ミッシングリンク(1)

そのひとは酔っていて、水を欲しがっていた。
でもグラスから、うまく水が飲めない。
僕はふと思い立って、そのひとに飲ませようとしていた水を自分の口に含む。それには少しだけ勇気が必要だった。
なぜなら僕は、挨拶以外に、他人の唇に唇で触れるのは初めてだったから。
少し荒れた熱い唇。
水が僕の口からそのひとの口の中に零れてゆく。
もう一口。そして、もう一口。繰り返す口移し。
幾筋も水が流れ零れ落ちるから、次々に飲ませたくて。
不意に、強請るように舌が絡みついて来た。
口移しだけではない何かを求める動き。
水で温くなったはずの舌が、触れあった瞬間に燃えるように熱くなって。
僕は夢中でその舌を吸う。舐める。甘噛みする。
水の代わりに唾液が溢れて混じり合う。
そのひとはうっとりとした瞳でそれを飲み下した。
同時に湧き上がる、初めての感情。
このひとを食べ尽くしてしまいたい。
――これを、欲情というんだろうか。

けれど、夢はそこで途切れてしまう。
起きてしまうと、その顔も、瞳の色も思い出せない。どんな姿だったのか曖昧で。
ただ、燃え滾るような劣情だけ、身体に残っている。





アポロンメディアのオフィス。今日は出動要請もなく、真夏の昼下がり、まったりした空気が全体を包んでいる。僕は書類の整理をしていた。
「ふうん」
虎徹さんがデスクの上に積まれていた雑誌をぱらぱらとめくり、その中の一つに目を留めた。女性向けファッション誌のヒーロー特集記事だ。
「バーナビーの暑い夏」
大きな活字が載った表紙には僕の水着姿の写真。
撮影スタッフは全員女性だった。女性から見た男性のセクシーさを演出するためだと言っていたけれど。
撮影の合間の雑談で、ほんの少しだけ話した夢の事が、何故かセンセーショナルな煽り文句とともに、色々と装飾されて書かれていた。
尾びれに背びれに胸びれまでつけられたような気分だ。
「で、肝心のここから先は? 重要なのはここからだろぉ」
「それが、大体ここで目が覚めるんです」
「は? 何だそれ、どゆこと?」
「何度も同じ夢を見るんですけど、絶対にここで目が覚めてしまうんです。で、ああ、また見たんだ、この夢って。体感的には5分くらいなんですけどね。欲求不満とも違う感じだし。まるで映画を見ているような感覚なんですけど」
「……ふぅん。なんだ。バーナビー様初のスキャンダル?! とか思ったのになー」
茶化すような言葉の合間に。
一瞬だけ、虎徹さんが戸惑うような、困ったような表情を浮かべたのは気のせいだろうか。
でもそんな気配は一瞬で。ニヤリ、と人の悪そうな笑顔を浮かべて、虎徹さんは言う。
「で、相手はどんな人物なんだよ」
普段ならスルーしそうな事に、何故だか食いついてきた。
僕は首を傾げつつ答える。珍しい反応だ。普段は興味なさそうなのに。
「顔は……全く思い出せないんです。感触だけははっきりしているんですけど、起きても顔だけはどうしてもわからない。どうしてなんでしょうね。特定の誰かなのかもしれないんですが……」
「やっぱそれ、ただの欲求不満じゃねぇのか? 若ぇなー」
「やめて下さいよ。そういうセクハラ発言」
「いや、お前も歳相応に若い男だったんだなーって感心したんだよ」
「……馬鹿にしないで下さい」
確かに奇妙な夢だとは思う。感覚だけは妙に生々しいのに、相手の姿がわからないなんて。
吐息や体温、匂い、水の感触は、まるでその場にいるようにはっきりとわかるのに。
酷く酔っ払って行きずりの関係を持ったのかもしれないけれど、そこまで自制心を失うような状態なんてあっただろうか。
多分この時の僕は20歳になるかならないか。ヒーローを目指して真面目にトレーニングし、勉強していた頃。どう頭を捻っても、出てこない記憶なのだから。
多分、それは実際に自分の身に起こった事じゃない。
不意に、PDAの画面が立ち上がった。
『ボンジュール、ヒーロー!』
事件だ。僕と虎徹さんはアニエスさんの鋭い声に耳を傾けた。
『シルバーステージのショッピングモールで事件よ。今日は1部も2部も合同で出動してもらうから! 急いで!』
「はいっ」
「りょーかい」
一瞬だけ虎徹さんと目が合った。普段は表情豊かなのに、今日は何故か感情が読み取れない。
