な信頼を置いとったじゃろ?
原田と永倉はバッテリーじゃけどお互いが最大の敵同士のようなもんじゃから、あいつらに心安らぐ時はないじゃろうけど、でも、お前らは違う。
信頼の長さも深さも、原田たちとは桁が違う。じゃから……お前は、野球をしなくなったんじゃろ?」
瑞垣は身じろぎもせず、海音寺の顔を見つめていた。
オレは、あいつが嫌いで嫌いで、憎くて、そして……羨ましかった。
ただそれだけだった。ドロドロとした自分の感情を自覚していたから、野球から離れた。
その感情の奥底に眠る、瑞垣の本当の気持ち。
どうしてこいつは、それを臆面もなく暴き立てる事が出来るのだろう。
「海音寺」
ふと溜息をつき、再び顔を上げた瑞垣は、唇の端に自然な笑みを浮かべた。
「なんじゃ?」
「お前がオンナノコじゃったら、オレ、多分、メロメロじゃ」
「……やめれ」
なんとも言えない複雑な表情を浮かべて、海音寺は原田に視線を移した。
原田が、大きく息を吸い込む。
「巧」
永倉の声が響く。
門脇が、バットを構える。
あの試合が終わってから、止まってしまっていた時計が、今、動き始めた気がした。
*
腕時計が指し示す時間は二十一時四十五分。昼間の熱気が嘘のように、冷ややかな風が頬を撫でてゆく。
瑞垣と門脇は、無言のまま自転車を押し、並んで歩いていた。
ぱし、と足下の枝が弾ける。門脇の家の近所の公園の入り口にさしかかった時、門脇が遠慮がちな声を上げた。
「俊……うちに、寄っていかんか。俺、明後日帰る事になった。今日はみんな親戚の所に行ってて、誰もおらんから」
不器用で露骨な誘い方だと思った。しかし、門脇からこういう風に誘ってくることが、信じられない気もする。
自分の門脇への感情はもう、以前のそれではないのだ。
チームメイトなんて、同級生なんて、友人なんて、そんな生温い、お互いを高め合うような、優しい繋がりではない。
心を身体を貪欲な程求めて、喰らい尽くしたい。
そんな瑞垣の情欲の深さを、きっと門脇はわからないだろう。
……それでもいい。初めて、そんな風に思った。
例えそれが一時だけの事であっても、こんな風に瑞垣を誘う門脇の言葉があるだけで、いい。
「門脇」
「……なんじゃ?」
「オレ、お前の事が、好きじゃ」
風が二人の間を吹き抜ける。門脇は嬉しそうに微笑んだ。
「……俺もじゃ」
周囲から人の影が消えた。ざわざわと風の鳴る音だけが聞こえる。
ジャージ姿の原田と門脇が、静謐な緊張感を湛えて対峙していた。
きちんと準備していたらしいプロテクターを着けた永倉が、原田の球を受ける為に待っている。
前にこうして向かい合ったのは春だった。
たった半年で、門脇は将来への大きな一歩を踏み出し、そして挫折を味わった。
そして原田は、半年前と変わらない泰然とした態度で、門脇とまた向かい合っている。
瑞垣の隣に腰を下ろした海音寺が、のんびりとした口調で呼びかけた。
「まあ、座れや、瑞垣。しっかし、門脇、身体がちゃんと出来とるな。さすが、甲子園選手は違うんじゃなあ」
素直な海音寺の賞賛が誇らしくもあり、羨ましい気もする。
離れてから半年。
門脇には永遠に届かない、と思う自分は心のどこかに確かに存在していて、時折瑞垣を疼かせるのだ。
黙り込む瑞垣へさらに、言葉を続ける。
「……やっぱり、高校野球は、中学ん時とはちごうとるな。
また下っ端になるのも辛かったけど、慣れたメンバーとやっていけんのはもっと辛い。
純粋に楽しめるのは、中学までじゃって、ここんとこつくづく思うわ。
……お前、野球やってたら、多分しんどいえらいじゃろ。横手は、ほんまにいいチームじゃったから」
でもそれは、野球を続けているものだけが、知っている、わかっている事だ。
