「今日の夜10時過ぎから早朝3時にかけて、1年振りの皆既月食が見られます。皆既月食とは、満月の日に地球が太陽と月の間に入ることで起こり……」
シュテルンビルト・ゴールドステージ、シュテルンメダイユ地区。
高層ビルの壁に埋め込んである巨大ヴィジョンが、朝のニュースを流している。
「月食が最大になるのは午前1時30分頃、ピークの時間帯では太陽の光を反射した赤い月が見られます。皆さんも天体ショーをご覧になってみませんか?」
司法局へと足を運ぶユーリ・ペトロフの髪をふわりと掠めてゆく早朝の風は、何処か温かい。
2月の下旬になって、それまでは肌に刺さるようだった空気の冷たさがぴたりと止み、シュテルンビルトの街全てが春へ向けて動き始めたようだった。
今年はいつもよりも季節の移り変わりが早い気がする。
それはマーベリックの事件からずっと、ヒーロー管理官としての業務が山積していたせいもあるのだろう。
マーベリックとウロボロスの絡んだ一連の事件の捜査。過去の洗い出し。そしてタイガー&バーナビーの引退と、その為の諸業務。
残業続きの日々の中、NEXTが起こす凶悪犯罪は目に見えて減少していた。
勿論、世に犯罪の尽きる事はない。しかし、残った6人のヒーロー達が追う事件も、せいぜい立て篭もりや強盗、または災害時の救助などで、殺人が絡むような深刻な犯罪は発生していなかった。
当然、ルナティックとしての責務を果たす機会もなく、ただ一介の裁判官として、職務を全うする日々。
ユーリにとっては、忙しくはあるが静かな毎日だった。
そしてもう一つ、ささやかな変化が生じていた。
長い間ユーリを苛んできたレジェンドの幻が、「あの日」以降、ぴたりと姿を現さなくなったのだ。
何故かはわからない。しかし、ユーリの心はそれだけで凪いでいる。
静寂に包まれた、孤独だがしかし心穏やかな生活は、レジェンドが酒に溺れるようになってからは経験した事がなかったものだ。
そして、ようやく動かす事に違和感のなくなった左肩には、僅かに引き攣れたような痕が残っていた。
「あの日」虎徹の病室を訪れた後、ユーリは引退セレモニーとその後のパーティ以外で虎徹と顔を合わせる事はなかった。否、なるべく合わせないように心がけていた。
何事もない振りをするのは簡単だ。しかし、それがまったく苦痛でないと言ったら嘘になる。
しかしユーリの心を裏切るように、虎徹に見せる事のなかった素肌に、唐突に虎徹の体温の記憶がフラッシュバックする。眠りにつく前に。あるいは、仕事が落ち着いたその隙間に。
ただ一度の。交わりとも言えぬような交わり。
ユーリはその感覚を逃す為に、深く息をついた。忘れなければならないもの程、鮮やかに再現されてしまうのは何故なのだろうか。
厭わしくすらあるその記憶は……しかし一面で、ユーリの背中を支えている事も否定出来ず。
リボンでまとめた髪が風になびいて揺れた。
そして、ユーリはジャスティスタワーの前で足を止め、補修の終わった女神像の顔を見上げる。
科学者ロトワングの作ったアンドロイドとの戦闘で破壊された女神の顔。
表面上は綺麗に元に戻ったように見えるが、近くから見ると補修した部分だけ色が違っていて、継ぎ目がよくわかるようになっている。
それはまるで、昔、女神の瞳にかけられていたという目隠しの布の跡のようだった。
目に見えるものに惑わされずに、ただ客観的に真実を判断せよ、という意図あってのものだったそうだが。
布を外したその瞳は果たして何処まで、巨大都市シュテルンビルトの影に潜む真実を、見透かす事が出来ているのだろうか。
*
執務室の外から、遠慮のないノックの音がした。
「はい?」
