ユーリが隠れ家でシャワーを浴びてスーツに着替え、司法局の執務室に戻ってきた時、室内の時計は夜10時を回っていた。
窓から見える満月が、端から少しずつ欠け始めているようだ。
一際大きく見える月。月光が静かに窓から落ちてくる。
司法局内には殆ど人が残っておらず、しんと静まり返っていた。
PCを立ち上げてメールチェックをすると、ロジャー・レイノルズ事件の報告書が送られてきていた。現在は拘置所に送られ、厳重に監視されているということだった。明日から本格的な聴取が始まるという。
負傷者3名の状態は落ち着いていて、怪我が安定したらそちらの事情聴取も始めるという一文があった。
知らず、溜息をつく。
犯人の逮捕は出来ても、真実の追求はこれから始まるのだ。
そしてふと、机の端、ペーパーウェイトの下に敷かれたメモ用紙が視界に入った。
ヒーロー達も仕事を終え、虎徹も現場からは去っているだろう。
ユーリはそれを手に取り、畳まれていたメモ用紙を広げる。
意外な程きちんと整った字で、電話番号とメールアドレスが書き込まれていた。
連絡を取れば。……そして会えば、多分。
自分が虎徹に何を望んでしまうのか。ユーリにはわかっている。
あの日病室で満たされ、そして足りなかったものを、ユーリは欲するだろう。
虎徹がそれに応えるかはわからないが。
執務室の電話の外線ボタンを押し、続けて虎徹の携帯の番号を押す。
『……もしもし?』
いつもの調子の、虎徹の声だ。
「夜分に恐れ入ります。ユーリ・ペトロフです。……今、どちらにいらっしゃいますか?」
会えなければそれでいい。最後に軽く挨拶をして、終わるのだと。
『さっき、アパートに戻ってきた所なんスよ。……もし良かったら、うちに来ませんか? ブロンズステージでちょっと遠いし、電車で来てもらう事になりますけど』
虎徹は意図していないのだろうが。まるで、ユーリの覚悟の程を問うような言葉だった。
「……ルートを教えて頂けますか?」
今日で最後だ。もう二度と虎徹と顔を合わせることはない。
一個人のユーリ・ペトロフとして、鏑木虎徹に別れを告げに、行くのだ。
ユーリは虎徹のアパートへのルートを手元の端末に登録して電話を切る。
月蝕は僅かずつ面積を広げていた。
喰われて生まれ変わる月は、ユーリに何かをもたらすのだろうか。埒もない考えが脳裏に浮かぶ。しかしユーリは、それを心から望んでいるのだ。
月が満ちてゆくように、ユーリの心の奥底にゆっくりと育ってきた感情が。
虎徹によって喰らい尽くされることを、願っている。
*
虎徹から案内されたブロンズステージの住宅街はユーリが訪れた事のない場所だったが、想像よりも随分静かだ。深夜11時。流石に風が冷たく、ユーリの吐く息は白い。
見上げた月は3分の1程が赤い色に欠けていた。
「ペトロフさん、わざわざすいませんね」
同じような造りの棟が並んだアパート、そのうちの一つの入口前に、虎徹が立っていた。
「寒かったでしょ」
虎徹はジャケットを着て、緑と白のストライプのマフラーを巻いている。
「あ、このマフラー、楓が編んでくれたんスよ」
嬉しげに目尻が下がった。普通の、子供を愛する父親の顔だ。
「引越し前でなんにもないっスけど、どうぞ」
「お邪魔します」
虎徹はドアを開けてユーリを中に導いてくれた。
ロフト付きの部屋には、虎徹が言った通り見事に何もない。がらんとした内部が、部屋からもうじき家主のいなくなる事を如実に伝えている。
「あ、そこの階段の前に折り畳み椅子があるんで、そこに座って下さい」
「鏑木さんはどうされるんですか?」
「俺は階段に座るんで」
そう言いながら虎徹はキッチンの上にあった買い物袋を手に取り、中をごそごそと漁り始める。
「ビールとか水とかつまみとかあるんで、適当に取っちゃって下さい」
そう言いながら虎徹はビールを取り出して階段に座り、向かいあって椅子に座ったユーリに袋を渡す。ユーリはミネラルウォーターを手に取った。
「お言葉に甘えて」
「あれ、ビールじゃなくてもいいっすか?」
「……酒は得意ではないので」
実際に飲めない訳ではないが、ユーリはあまり酒を口にしたくなかった。どうしても、父親の事を思い出してしまうから。
「水、買って来てて良かった」
虎徹は深くは追求せずに、缶ビールの蓋を開け、一気に流し込む。
「シャワー浴びた後だから喉乾いてたんスよ」
ぷはー、とまるで子供のように息を吐いて、虎徹はニヤリと笑ってみせた。
「あー、でも良かった、ペトロフさん来てくれて。明日車で帰るからバイソンと飲んだくれる訳にもいかねぇし、サクッと寝ちまうのも何か違うと思ってたし。……当分こっちには来ないだろうから」
虎徹は穏やかな表情をしていた。肩の荷が降りたような。
「そういや、中継見てましたか、ペトロフさん? ……ルナティック出てきやがったけど、結局逃げられた」