「……でも、あのお姫さんがおらんから、よけいなトラブルを背負い込む事もないじゃろ」
心が波立つ。それを悟られたくなくて、ウォームアップをする原田の姿を見ながら、混ぜっ返してみる。
原田も身長が伸び、程良く維持された筋肉が緊張感のある身体を作り出していた。
中学二年の出来方ではない。
横手の連中で、あんなに身体が出来上がっていたのは、それこそ門脇くらいのものだった。
「その辺は確かに楽じゃけど……でもな、瑞垣、やっぱり原田は他の学校にはおらんのじゃ。
あいつ、化けモン じゃ。高校に入って、つくづく思った」
海音寺の顔を覗き見る。真摯な表情だった。
「まあ、おれの学校も元々野球強い所じゃ。確かに、推薦とかでいい選手も入っとるし、スカウトが来とる先輩もおるんじゃけど……なんかな、インパクトが違うんじゃ。
一度見ただけで忘れられんような、そんな衝撃があったのは……今の所、原田と門脇だけじゃな。
……じゃから、お前も、幸せだと思うぞ、瑞垣。門脇くらいの選手に信頼される奴って、そーとーなもんだと思うんじゃがな」
「……信頼?」
海音寺は何を今更、という顔で首を傾げる。
「門脇は、お前の判断を全面的に信頼しとったじゃろ。
試合の前、打ち合わせで門脇に電話した時も、何度も『俊だったら大丈夫じゃ』って言っとった。
お前だって、門脇の力には全面的な信頼を置いとったじゃろ?
原田と永倉はバッテリーじゃけどお互いが最大の敵同士のようなもんじゃから、あいつらに心安らぐ時はないじゃろうけど、でも、お前らは違う。
信頼の長さも深さも、原田たちとは桁が違う。じゃから……お前は、野球をしなくなったんじゃろ?」
瑞垣は身じろぎもせず、海音寺の顔を見つめていた。
オレは、あいつが嫌いで嫌いで、憎くて、そして……羨ましかった。
ただそれだけだった。ドロドロとした自分の感情を自覚していたから、野球から離れた。
その感情の奥底に眠る、瑞垣の本当の気持ち。
どうしてこいつは、それを臆面もなく暴き立てる事が出来るのだろう。
「海音寺」
ふと溜息をつき、再び顔を上げた瑞垣は、唇の端に自然な笑みを浮かべた。
「なんじゃ?」
「お前がオンナノコじゃったら、オレ、多分、メロメロじゃ」
「……やめれ」
なんとも言えない複雑な表情を浮かべて、海音寺は原田に視線を移した。
原田が、大きく息を吸い込む。
「巧」
永倉の声が響く。
門脇が、バットを構える。
あの試合が終わってから、止まってしまっていた時計が、今、動き始めた気がした。
*
腕時計が指し示す時間は二十一時四十五分。昼間の熱気が嘘のように、冷ややかな風が頬を撫でてゆく。
瑞垣と門脇は、無言のまま自転車を押し、並んで歩いていた。
ぱし、と足下の枝が弾ける。門脇の家の近所の公園の入り口にさしかかった時、門脇が遠慮がちな声を上げた。
「俊……うちに、寄っていかんか。俺、明後日帰る事になった。今日はみんな親戚の所に行ってて、誰もおらんから」
不器用で露骨な誘い方だと思った。しかし、門脇からこういう風に誘ってくることが、信じられない気もする。
自分の門脇への感情はもう、以前のそれではないのだ。
チームメイトなんて、同級生なんて、友人なんて、そんな生温い、お互いを高め合うような、優しい繋がりではない。
心を身体を貪欲な程求めて、喰らい尽くしたい。
そんな瑞垣の情欲の深さを、きっと門脇はわからないだろう。
……それでもいい。初めて、そんな風に思った。
例えそれが一時だけの事であっても、こんな風に瑞垣を誘う門脇の言葉があるだけで、いい。
「門脇」
「……なんじゃ?」
「オレ、お前の事が、好きじゃ」
風が二人の間を吹き抜ける。門脇は嬉しそうに微笑んだ。
「……俺もじゃ」