ユーリはドアに向かって返事をする。デスクの端に置いた時計が丁度、午後2時のアラームを鳴らした。
「あー、管理官、入ってもいっスか?」
それは、もう二度と聞く事もないだろうと思っていた声、だった。
鏑木虎徹の。
いいですよ、と返事をする前に、虎徹はドアを開けて執務室に入ってきた。
「うわ、相変わらずすっげー書類の量」
デスクにはユーリの決裁を必要とする膨大な書類が積んである。朝からずっと処理をして、5分の1程に減らしてはいたのだが、一通り終わるまでに勤務時間いっぱいはかかるだろうと予測している。
「……どう、なさったんですか?」
まさかもう一度顔を合わせる事になるとは。もうシュテルンビルトを離れたと思っていたのに。
「いや、色々後片付けしてたら意外と時間かかっちまって。明日オリエンタルタウンに帰る事になったんで、みんなに挨拶に、と思って」
いつもの格好をした虎徹は、人懐こい笑みを浮かべてユーリを見つめている。
何処か居心地悪く感じるのは、虎徹のせいではなく自分に含みがあるからだ。ユーリは柔らかな笑顔を形作りながらも、内心の動揺を自覚する。しかし口に出したのは当たり障りのない会話だ。
「もう、帰られたのかと思っていましたよ」
「俺もサクっと帰るつもりだったんスけどね。引退セレモニー済んでからバニーが旅に出るっつーからそれ見送って、あと部屋の片付けして、引退手続きの後処理して……ってやってたら、いつの間にか」
虎徹はハンチングを手で弄びながらも、ユーリをじっと見つめている。
優しげな、しかし心の奥底を見透かすような琥珀の瞳。
「管理官とも、ゆっくり話したかったんスけど、なかなか時間も取れなくて」
言いながら、虎徹はベストのポケットから小さなメモ用紙を取り出した。
虎徹はそれをデスクの隅のペーパーウェイトの下にはさみ込むようにして置いた。
「あ、これ、俺の連絡先です。知ってるかもしれないっスけど。……あと、良かったら、今晩でも飲みに行きませんか? 折角だし」
「……え?」
意外な誘いに、ユーリは一瞬まじまじと虎徹の顔を凝視してしまった。
虎徹は穏やかな笑みを浮かべながらも、冗談とは程程遠い目をしている。どうやら本気で誘っているらしい。
「いや、楓には明日遅くなるとは言ってるし、車で帰るからいつこっちを出てもいいし。これまで、……ペトロフさんとはパーティー以外でまともに会話するような時間もなかったから」
ユーリは僅かに首を傾げた。虎徹の意図がよくわからない。
気まずくはないのだろうか。
「暇だったら、ですけど。……こないだから、ずっと、話がしたくて」
その言葉には何処か艶めいた含みが隠されているような気がして、ユーリは一瞬眉を潜めた。
虎徹が入院していた病室で、ユーリから誘う形で為された、秘めやかな行為。
虎徹はただ、ユーリの気紛れで行った事だと思っていれば良いだけなのに。
……その行為に、深い意味など読み取って欲しくはないのに。
ユーリはゆったりとした笑顔を浮かべた。内心の揺れを悟られないように、気をつけながら。
「行きたいのは山々なのですが、ここの所仕事が立て込んでいて……申し訳ありませんが」
虎徹はあからさまに、残念そうな表情を浮かべる。
意外な事だらけだ。この男はもう、決してユーリとは接点を持たないだろうと思っていたのだが。
「そっスか……わかりました」
虎徹が帽子をかぶり直した瞬間、館内にエマージェンシーを告げるコールが鳴り響いた。
穏やかな表情をしていた虎徹の顔が一気に引き締まる。それはヒーローとして犯人に対峙していた時と全く変わらない鋭さを孕んでいた。
デスク上のモニターが立ち上がり、ヒーローTVの生中継を流し始めた。テンションの高い、マリオの実況音声が流れてくる。