ユーリがルナティックである事を知らない筈なのに、核心をついたように話題を振ってくる虎徹の嗅覚に、ユーリは思わず苦笑を浮かべた。
虎徹には自分の今の様子がどういう風に見えているだろう。ルナティックを捕り逃して悔しがっているように感じられるだろうか。
「……ええ、見ていました。あなたも、現場にいらっしゃったんですね。実況を聞いて驚きましたが」
虎徹はもう一度ビールに口をつけ、深く溜息をつく。
「斎藤さんに無理言ってワイルドシュートだけ貸してもらったんスよ。ああいう状況だったら、多分ルナティックは出てくるだろうと思ったから。最後に……どうしても言っときたい事があったんで」
ユーリはじっと虎徹の表情を伺う。その瞳に、口元に、苦いものが浮かんでいた。
「……助けてもらったからこそ、言っときたかったんスよ。何も、あいつが犯罪者を裁く必要はないんじゃねぇのか、それこそ、司法に任せときゃいいんじゃねぇのかって。結局、聞き入れなかったみたいだから……きっとルナティックはまた出現する」
虎徹が心の裡から溢れてくる何かを抑えるように、ぎゅっと目を閉じた。
「言葉じゃ説得は無理だろうってわかっちゃいたけど……」
空になったらしい缶が、パキ、と音を立てて虎徹の手の中で潰れた。後悔の深さを表すように、それは簡単に小さくなってしまう。
「俺が、能力減退してなかったら。……ヒーロー続けられてたら、とか。一人だと、そんな事ばかり考えちまって。未練、なのかな」
虎徹はふう、と息をつく。
「はは、なーんか、溜息ばっかりだ。情けねぇ。……レジェントの八百長の話を聞いて、俺は憧れてたからこそ、そんな風になりたくないって思った。晩年は酒に溺れて散々だったとも聞いたし。勿論、楓が能力に目覚めて大問題になったりってのもありますけど、俺は、自分の考える理想のヒーローのまま綺麗に終わりたい、って思ったんスよ。……ただのカッコつけかもしれねぇけど」
ユーリはただ黙って聞いていた。虎徹もおそらく意見など求めていないだろう。
表面上だけ理想のヒーローとして存在しようとした男の傲慢で惨めな末路を、ユーリは目撃してきたのだ。
「現役の奴らには知って欲しくないし、あいつらには市民の憧れのヒーローでいて欲しい。ま、今のメンバーは真面目なのが揃ってるから、多分大丈夫だろうけど。バニーも……ほとぼりが冷めたら戻ってくるだろうから、あいつにも言いたくなかったし。あいつ結構、ヒーローの仕事好きだったみたいだから」
一言一言、考えながら言葉を発しているのだろう。時々沈黙が挟まる。ゆっくりとした口調で虎徹は語った。
「裏の事情を知ってるペトロフさんに、お願いします。どうか……あいつらが少しでもしんどい思いをしなくて済むように、守ってやって下さい」
ぺこり、と頭を下げる虎徹に、ユーリはあえて、おそらく地雷であろう問いを発した。
今言っている事は虎徹の本心なのだろう。……その奥にあるものを、曝け出させたい。
自分のその感情が何処から来ているのか、今のユーリにはわかっている。
「……本当はヒーローを続けたいのでしょう? 何故、しがみつかなかったのですか? バーナビーさんのサポート役という形ならば、続ける事は可能だったのではないですか?」
一瞬、虎徹の表情が凍りついた。頬が、ひくり、と動いている。しかしユーリは畳み掛けるように問うた。
「能力が全てではないでしょう? 能力のない者でも、例えば警察官という形で正義を遂行することは出来るのですから」
自らの思う正義を遂行したければ幾らでも方法はある。ヒーローという存在は特殊なのだ。その権利の制限も含めて。わざわざヒーローにならずとも。警察官。法曹。道は沢山あるのだから。
「……」
虎徹は無言で唇を噛んでいる。
「自分の本心を偽って、あなたは本当に幸せなのですか?」
ユーリに向かって吐き出せばいい。その心の底に息づいている、どうしようもない何かを。
「……偽ってなんかねぇよ!」
そして虎徹はユーリの望む通りに、僅かに声を荒らげた。琥珀色の瞳の奥に、抑え切れない、迸る感情が覗いていた。怒りとも悲しみともつかない色に、揺れている。
ユーリは静かに、その言葉を受け止めた。
ヒーローという存在は所詮、能力が全てなのだ。見世物の、虚像のヒーロー。派手であればある程、わかりやすい善悪の対立が盛り上がる程、市民は街が、自分達が守られていると勘違いする。そしてレジェンドは能力減退後、見世物になる事を選び八百長に走った。
……しかし、虎徹はあえて、引退という道を選んだ。
ユーリがあの頃、父親に対して切実に、祈るように願っていた選択を、虎徹はしたのだ。
「もう、10年だ。10年ヒーローやって来て、ここでみっともない姿を晒したくない。だから……」