――どうしてだろう。
「……さ、行くぞバニー」
「……? 何か、ありましたか」
「何もねぇぞ。どした?」
「いえ……」
奇妙な胸騒ぎがした。





シルバー地区にあるその大きなショッピングモールにとって、今日はきっと厄日に違いない。
朝から、最近シュテルンビルトで多発していたNEXT能力者のスリ集団が多数の事件を起こした。
騒ぎが大きくなり始めた昼頃、フードコートの一角にあるキッチンのフライヤーから火が出たのだという。
初期消火に失敗してあちこちに火が飛び散ってしまい、もらい火が出て。僕達には、火災でパニックになった客を避難誘導させながら、騒ぎに乗じて逃げようとするスリ集団を確保するという、かなり高度な任務が与えられた。
スリ集団は5人。それぞれ逮捕歴があり、面は割れている。
アニエスさんから絶えず送られてくる目撃情報を整理しつつ、統制の取れない一般客を避難ルートに誘導して、モールの外に連れ出さなければならない。厄介な事この上ないけれど、気分は高揚する。
久々に大きな事件だ。こういうのを、血が騒ぐっていうんだろう。
2階のフードコートから、停止したエスカレーターの1階部分で、僕と虎徹さんは出口に向かう避難客をチェックしていた。
「っだ! どんなパニックムービーだよ! 日曜日だっつーのによ!」
「日曜日だからですよ! これだけ人口密度が高かったら狙いやすいでしょうからね!」
ヒーローで分散して避難客の誘導と同時に、それに紛れているスリを発見し逮捕するなんて、正直無茶もいい所だけれど。
『おーっと、スカイハイがスリ犯を1名確保! ポイント獲得! やりましたーっ!』
「……仕事早ぇな」
モールの外で流れている大型モニタの音声がかすかに聞こえてきた。
「流石ですね」
火事は大体収まっている。問題はこの騒ぎに乗じて逃げようとする犯人の確保だ。
『残りは4人よ。確保した犯人のデータを消去するから。これで少しは見つけやすくなったかしら?』
アニエスさんの声が高揚していた。視聴率が上がってきているんだろう。
同時に、マスク内のモニタから一人の顔が消える。
あと4人。それぞれの特徴を頭に叩き込む。
眉毛。顎の形。傷痕。ホクロ。見ただけでわかる部分をチェックして。
「バニー」 虎徹さんが僕を呼び止めた。
「……はい?」
「あれ、見ろ」
停止したエスカレーターから慌てて駆け下りようとする一人の若い男。
アニエスさんと同じ位置にホクロがある。
手配写真をズーム。目の形。鼻の形。輪郭。……ホクロ。
「能力は……サイコキネシス」
写真と同じ顔だ。
――犯人発見。
僕は無言でアニエスさんに発見のシグナルを送る。
おそらくテレビクルーがこちらに向かってやって来るだろう。
「エスカレーター降りたらこっち側に引っ張るぞ」
「わかりました」
後少し。ステップから足がはずれた。
男は何処かオドオドとした表情で周囲を見回している。
「危ないから走らないでくださーい!」
虎徹さんは落ち着いた様子で、じりじりと男との距離を詰めていく。
「走らないで」
僕も間合いを詰めた。虎徹さんがいきなり男を掴んで、避難客から引き離した。
「な、なにすんだっ!」
 男が藻掻いている。虎徹さんは男を羽交い絞めにした。
「ちょっといいですか、あなたに用事がありましてね〜」
問題はサイコキネシスがどの程度使えるかだ。いつでも100パワーを発動する準備は出来ている。
「朝からオイタしてたスリグループの一人か?」
まるでからかうような口調で、虎徹さんが男に問うた。
「!」
男の表情が強張る。
振りほどこうとする男の身体をがっちりと固定し、虎徹さんが僕の方に頭を向けた、その瞬間。
虎徹さんの身体が、10メートル程背後の壁に向かって吹っ飛んだ。
バンッ、と破裂するような音がして、壁にヒビが入る。
「タイガーさんっ!」
僕は咄嗟に能力を発動して、男の身体に飛びかかった。
「く、くるなぁあ!」
男の能力で身体が浮き上がりそうになったのを、エスカレーターの手すりを掴んで堪える。周囲から悲鳴が聞こえ、警官が慌てて迂回させる。
「うるさい!」
 壁に半ばのめり込むような形になった虎徹さんは、動く気配がない。
 ――虎徹さん!