「……駅で発生した通り魔事件は、死者3名、負傷者3名の惨事となり、……犯人は殺人で指名手配中のNEXTと見られ、現在は車で逃走中……」
ヘリからの中継らしい。上空から駅の建物を見下ろす形の画面。電波が乱れているのか、途切れがちの音声と映像がモニターから流れてきた。
駅の出入り口周辺を取り囲む警察官とパトカー、そして数台の救急車、周囲の野次馬の群れ。混乱した様子は、画面越しからでも十分過ぎる程に伝わってきた。
死者、3名。
遠景が映された事件現場は、あからさまに赤黒く染まっていた。大量の警察官が現場を取り囲む中、退屈な、平穏な日常を繰り広げていただろう駅前の広場はそれを喪い、禍々しい程の血に汚されている。
「……」
ユーリはちらりと、無言になった虎徹の表情を伺った。
虎徹は唇を噛んで黙りこくっている。
眉間に皺を寄せて、巌しい顔で中継の音声に聞き入る様子は、抱いているであろう無力感と焦燥感を隠す事も出来ない。
ヒーローではない虎徹に、事件について何かをする権限はもうない。
ただ一般人と同じように、今後の推移を見守るしかないのだ。
「ヒーロー達に逮捕許可証を出さなければなりませんね」
ユーリはあえて虎徹の心に棘を刺すような言葉を口にしてみた。虎徹に向かう自分の視線に、何処か冷ややかなものが交じるのが、自分でもわかる。それは権限を失っ元たヒーローへの冷笑なのか、それとも、……何かを期待してしまうのか。
……私は一体何を、この男に求めているのだろう。
ユーリはしかし、心の奥底から沸き上がる問いを、無視することが出来なくなっていた。
お前はもう、力を失いつつあるただのNEXTでしかない。どうする、鏑木虎徹?
虎徹は何処か無念さを滲ませた表情を浮かべながら、目を閉じた。
「……あいつらに、任せます。きっとすぐ、捕まえるだろうから。俺は今、ヒーローじゃねぇし。俺がしゃしゃり出るのは筋が違う」
その口調は重く、苦しげだった。ユーリの視界の端には、虎徹の握り締めた拳が映っている。
それはきつく握りしめられ、怒りにか、苦しさにか、小さく震えていた。
虎徹は大きな溜息をつき、笑みの形に唇を歪めようとして失敗してしまう。引きつった頬と笑みのぎこちなさが、虎徹の内心の落胆をはっきりと示していた。
「お世話に、なりました。……あ、明日の昼くらいに車で出発予定なんで、もし暇出来たら、それにでも連絡下さい」
「……時間が、あれば。長い間、第一線のヒーローとしての活躍、お疲れ様でした。どうか、お元気で」
ただの社交辞令にしか聞こえないように。感情的な含みなど伝わらないように、あえて素っ気ない口調でユーリは告げる。見送る為に立ち上がる事すらしなかった。……そうすれば、虎徹もユーリに含む所など何もないと思うだろう。
虎徹は何か言いたげな顔をしたが、それを振り切るように軽く頭を下げて執務室を出ていった。ドアの閉まる音が、嫌に大きく響く。
……これで終わりだ。
もう出会う事も、交わる事もないだろう。二度と、だ。
軽く息をついて、デスクの上のモニターに視線を戻す。
「……重傷者3名は現在病院に収容されていますが、命に別状はないとのことで……」
一人一人の写真が映し出される。
その中の一人はまだ幼い少女だった。
ユーリの記憶の中から、その少女の姿が立ち上がる。最初に見た時はガリガリに痩せていた。殴られる母親を庇おうと必死になっていた記憶が蘇る。
……この、少女は。
痩せ気味で、悟りきったような瞳の。
『わたし、だれにも言わないから! 絶対、だれにも言わないから!』
悲鳴にも似た声でそうユーリに告げて、それきり会わなかった。