表面上の人の善さに隠された、虎徹の闇の部分が姿を現す。低く抑えた声には、向かう場所のない無力感が満ちていた。
ユーリが触れたかったものは、今まさにここにある。それは昏い充足感を、ユーリにもたらした。
しかし、不意に、虎徹はその顔に笑みを浮かべた。今にも泣き出しそうな、しかし、どこか吹っ切れたような。
「……だからって俺は、八百長やってまでヒーロー続けたいとは思わなかったんです。一個人の、鏑木虎徹として、守らなきゃいけないものが今は沢山ある」
ユーリはただ黙して、虎徹を見つめていた。
レジェンドに憧れてヒーローになったもう一人の「レジェンドの息子」は、その虚像を乗り越えて、生きてゆく。
……それでいい。
心の底に揺らめく感情は次々に色を変えて、ユーリは自分がどんな表情をしているかもわからなくなっていた。
ただ、暗闇に閉ざされていた自分の心の隅に、僅かな明かりが灯ったような気がした。
階段の横の窓から、赤い光が差し込んでくる。そろそろ、月蝕が最大になっているのだろう。
血の色だと思っていた筈のそれが、酷く温かいもののように感じられる。
暖炉に灯った、揺らめく炎の色に。
ユーリはじっと窓の外に浮かぶ赤銅色の月を見つめて、ぽつり、とまるで独り言のように呟いた。
今日で最後だから。きっともう二度と、こんな夜を過ごす事はないだろうから。
「……私の父親はアルコール依存症で、酒が入ると暴れていました」
「え?」
虎徹に視線を移す。虎徹の瞳が大きく見開かれていた。
本来ならば告げる事自体が危険な、ギリギリの境界線上にある事実。
息を呑む虎徹の表情に、何故か安堵する。
明日からはもう顔を合わせる事はないだろうから。
影に隠れた月明かりの下、ユーリは努めて冷静に、まるで他人事を語るように続ける。
「私が裁判官という職業を選択した理由の一つでもあります。……どうかあなたは、そうならないで下さい。……娘さんに、痛い、苦しい思いをさせないように」
使い処を間違うと恐ろしい方向に行きかねない能力に覚醒した楓が、ユーリと同じ道を辿らないように。
透明な、純粋な祈りにも似た感情が、まだ自分の心に残っているとは思わなかった。
ユーリは静かに、虎徹に笑みを浮かべてみせた。……ちゃんと微笑みに見えているだろうか。そんな事を気にしながら。
赤く彩られた何もない部屋の隅で。虎徹はただじっと、ユーリを見つめている。
その唇が僅かに動いて、しかし言葉は何も出て来なかった。
「お元気で」
別れの言葉を告げた瞬間。向かい合って座っていた虎徹の手が、ユーリの手に伸ばされた。
触れた指先が温かい。
「ペトロフさん」
ユーリを呼ぶ声が、僅かに掠れている。
一瞬見入ってしまう程、それはぞくりとするような甘さを孕んでいて。
「……はい」
「キス……しても、いいですか?」
ユーリはふ、と薄く笑む。
虎徹がシュテルンビルトにいる最後の日に。
ユーリはキスを、それ以上の接触を求めて、ここに来たのだ。
断る理由など何処にもなかった。
「……以前、伝えた筈ですが? 私はあなたに、恋愛感情を抱いていると。私が何をしにここに来たのか、あなたはわからない振りをするのですか?」
免罪符になる言葉を虎徹に告げて。
虎徹からの返事はなかった。おもむろに立ち上がり、虎徹はユーリを引き寄せる。
強い力で抱き締められていた。虎徹の身体の温もりが、その鍛えられた身体の形が、ユーリのスーツ越しに伝わってくる。
密着した身体から立ち上る、僅かな酒と、以前知った時と同じ肌の匂いが、ユーリを陶然とさせた。
締め付けてくる腕の力は強いのに、口づけは裏腹に、とても優しい。
ふわりと。
触れるだけのキスだった。軽く音を立てて。アルコールの匂いがするが、決して不快ではない。
虎徹の唇はすぐに離れ、そして再びユーリの唇に重ねられる。
すぐに刺激が足りなくなって、ユーリは自分から深く口づけを求めていた。
触れた虎徹の唇を舌で舐め、濡らして。するとまるで対抗するように、虎徹の舌がユーリの口中に深く差し入れられた。
「ふ……っ」
虎徹と歩む道が重なることはもうないだろう。
そして、抱く『正義』が重なることも有り得ない。
だからこそ、月蝕の夜に、空っぽになったこの部屋で身体を重ねる事に意味があるのだと。
ユーリはそう信じたかった。今夜ならば、信じられるような気がした。
酷く身体が敏感になっている。舌先で口内を舐められれば、戦慄にも似た快感が背筋を走った。
スーツの上着をそろりと脱がされ、シャツの上から身体を掌で撫でられる。それだけで目の眩むような快楽がユーリの身体と心を侵食していった。
立っていられなくなるような感覚に襲われる。
「ん、ん……!」
ちゅく、と唾液の交わる音が耳に入ってきた。息苦しさすらユーリを追い詰める。
五感の全てが虎徹の愛撫を待っていた。
「は……っ」
膝から力が抜けそうになるのに気がついたのか、虎徹がぐい、とユーリの腰を引いた。