ユーリが一番最初にタナトスの声に従い、裁きを下した男の、娘。
ヒーローTVの画面が、追跡するヒーロー達の画に切り替わった。
「男は触れた人間の動きを止める能力を持っているとの事で、一旦被害者に触れて動きを止めた後、ナイフで刺したと……」
次々にヒーローが映し出される。追跡に多くの警察官も動員されているようだった。あちこちで検問が行われている様子が映し出される。
そして犯人の顔の写真。
「この男が犯人のロジャー・レイノルズです。薬物使用での逮捕歴があるとの情報があります。視聴者の皆さん、危険ですので、もし目撃した場合は速やかにその場から離れて下さい」
世間への不満に満ちた昏い顔。頬の痩けた、陰気な目をした中年の男だった。
ユーリは静かに目を閉じる。
不可逆の大罪を犯した者への、正統な罰、とは、何か。
喪われた命は、奪った者の命を以ってしか償う事が出来ない。
……月蝕が、ルナティックを呼ぶのだ。
シュテルンビルト。この都市でただ一人、死刑を執行する者として。
ユーリはデスクの上の書類の量を確認する。日が暮れるまでには片付いてしまうだろう。
それまでにヒーロー達が犯人を確保出来ればそこを狙えばいい。
そして確保出来なければ、自分が。
先程虎徹が出ていったドアの前に、不意に人の気配がした。
肌が粟立つ。肥え弛んだ身体。滑稽な程古臭いヒーロースーツのデザイン。威圧的な態度でユーリの前に立ちはだかるそれは、しばらく見ることのなかった幻。
レジェンド。
ユーリが確かに殺した筈の父親は、青白い顔で、ユーリを挑発する。
『ユーリ。お前に正義などない。父親を殺した罪深い息子。お前は永遠に、殺人の罪からは逃れられない。誰かに殺されるまで、お前は永遠に誰かを殺し続けるのだ』
ユーリは無言で、その幻を睨みつける。噛み締めた奥歯から嫌な音がした。
『血に塗れた手と罪の痣を持つお前に、正義などない。お前は人を殺したいという衝動を正当化したいだけなのだろう? この犯人とお前は、どう違う?』
侮蔑と挑発に満ちた声にユーリは答えない。
『否定する気もないか? 堕ちたものだ』
「……好きなだけ言っておくといい」
ユーリはそれだけ返すと、あとは黙して書類の束に目を落とす。
私の、正義とは。
書類の文字を追おうとするが視線が定まらない。しかし深く息をつき目を閉じた瞬間。
瞼の裏に先程の虎徹の笑顔が浮かんだ。
「……」
『あなたは一体、何から逃げたいんですか?』
虎徹が入院していた時に訪れた病室で、そう問われた。
その時は虎徹の追求から逃げたい一心だったのだが。
本当に逃げたかったのは。
自分が犯してしまった、永遠に償う事の叶わない罪から、だ。
幸福を追い求める権利など自分には何処にもない。しかし、……誰かの幸福を願う事だけは、多分ユーリにも許されている。
大切な者を喪った誰かが、それを奪った人間が世界から消えてしまう事で、得られるものがあるように。
ユーリに唯一許されたその想いが、ユーリにタナトスの声を伝え続ける。
再び目を開けると、その幻は姿を消していた。
……私の、正義だ。他の誰でもない、私だけが遂行出来る、正義の形。
ユーリは再びモニターを見つめる。ヒーロー達が必死で捜索をする様子が流されていた。
「……お前達は夕刻までに、逮捕出来るのか、ヒーロー?」
モニターでは引き続き、ヒーロー達の追跡の様子が映し出されている。
*
東の空に、大きな満月が姿を見せ始めていた。午後6時30分。
街頭の大ヴィジョンが、指名手配中の通り魔ロジャー・レイノルズを追い詰めるヒーロー達の様子を中継している。ヒーロー達の活躍を応援する市民の声があちこちに響いていた。