虎徹の性器が熱を持っているのが、スラックス越しに伝わる。……眩暈がする。
互いの唇が離れる。深い口づけの余韻のように、唾液が糸を引いて消えた。
「熱い……」
密着する身体がユーリの性感をさらに昂らせて、ユーリは譫言のように呟いた。
「ロフトに、ベッドがあるんで……、そっちに」
虎徹はそう言うと一旦身体を離した。ユーリの手を引いて、階段を上がってゆく。
年季の入った造りの階段が、ギシギシと音を立てる。上に着いた途端、ユーリはベッドの上に倒された。急くような仕草で、余裕のない表情を浮かべる虎徹を、ユーリはただひたすら、欲しいと思う。
「あー、俺、同性とするのって、知識としてはあっても実践ってないから。痛かったら言って下さい」
思いついたように虎徹が告げた。ユーリは苦笑して頷く。
「気にしないで下さい……誘ったのは、私なのですから」
暗に慣れている事を匂わせておけば、虎徹も安心するだろう。ユーリは虎徹の背中に自分の腕を回した。
「……だから、続きを」
虎徹が息を呑むのがわかった。
どんな風に思われても構わない。ただ虎徹が欲しい。……時間はもう、残されてはいないのだから。
むしり取られるようにシャツのボタンが外されて、ユーリの痩せた薄い上半身が顕にされた。
「……ほっそいですよね、ペトロフさん」
言いながら、虎徹はユーリの耳朶を舐める。
きつく吸われその刺激に身じろぐが、虎徹は容赦なく、更に耳の淵に歯を立てた。
痛い程の刺激にびくり、と身体が跳ねる。舌の這いまわる音が生々しく耳に飛び込んで、自分が今されている行為を改めて自覚する。
真似事ではなくて、全てを晒して、身体を交わしている。
虎徹の愛撫は耳から首筋へ落ちてゆく。軽く吸い上げられ虎徹の唇から熱が伝わると、自分の感覚全てが虎徹の行為を受け止めようとして研ぎ澄まされてゆくのがわかる。
息が上がる。
伝わってくる体温に融けてしまう。
「あれ……傷痕、ですか?」
左肩の。虎徹を逃した時につけた傷に触れられた。指先がケロイド状に残った痕を優しく辿る。
「……俺、ルナティックとやりあった時、右肩にこれに似たような痕が残ってるんすよね。何か、鏡写しみたいだ」
夢で見た時のような事を、虎徹は呟いた。何処か感慨深そうに。
ユーリは沈黙するしかない。
「……昔の傷です」
喰われた月の放つ鈍く赤い光は、その傷が最近のものである事を隠してくれるだろうか。
ユーリは虎徹の気を逸らすように、しがみついて虎徹を煽るための言葉を放つ。
「夜は短いですから……もっと、刺激を下さい」
虎徹は無言で頷いた。その唇をユーリの胸の一番敏感な所に触れさせ、強く吸い上げた。露骨に煽るような音を立てて。そして軽く歯を立てられ、思わず声が漏れた。
「は……っ!」
痛い程の刺激が身体中に広がる。しかしそれはまるで、ユーリに生の証を刻みつける行為のようで。
ユーリの意識全てが虎徹に向かっていた。次に施される愛撫を待って、ただ受け止めたい。……欲しい。突き上げる欲求を抑えられない。
舌で舐められ、もう片方の乳首も指で摘まれる。その度に、ユーリの身体は跳ねた。
「もしかして、すっごい感じやすいですか……?」
故意なのかそうでないのか、からかうような口調で虎徹が問うた。
「あなた、だからです」
嘘ではない。どれだけ他人と身体を重ねても、これ程の酩酊感はなかった。
もっと手馴れた、巧い人間はいくらでもいる。しかし、いっそ乱暴なくらいの、加減のわかっていない虎徹の愛撫はユーリの理性を剥ぎとってゆくのだ。
ただ獣のように、剥き出しになった欲望は、虎徹だけが欲しいと叫んでいる。
頭の片隅で理性が必死にそれを抑えようとするが、無駄な努力かもしれないとはユーリもわかっていて。
ただ、体温だけが恐ろしい速度で上がってゆく。まるで自らの炎で、自らを灼くように。
虎徹は何度も吸い上げ、音を立てながら、狭間で自分の上着を乱暴に脱いでゆく。
直接触れる肌は吸い付くようで、その熱さにユーリは溺れてしまいそうだった。
ユーリはもう、刺激に対して上がる声を止める事も出来ない。
「は、あ、……んく……っ」
いっそ痛みを与えられた方が楽なのかもしれないと思えるような、肌の触れ合う蕩けるような感覚。次第に汗ばんでくる虎徹の熱が上がる様子にまで、快楽を感じる。
「あ、あ……!」
スラックスも引き剥がされ、勃ち上がりはしたなく蜜を零すユーリ自身を剥き出しにされた。
「も、イキそう、っすか……? 震えてる、ここ」
虎徹はそこに手をやり、それから何の前触れもなく、根元からきつく扱いた。
「……あ、っ!」
痛い程の刺激に、感じ入っていたユーリの身体は耐え切れなかった。
ユーリは呆気無く、虎徹の掌の中に白濁を放つ。
苦しい程の快楽が身体の奥から溢れてきて、一瞬意識が飛びそうになった。
視界が、白く染まる。
「……う、はぁ……っ」
息が止まりそうだった。眦に涙が滲む。全身で感じ過ぎて、虎徹の肌の感触が、痛い。
「うわ、相当敏感っすか、もしかして」
快楽が苦しくて肩で息をするユーリは、虎徹の問いに答える事も出来なかった。しかし、まだ足りない。ユーリの全身が、虎徹を欲している。
「……どうしよ。俺、すっげーペトロフさんの事、めちゃくちゃにしたいって思っちまう」
低く抑えた声で、煽るように虎徹が言い放った。その吐息に確かな虎徹の情欲を感じて、達したばかりの身体がぞくりと粟立つ。
「あなたが……望むように、して下さい」
「え?」
ユーリはあえて微笑んでみせた。誘うように、艶然と見えるように。そして虎徹が欲しくて、余裕など何処かへ飛んでいってしまっている自分の本心を押し隠すように。
「めちゃくちゃに、して下さい」
演じているようにみせかけた、それはユーリの本心だった。
その言葉を聞いて虎徹が浮かべた雄の表情に、ユーリの心は満たされる。
「……早く」
「そんな、煽らなくても……」
虎徹は我に返ったように苦笑を浮かべて、しかし性急な仕草で自分も一糸まとわぬ姿になった。
その右肩の古い火傷の痕は、ユーリがルナティックとしてつけたものだ。それは何処か、所有権を主張するもののように感じられて、そう思う自分自身にユーリは笑いたくなってしまう。
まるで肩に爪を立てる女のような感情だ。
しかし今まで他の誰にも抱いた事のないような。
顕になった虎徹の性器は大きく張りつめていて、虎徹の情欲を何よりも饒舌に伝えていた。
「また、口でしましょうか……?」
ユーリは問う。同性とセックスをする事に抵抗があるようなら、無理に挿入してもらう必要もないことだ。
「いや、俺、イクなら……ペトロフさんの中がいい。どうやって、慣らせばいいっスか?」
黙ったまま、ユーリは虎徹の濡れた掌に触れた。自分が放ったものを手に取り、ユーリは囁くように告げる。
「……自分で、しますから」
「えっ」
「抵抗があるでしょう」
そう言ってユーリは俯せになる。愛撫すらまどろっこしい。焦らされたくない。
ただ早く貫かれたくて、身体の奥にその熱を感じたくて、ユーリは酷く急いた仕草で自分から受け入れる場所を寛げようとする。
ユーリの背後から、こくり、と唾液を飲み込む音が聞こえた。
発情した獣のように虎徹を求めている自分に、羞恥など欠片も感じない。
隠している全てを曝け出したかった。虎徹の目前に晒して、少しでもその記憶に残るのならば。
それ例え、どれだけ昏いものであっても。
「そんなに、焦らないで下さい……俺が、しますから」
掠れる声で虎徹が囁くと、ユーリの腕を掴んで動きを止めた。
「こんな感じ……ですか?」
ぬるりとした感触を身体の中に感じる。虎徹の指が、ユーリの放ったものの助けを借りて、忍び入る。
「……っ」
強い違和感。そして細長い、硬い指の形が、ユーリに伝わってきた。内部にいる。虎徹が。
「痛かったら、言って下さいね。……さすがに自信ねぇし」
探るように少しずつ、指が動き始めた。寛げようとする動きは痛みを伴い、しかしその苦痛がユーリを蕩かす。
虎徹が、ユーリの肩甲骨に口づけた。繊細な動きで、背中をそろりと舐められる。
時々齧り付くようにして施される愛撫に、虎徹を受け入れきっている身体が反応した。
まるで痙攣するように、びくり、と震える。
「は……あ、っ……ああ……っ」
内部をゆるゆると擦る指の動きが、ユーリを溶かしてゆく。
目を閉じて、その感触を追う。心ははもっと深くと望んでいるのに、身体がそれに追いつかない。
息を吐いて力を逃した瞬間、より深く虎徹の指が入り込んできた。
「っう……」
重苦しい、鈍い痛みがじりりと身体を灼く。
早く。早く馴染んでしまえばいいのに。……そうしたらより深くに、虎徹を感じられるのに。
ユーリの欲望は虎徹の愛撫に合わせて膨らんでゆく。貪欲に誰かを求める気持ちが、これ程までに自分の理性を吹き飛ばすなんて知らなかった。
「あ、少し、柔らかくなった……?」
「もう、いいです、から……」
切羽詰まった声でその先を望んだユーリの首筋に、温かな虎徹の指が触れた。線を引くように背筋に向かって指が滑ってゆく。ぞくぞくとする感覚が辛い。もっと露骨な、直接的な快楽が欲しいのに。
「朝まで……まだ、長いですよ? 折角の、皆既月食の晩だし。……月、全部隠れてますね」
何処か余裕を滲ませた台詞に苛立ちすら感じる。しかし虎徹はそれを知ってか知らずか、先程指で辿った部分を、今度は舌で辿った。唇の触れる音が微かに聞こえる。それすらも、もどかしい。
虎徹の指を呑み込んだそこから、くちゅり、と水音がした。そっと指が増やされる。
試すように、宥めるようにユーリを侵食する指の感覚だけでは足りないのに、虎徹は決して急ごうとはしなかった。