ユーリはルナティックとして、近くの廃ビルの屋上からその様子をじっと見つめる。……もうすぐだ。
ユーリはヒーロー管理官の職務の為に与えられた端末から、ヒーロー達のやり取りを伺う。
『スカーイハーイ!』
車で逃走するロジャーを空から追跡していたスカイハイが、ついに攻撃を仕掛ける。
エアカッターがタイヤを傷つけ、車は回転しながら動きを止めた。
『ローズ、車ごと凍らせちゃいなさい』
地上で車に乗って待機していたファイヤーエンブレムが、同乗していたブルーローズに咄嗟に指示を出した。ブルーローズは中継用の決め台詞を叫びながら、フリージング・リキッド・ガンを射出し、一瞬で車を凍らせた。寒々とした青い色の刃が車の周囲を取り囲む。
『折紙、ドラゴンキッド、……周囲に邪魔なものがないか見張ってて』
アニエスが中継ルームから、折紙サイクロンとドラゴンキッドに指示を出した。
少し離れた所から二人は大きな返事をし、野次馬達を遠ざけながら、辺りに目を配っている。
『アニエス、何か嫌な邪魔とか、入って来てないわよね?』
アニエスに対して問うファイヤーエンブレムの言葉には、何処か含む所がある。
『今の所いないわよ。私は出て来てくれた方が盛り上がってくれて嬉しいんだけど。ロックバイソン、ローズが狙われそうになってら守って頂戴』
『ア、アニエスさんのおっしゃる通りに!』
ファイヤーエンブレムの隣の席に座るロックバイソンは、何処か嬉しそうにPDAから流れてくる音声に返事をした。
『……何かムカつくわね、その態度』
ルナティック出現をある程度予想しているのだろう。
アニエス・ジュベールはルナティックの存在すらもヒーローショーの存在人物の一人として考えているようだが、ユーリはそれで構わないと思っていた。ヒーローの存在に疑問を持つ市民が増えるのならば、それは望むところなのだから。
「……そろそろか」
もうロジャーは身動きが取れないだろう。タナトスの声に従いその罪を清算させるまで、もう少し。
ユーリはその身体から、青い炎を噴き出させる。身体から放たれる高い熱がユーリを空へ運ぶのだ。炎を宿したクロスボウを構え、ヒーロー達とロジャーの集まる場所へと。
その身体がふわりと宙を舞う。
『ルナティック……!』
街頭ヴィジョンの音声が、スカイハイの声をユーリに伝えた。
その声音に驚きの色はない。他のヒーロー達は無言で、炎を纏って空から堕ちてくるユーリの姿を見上げている。
「……やっぱりおでましねルナティック。怪我はもう、治ったのかしら?」
何処か挑発するような調子でファイヤーエンブレムが呼びかけてきた。
実況の音声がルナティック登場を告げている。答える事なくユーリが着地した、その時。
重い衝撃音がした。
強い爆風がその場にいた全員に叩きつけられる。
「えっ……?!」
車から降りたファイヤーエンブレムとロックバイソン、そしてブルーローズが振り返る。
凍らせていた筈の車が炎を上げていた。
煙の中から、ゆらりと人影が立ち上がる。
「何、どういうこと……?!」
頭から血を流した男が、目を剥いて叫んだ。
「いてええええ!! お前ら、死ね!!」
その瞬間、ファイヤーエンブレムの足元で、小さな爆発が起こった。
「ローズ!」
ロックバイソンが二人の前に立って能力を発動した。ファイヤーエンブレムは咄嗟にブルーローズを庇い、ブルーローズはロックバイソンの前に、氷で巨大な盾を作る。
大きな衝撃音がして、盾に蜘蛛の巣のような罅が入る。ぱりん、と音に続き、盾は粉々に砕けた。
三人の前で木っ端微塵になった石がバラバラと落ちる。
「爆発を起こすのか……?!」
空から舞い降りたスカイハイは、その爆発を見た瞬間に折紙サイクロンとドラゴンキッドに叫んでいた。
「周囲の市民を避難させるんだ! 私は被害が出ないように食い止めるから! 早く!!」
スカイハイは風を身に纏い、さらに、ファイヤーエンブレム達三人の周囲にも風を起こす。
「二つの能力を持つネクスト…か?」
ヒーロー達がロジャーに近づきあぐねているのを尻目に、ユーリは自らの炎でそのマントを燃やしながらロジャーの近くへと歩みを進めた。そして、低く抑えた声でロジャーに問う。
「殺人の大罪を犯したお前に聞こう。何故その力を以って人を殺さなかった? ナイフを使用した理由は?」
ロジャーは額から流れ落ちる血をべろりと舐める。蛇のような笑みが、唇に張り付いていた。
「そんなの、苦しむ姿が見られねぇからに決まってんだろ! どくどく血ぃ流しながら、もがき苦しんで死んでいくのを見てるのは、たまらねぇんだぜ……!」
明らかに薬で濁った瞳をして。恍惚とした表情を浮かべるロジャーの身体は蒼白い光に包まれていた。
ユーリの足元で、パン、と何かが弾ける。
おそらく、物質を膨張させて爆発させる能力なのだろう。粉々に砕けた石の欠片がユーリに襲いかかる。それは青い炎に巻き取られ、地面へ落ちていった。
虎徹が執務室を出て行ってから程なく、ヒーロー達にロジャーの逮捕許可を出す為の資料がユーリの手元に送られてきた。
屍体に刻まれた無数のナイフ痕。3人とも直接の死因は頸動脈の損傷による失血死だったが、じりじりと傷をつけられた時の恐怖が顔に残っていた。恐怖に目を見開いて。あるいは苦悶の表情を浮かべて。事件の度に見せられるものではあったが、その凄惨さは群を抜いていた。
負傷者も命には別条がないものの、やはり沢山の切り傷が身体に残されていた。
メールに添付された最後の画像を開く。……いつか出会い、二度と顔を合わせる事もないだろうと思っていた少女は、蒼白な顔をして瞳を閉じていた。出血量が多かったものの、輸血によって事無きを得たということだった。
左の頬から顎にかけて、刻まれていた赤い筋。
ユーリは静かに息を吐く。
この罪を。そして失われた命を。
……看過する訳にはいかないのだ。
「……薬に溺れる哀れな罪人よ。我を失い血に飢えたその魂は、死によってしか救われぬ」
マスクの見開かれた目から、青い炎が吹き上がる。
「タナトスの声を聞け」
炎を纏った矢をクロスボウにつがえ、放った。
「っあああああああ!」
矢はロジャーのボロボロのスニーカーを足ごと貫き、地面に縫い止める。
能力が暴走を始めたのだろう。ぱん、ぱんと音がして、地面に落ちていた小石が次々に弾ける。
スニーカーがじり、と音を立てて燃え始めた。ロジャーは慌てて矢を抜こうとするが、足の甲を深く貫いた矢はそう簡単に抜けようとはしなかった。炎はじわりと燃え広がってゆく。
「司法の手を離れた裁きは許されない!」
スカイハイがユーリに向けて衝撃波を放ってくる。
風の刃が鋭い音を立て、ユーリを襲った。しかし、ユーリは炎を身に纏いそれを掻き消す。
「……見世物の哀れなヒーロー達に、罪人を救うことなど出来はしない」
その時だった。
ひゅん、と風が鳴る。
気がつけば、ユーリの右手首にワイヤーが巻き付いていた。ワイヤーはユーリの背後へと続いている。
……これは。
「虎徹!」
ロックバイソンがワイヤーを放った者の名を嬉しそうに呼んだ。
それはもう、ヒーローではなくなった筈の。
執務室に顔を出した時と同じ格好の。
アイパッチで顔を隠す事もしていない。一個人としての鏑木虎徹が、ワイヤーでユーリの動きを封じている。
「お前らはそいつを何とかしろ! 俺はルナティックを止める!」