「あ、ああッ……!」
ユーリは虎徹に知って欲しくて、ことさら声をあげる。早く欲しいのだと。求めているのだと。しかし望むようにはしてくれない。
虎徹の唇が、腰骨の辺りに押し当てられた。唾液に濡れてぬるりと滑る。
その唇の感触は、虎徹の前で剥き出しにされている、指を飲み込んでいる部分へと次第に近づいてきた。
「な……にを」
「いや、これだけじゃ、痛いかな、と」
そう言われて、するり、と指が抜かれた。不意に臀部をきつく掴まれる。そして虚ろになって悶えるそこに、ぬるりと濡れた熱いものの感触。
「やめ……っ、や、めてくださ……」
ユーリの懇願は次第に言葉の形を成さなくなってゆく。ぴちゃぴちゃと、露骨に音を立てて這いまわる舌。虎徹の行為が信じられなかった。
これは都合のいい、夢ではないのか。
しかし生々しい程の舌の熱さと唾液がユーリの奥を濡らしてゆくぬめった感触は、ユーリに現実を刻みつけてくるのだ。
ちゅく、と含んだ唾液が再び忍び入ってきた指でかき混ぜられ、泡立つ音がする。
「……だって、ペトロフさん、今日こうなるのわかってて、準備してきてるでしょう? ……俺の気のせいですか?」
虎徹の言う通りだった。隠れ家に戻った後念入りにシャワーを浴びて、僅かにフレグランスを香らせて。
「俺だって、家に来てもらって、セックスなしで終わるとは思ってなかったし。病室で、あんな風に煽られて」
濡れたユーリの秘所に、深く指が挿入される。2本に増やされて、浅い所まで一気に引かれて。犯すような荒々しい動きはこれまでにないものだった。
ぐちゅぐちゅと、聞くに堪えない音がした。しかしその生々しさが、痛い程に突き上げられる動きが、今の状況が紛れも無い現実である事をユーリに突き付ける。
「ヒーローでも父親でもない、一個人の俺として、あなたを抱かせて下さい。……朝まで」
真摯な口調だった。はっきりとユーリの耳に届くその言葉が、ユーリの心の奥深くに届く。
喰われた月が反射させる赤い光。これは月蝕が終わるまでの幻だと思えば、きっと失ったあと、何事もなかったように日常に戻ることが出来る。
「……俺は絶対に、忘れませんから」
強い調子でそう断言して、虎徹は再び指を抜いた。そして、指とは比べ物にならないような熱と質量を持ったものが、ユーリの秘所へとあてがわれる。
待っていたものが、ようやく。
ユーリの身体は期待に震えた。
しかし、すぐには虎徹は入って来ない。ぬるついたユーリのその部分へ擦りつけるような動きが繰り返されて、焦れる気持ちばかりがユーリの中にせり上がってくる。
「ふ、う……っ」
「すげ、誘ってるんスか……?」
身体が虎徹を欲しがって、ユーリは僅かに腰を浮かせ誘うように揺らめかせた。
欲しい。……苦しい。指で蕩かされた部分が、今度はもっと直接的に虎徹を奪いたがっている。
腰だけを高く上げて。まるで交尾を強請る動物のように。虎徹にはどんな猥りがましい姿に見えているのだろうか。
いっそ軽蔑してくれてもいいから。
そう思っている自分の想像を超えて、虎徹の行動は大胆さを増した。
尻の狭間を虎徹の性器で擦り上げられて、くちゅ、ぐちゅ、と耳を塞ぎたくなるような音がした。
セックスを模すような行動。中に入ってきたら、こんな風にユーリを犯すのだと知らしめるようなそれは、決してそこから先に進もうとせずに。
「あ、う……あ、っ」
満たされないのが辛くて、思わずユーリは、既に達しそうになっている自分の性器を慰めようとした。しかしその手は掴み取られ、震える性器の根元を強く握られる。
「つ……ぅ、は……! やめ……っ、もう、つらい……っ」
苦しい。もう、達かせて欲しい。
声にならない声で哀願するユーリに、虎徹はほんの少し意地の悪い囁きを投げかける。
欲情に満ちた、熱を孕んだ言葉を。
「欲しいって……言って下さい。奥まで、来て下さいって」
満たされない気持ちに涙が滲む。暴発しそうなのに縛められた性器ではそれも出来なくて、苦しい。
「……はや、く……来て、下さい……。あなたが、欲しいんです……!」
朦朧とする意識で、殆ど叫ぶようにユーリは乞うた。
日頃の謹厳な姿など何処にもない。ただ欲情に満ちた声で、虎徹を強請る。
壊れてしまえばいい。……これまでの自分など。
壊して欲しい。
……鏑木虎徹という、存在に。
灼熱のそれが、一気にユーリの最奥に突き入れられた。
「あ、あああ……っ!」
耐え切れずにユーリの性器は再び白濁を吐き出した。それはぱたぱたと零れてベッドに落ちる。
達した後の敏感な身体を、虎徹は容赦なく攻め立てる。
ぐちゃぐちゃという聞くに堪えない音。ギリギリまで抜いて、一気に最奥に届く荒々しい抽送が繰り返される。
意味を成さない言葉がユーリの唇から漏れ出した。
後ろから激しく突かれて揺さぶられ、それでももう、ユーリの身体は痛みを感じない。
あるのは、底のない、深い海に沈むような快楽。鏑木虎徹という存在に飲み込まれ、そしてその存在を飲み込んでゆく感覚は、ユーリに言い知れない愉悦をもたらしていた。
「……く、っ」
虎徹の動きが止まり、体内に熱い飛沫が吐き出されるのを感じた。
「ん、んう……っ」
ドロリとユーリの奥に流れ込んでゆくその感触が心地よい。
「……あー。やべ」
不意に、背後の虎徹が、切羽詰まった声を上げた。
「一回イッただけじゃ全然足りねーや。……も一回、いっスか?」
「……っ!」
虎徹はそろりとユーリの中から出てゆく。その瞬間、虎徹の放った精液がユーリの中から溢れてきて、ユーリの息が止まった。
「今度は、こっち向いて下さい。……俺、キスしながらするの、好きなんで」
俯せていたユーリを、虎徹は仰向けにさせた。両足を肩に担ぎ上げて、再びユーリの中に入ってくる。
「あ……ああ、っ!」
虎徹の眉間に皺が寄って、何かを我慢している風なのがわかる。
「こうした方が、ペトロフさんの表情もわかるし、……こんな風に」
言いながら虎徹は欲望を吐き出して濡れたユーリの性器に触れてきた。
達した後の過剰な刺激に身震いしてしまう。感じ過ぎてしまう。
「うわ、ドロドロだ」
擦り上げられた性器は白濁にまみれていて、聞くに堪えない音を立てる。
「でも、めちゃくちゃ感じてる」
征服欲なのだろうか。普段見る事のない野性的な表情を、虎徹は浮かべていた。
「う、あ……っ、ふ……」
声の枯れ始めたユーリの唇は虎徹に塞がれ、その喘ぎ声は吸い取られてゆく。
ねっとりと舌が絡みあう感触。身体中の粘膜で、虎徹に触れている。その深い快楽。
ゆらゆらと虎徹の腰が揺れ始めた。それに合わせてユーリも動くと、もっと快感が深くなる事をユーリは知っている。
一つに融けてしまうような錯覚さえ抱いてしまう、どうしようもなく溺れる瞬間。
内部に放たれた白濁のおかげで、滑らかに動く虎徹の性器がユーリを蹂躙する。
ユーリにはもう、快楽しか与えられない。突き上げ、最奥の一番感じる部分を刺激される度に身体が慄え、性器が際限無く涙を零した。強く激しくなる快楽はどこか苦痛に似ていて。
「あああ……っ」
窓の外から注がれる赤い光。……この中ならば、きっと今顔に浮かんでいるであろう赤い痣も、その光に融けてしまってわからないだろう。
緩急をつけて攻め立てられる。激しく叩きつけられ、そしてやわやわと内側を擦り上げられて。
一番感じる奥深くの部分に届いた時、ぴたりと虎徹の動きが止まった。
「さっきから……ここに届くと、すっごい声、出してますよね……?」
意識していなかった自分の反応を指摘されて、ユーリは戸惑う。虎徹は容赦なく、その場所を先端で刺激した。
「……ん……っ、あ、あああ……っ!」
何度も何度も。執拗に虎徹の性器が押し当てられる。
まるで感電でもしたように、身体がビクビクと跳ねた。深い、強い快感に、喰らい尽くされてしまいそうだった。
「や、ああっ……そこは、だ、め、で……っ」
僅かな動きで何度もその場所を突いてくる虎徹は、満足気な笑みを浮かべてユーリに口づけた。
「ペトロフ、さん……今度は、一緒にイキましょ、……っか?」
虎徹も息が荒い。欲情に塗れた表情が余計にユーリを煽る。一人ではなくて、確かに快楽を二人で分かち合っている証だから。
ユーリはもう声も出せずに、何度も頷いてみせるしかない。
「……じゃあ」
虎徹の律動が烈しさを増した。全てを呑み込むように、キスをして舌を絡めてくる。
ユーリは自分からも舌を絡め、腰を揺らした。
打ち付けられ、肌同士がぶつかる音。ぬるついた舌の絡みあう水音。そして、熱い肌の感触。
一人では決して得られない快楽。
嵐に飲まれたように虎徹に揺さぶられて、ユーリは縋るように虎徹の腕を強く握った。
「ねえ、ペトロフさん……イクって、言ってみて下さい」
わざと煽るような、意地の悪い台詞を吐いて微笑む虎徹は狡いのだ、とユーリは思う。
しかし、身体はもう限界まで来ていて。
ギシギシとベッドが鳴る。皺くちゃのシーツの感触を背中に感じながら、ユーリは自分に限界が来た事を悟った。もう、これ以上は。
そして、虎徹の望む通りの事を、口にする。
「あ……あ、イ……く、っ……!」
一際深く突き上げられた瞬間、ユーリは虎徹をきつく喰い締めながら達した。
「う、わ、ちょ、それ、反則……!」
それと殆ど同時に、虎徹が動きを止め、再び熱い昂りをユーリの中に注ぎ込む。
殆ど意識を飛ばしてしまったユーリを、虎徹がふわりと抱き寄せる感覚を感じながら、ユーリは眠りに落ちていった。
*
目が覚めると、満月は元の姿を取り戻しつつあった。
「……起きました?」
ユーリの隣で虎徹が笑顔を浮かべる。
汗と精液に塗れていた身体は綺麗に拭き清められていて、ユーリは自分が気を失っていた時間が案外長かった事を知る。