ヒーロー達は一斉に、ロジャーの方を向き直った。ブルーローズが氷を作り出して炎を掻き消す。
「……ヒーロースーツもなしで、無茶してんじゃないわよ、タイガー!」
ブルーローズの声が何処か嬉しそうに弾んでいる。
「わかったよ、ワイルド君! ありがとう、そしてありがとう!」
「サンクス、タイガーちゃん!」
ヒーロー達が次々に礼を言いながら、ロジャーを追い詰めてゆく。
ユーリは静かに、背後の虎徹へと向き直った。
「……邪魔をするな、元ヒーロー。お前にはもう、この場にいる資格はないはずだが?」
煽るように嘲笑含みの言葉を投げかける。
しかしユーリの内心を支配していたのは、邪魔をされた事への怒りではなく。
心震えるような、歓喜なのかもしれない、と、奥底で自覚する。
「うるせぇよ! ……犯人を逮捕するのはこいつらの仕事だから俺は手を出さねぇ。俺は、お前に用があって来たんだ、ルナティック」
揶揄するのでも、侮蔑するのでもない。虎徹の瞳は静かな色を湛えて、ユーリを、ルナティックのマスクを見つめていた。
「恨み言でも言いに来たのか?」
「そうじゃねぇよ」
虎徹は僅かにワイルドシュートを緩める。
「あ、これは今日だけ特別に借りてきたんだ。一応、そう簡単には燃えねぇから」
「御託を聞いている時間はない。離せ」
しかし、ワイヤーはユーリの手袋で包まれた腕を縛めたままだった。
「……俺は明日、シュテルンビルトを離れる。絶対今日、お前は出てくるだろうと思ってたから……一つだけ、伝えときたくて」
「私と交わす話など無い筈だが? ……離せ、と言っている」
虎徹は動じない。脅しの為に足元に炎を放ってみたが、虎徹は動こうともしなかった。
ヒーロー達はロジャーを氷漬けにし、意識を失わせた上で確保したようだった。街頭ヴィジョンから、マリオの興奮した実況アナウンスが聞こえる。
「あー、あれだ。前に、助けてくれた礼が言いたかったんだ」
よく通る声で虎徹が告げたのは意外な言葉だった。
「俺が追われてた時、お前が見逃してくれたからこそ、最終的にマーベリックに辿り着いた。……結局お前がマーベリックを狙ってただけなのかも知れねぇけど……感謝してる」
この男は……何を言っている。
ユーリはただ黙して、さらに何か告げようとする虎徹の言葉を待った。
一体何を考えているのか。
「だから。殺すのはもう、マーベリックで最後にしとけよ。これ以上罪を重ねんなよ……!」
それは悲鳴にも似た。
怒りと悲しみの混じり合う叫びだった。魂の底から迸るような真摯な響きが、ユーリの心に罅を入れる。
「命を奪った罪は、殺した者の命と引き換えにすべきものだ。タナトスはただ、相応の罰を与えんと私に命じる。私は、タナトスの声に従うのみ」
平静を装ってユーリは応えた。息が、苦しい。
「……そんな神なんて何処にもいねぇよ! 何がタナトスだ! お前一人に殺人の罪を背負わせるのが、神の正しい裁きだっていうのかよ……。そんな神の言う『正義』なんていらねぇよ……!」
ルナティックへの憎しみしかないのだろう、と思っていた。最後に虎徹が残したいのは恨み言だろうと。
「お前の信じてる『正義』を全部、捨てちまえば楽になれるんじゃねぇのか……?」
ユーリはマスクの中で目を閉じる。
虎徹のその言葉には、打算の無い、純粋にルナティックの事を慮る響きがあった。
「だから……素直に捕まれよ。もういいじゃねぇか。罪を裁くのは、裁判官の仕事だろ?」
ユーリは押し殺した声で、虎徹に問う。
「鏑木虎徹。……既にお前はヒーローではない。ただの一般人でしかないお前が、私を捕まえるというのか? 逮捕するのは、警察かヒーローの権限の筈だが? ヒーローであった者が法を犯すのか?」