「……なんか、管理官……いや、ペトロフさん、俺が思ってたのと全然違ってたんだな、って思いました」
唐突にそう言われ、ユーリは苦笑するしかない。
「幻滅したでしょう」
幻滅されるように振舞ったのだ。ある意味それは、当然と言えるかもしれない。
「いや、なんつーか……実はかわいい性格してるでしょ、みたいな」
「……え?」
あまりに意外な答えに、ユーリは一瞬自失してしまう。
訳がわからない。何を言っているんだこの男は。
「……これが、最後だとわかっているから、本心を出してみただけですよ」
取り繕うようにユーリがそう答えるが、虎徹はまたまたぁ、と言ってユーリの発言をいなしてしまう。
「あなたとの関わりは、なくなってしまいますから。……だから」
「だから?」
問いながら、虎徹は柔らかく口づけてくる。
「……俺が続き言いましょっか。だから。もう一度、抱いていいっスか?」
数年に一度の皆既月食の夜。幻の赤い光に包まれながら、抱き合った。
これは夢だ。
どんな現実よりも残酷な、満たされる心という幻想。
だからせめて、身体だけは。
「……いいですよ」
ユーリは自分からも舌を絡ませながら、虎徹の背中に腕を回した。
余りにも短い時間を惜しむように。
深くなる口づけに息を荒げながら、ユーリは静かに祈る。
……どうか二度と交わる事のないであろう、彼のこれからの人生が、祝福されたものであるように、と。
<エピローグ>
ハロウィンが終わったシュテルンビルトは、一気に年末の賑わいに向けて加速するように思える。街の飾りはクリスマス、そして新年を迎える仕様に切り替わり、街角からはクリスマスソングが聞こえてくるようになる。
ユーリ・ペトロフはその日、出張先から司法局へと丁度帰ってきた所だった。
6人になった1部ヒーローと、予備軍である2部ヒーローを管理する立場として忙しい日々を送りつつ、ユーリはルナティックとしての行動も続けていた。
死には、死を。
神・タナトスの声を聞かせる立場であるユーリの『正義』は変わる事なく。
日々は連綿と続いていた。
司法局に入ると、事務官がユーリを呼び止める。
「ペトロフ裁判官、お客様がお見えです。執務室にお通ししていますので」
出張先からいつ帰ってくるかわからなかったから、今日は来客は断っていた筈だ。
怪訝に思いながら執務室のドアを開けた。
「え……?」
来客用の椅子に座っていたのは、忘れもしない、鏑木虎徹だった。
最後に別れた時と同じ、ハンチング帽にベスト。グリーンのシャツに、ブラウンのジャケット。
「お久しぶりです、ペトロフさん」
「鏑木、さん?」
ユーリは我に返って、自分の机に向かい、荷物を下ろす。
「お久しぶり……です。こちらには、何か、用事で?」
虎徹は人懐こい笑顔を浮かべて、それから表情を引き締めた。
「実は、折り入ってお話があります。……俺、2部ヒーローとして復帰、出来ませんか?」
突然の申し出に、ユーリは自失して虎徹をじっと見つめるしかない。
「……俺の能力、もう1分しか保たないです。でも、それ公表した上で、ヒーロー、もう一度やりたい……っす。……どう、でしょう?」
最後は何処か自信なさげな口調に変わった。
「や、俺みたいなヒーローが、一人くらいいてもいいかな、って。こう、なんつーか、笑わせ役って、必要っしょ?」
慌てて説明を始める虎徹の姿に、ユーリは思わず苦笑を浮かべてしまった。
「……スポンサーはどうなっていますか?」
「あ、アポロンメディアが、ついてくれるっていう話に」
マーベリックの事件から1年。
虎徹は自らの『正義』の形を、こういう風に定めたのだ。
「娘さんは?」
「……オリエンタルタウンに。こっちに連れてくると、どうしてもネクストと関わる事になっちまうから。……楓には、ヒーローの世界とは無縁でいて欲しいし」
ユーリとは正反対の。だが、父が、虚像の英雄レジェンドが選ぶことが出来なかった、道を。
ならば、それでいい。
「わかりました。上に諮るので認可が降りるまでしばらく時間がかかると思いますが、その間は待っていて下さいね」
「わかりました! ……また、よろしくお願いします、ペトロフさん」
虎徹は帽子を脱いで、ペコリと頭を下げる。
あのままでは終わらなかった。新しい日々が、また、始まるのだ。
「こちらこそ」
冬に向かうシュテルンビルトの日差しは、二人を柔らかく照らしていた。
終
2011.10.23UP。
……終わりました。実は連作とは言え、生まれて初めてこれだけ長い作品を仕上げました。後は書き下ろしを追加の上、本にして11月6日福岡初売り予定です。
色々な事を後回しにしてでも、どうしても書きたかった作品にエンドマークがつけられて幸せです。
最後までお読み頂いて、本当にありがとうございました!