逃げ口上でしかない事は自分でもわかっている。揺らぐ自分の心を奮い立たせたくて、ユーリは虎徹を追い詰めようと、立て続けに炎を発した。
しかし虎徹は能力を発動させようとはしない。ただじっと、どこか悲しげな色を湛えた瞳でユーリを見つめていた。
「……確かに俺はもう引退した一般人だ。ハンドレットパワーも物凄い勢いで減退してってる。……でも、ヒーローとしての俺のプライドは、俺の正義は、引退した所で目減りしたりしねぇ。……誰かが罪を犯そうとしてるのを止めるのも、ヒーローの仕事だからな」
虎徹の唇の端に、柔らかな笑みが浮かぶ。
「ヒーローとしての志だけは、引退しようが何しようが消えやしねぇよ」
低い、よく通る声が、ユーリの心に真っ直ぐに届く。
……鏑木虎徹は。
能力減退の果てに、大切な何かを手に入れたのだ。
父・レジェンドが見失い、死ぬまで持ち得なかった、何かを。
ユーリの心の中でわだかまっていたものが、少しずつ流れ落ちてゆく。
春を前にした流氷が、融けて小さくなってゆくように。
しかしそれは一方で、ユーリに一つの道を指し示していた。
背後で護送車がサイレンを鳴らしながら現場を離れていった。
そしていつの間にか、他のヒーロー達が集まり、虎徹の言葉を聞いている。
「……あとはお前らに任せたから。シュテルンビルトの平和を守ってくれよ。さあルナティック、お前も大人しく」
他のヒーロー達がルナティックを取り囲む。
「人の生命を自らの手で奪う事の意味を、鏑木虎徹、お前は知らない」
あの日。
ユーリの放った青い炎でレジェンドは焼かれ、崩れ落ち、その生命を消した。
それは確かに、ユーリが望んだものだったのだ。
死んでしまえばいいと。死ねば、母が、皆が幸せになれるのだという確かな信念を抱いて、ユーリは父親を殺したのだ。
「人の生命を奪ったものに相応の裁きを与えうるのは、殺意を知る者のみ。……タナトスはそれ故に、、私にその役目を与えた。私の生は、その声を聞き、タナトスの望みを全うする為にある」
その闇を、虎徹は知らなくていい。そんなものとは一生縁がないまま、賑やかな生を全うすればいいのだ。
ユーリは青い炎の力を借りて、ふわりと浮き上がる。ユーリを縛めていたワイヤーは、力を増した炎の熱で溶けて切れた。
「私はタナトスの声を伝えるもの。お前は死の闇を知らぬまま、一般人に戻ればいい。鏑木虎徹……お前の『正義』がどれ程のものかは、その中で明らかになるだろう」
「……お前は、止める気はねぇのか」
その問いには、何処か悲しむような、憐れむような響きがあった。
しかしユーリにも、譲れない正義があるのだ。虎徹がその心に抱いている正義があるように。
「今日はお前に免じて、これで去る事にしよう。……しかし命奪われる者がいる限り、私の役割が終わる事はない。私はこのシュテルンビルトで、命を奪う者に相応の罰を与え続ける」
ユーリは空に舞い上がった。虎徹の手の届かない所へ。
スカイハイが追ってくるかもしれない。炎を身に纏い、ユーリは間もなく蝕を迎えようとする月に向かって一気に飛んだ。
「ったく、平行線かよ……!」
虎徹が帽子を掴んでルナティックの姿を見つめている。
「……お前の大切なものを守って生きてゆけ、ワイルドタイガー」
独り言めいたその言葉は、虎徹に届いたのかどうか。
地上からルナティックを追うように、虎徹の声が聞こえてきた。
「これ以上、自分の手を汚すんじゃねーぞ、ルナティック!」
ユーリは目を閉じる。決して交わらない道。そして重ならない正義のベクトル。
……しかし虎徹の存在が、ユーリの中の何かを確実に変えてゆくのだ。
2011.10.23UP。
2へ続きます。