急がないと。早く確保してしまわないと。
一番てっとり早いのは気絶させることだ。ならば。
僕は男の目をくらますように、高く跳躍する。
「えっ」
壁に向かって。そして思いっきり壁を蹴って、三角飛びの要領で男の背後に着地した。
その間際。男の身体に光る鎖が巻き付くのが見えた。
「ひっ……!」
男の首に軽く手刃を当てる。
がくりと、男が膝から崩れ落ちた。男の身体中に、ワイルドシュートが絡まっている。
虎徹さんは大丈夫だろうか。
遅れて、応援の警察官と取材クルーがやってきた。
「スリ1名確保! 今は気を失っていますが、強力なサイコキネシスを持っています。対NEXT用の護送車を用意して下さい。あと、ワイルドタイガー負傷の恐れあり、急いで救急車を回して!」
早口で告げ、気絶した犯人を引き渡してから、僕は慌てて虎徹さんの側へ駆け寄った。
いくらヒーロースーツが強固なプロテクト機能を備えているとはいえ、壁にめり込む程の力でふっ飛ばされるなんて。
「虎徹さん!」
ワイルドシュートを使えたということは、多分意識はある。でも。
「虎徹さん、答えられますか?!」
「……っててて」
半ば壁に身体をめり込ませたまま、虎徹さんは少しだけ腕を上げて、マスクを上げて顔を出した。僕も同じようにマスクをオフにする。
「だっ、油断した……っ!」
見た限り顔に怪我はない。でも、背面を思い切りぶつけているから、打撲や骨折の可能性は否定出来ない。
「大丈夫ですか…?!」
「ああ、ヤバいと思って能力発動したから、見た目程はダメージねぇよ」
あと30秒で僕の能力は切れる。僕は虎徹さんを抱きかかえて、めり込んでいた壁から引き剥がした。
白い壁からばらばらと破片が落ちる。男のサイコキネシスの強さに冷や汗が流れた。
もし能力が発動出来ない状態だったら、虎徹さんは。
恐怖に支配されそうになる心を奮い立たせて、僕は虎徹さんの様子を伺う。
ヒーロースーツはダメージを受けてはいたが、殆どの衝撃を吸収してくれたようだった。
「頭を打っているといけないですから、動かないで」
「大丈夫だって。心配性だなぁ、お前」
「貴方が無茶をするからですよ」
「受け身取るの上手なんだぜ、俺。とっさに能力発動したし、問題ないって」
虎徹さんは手を上げ、振ってみせた。けれど。
「動かないで下さい。いいですね? すぐに救急が来ますから」
1分間の能力発動では、受け身を取るのとワイルドシュートを放つので精一杯だったんだろうか。
知らず、唇を噛んでいた。そこに、不意に虎徹さんの指が触れる。
「……んな顔すんなって。ふっ飛ばされた時はどうなるかと思ったけどな。俺の能力も、時間は短くなっちまったけど、まだ捨てたもんじゃねぇぞ?」
まるで子供をあやすみたいな優しい笑顔を浮かべるから、僕は今、自分がどれだけ酷い表情をしているかという事にようやく気がついた。
――情けない。
「……病院で、きちんと検査受けてきて下さいよ、全く」
小言のつもりで言ったはずなのに、自分でも情けないくらい声がひび割れている。
――喪うかもしれない。
そう思った時の恐怖が蘇り、ぶるりと身体が震えた。
喪いたくないから、ここに戻ってきたはずなのに。
「わかったわかった。悪かった、無茶して」
虎徹さんの手が伸びて、まるで子供をあやすみたいに背中をぽんぽん、と叩いてくれた。
「いくらヒーロースーツがあるっつっても、痛ぇもんは痛ぇな。……わりぃけど、どっかその辺に、水売ってるとこあるか?」
「向こうに自動販売機がありますね」
苦笑しながら、虎徹さんが携帯を取り出した。
「多分水買う分くらいはこの中に入ってるから、行ってきてくんねぇか。……喉渇いてさ」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中で風船がぱん、と弾けたような気がした。
……何だろう。
既視感、とでもいうんだろうか。
虎徹さんが口にした他愛もないフレーズに聞き覚えがある。
どうして。
「怪我人はこちらですか?!」
考えに沈もうとする僕を現実に引き戻したのは、担架を持って駆け付けた救急隊員の大声だった。
「はい、壁に向かってふっ飛ばされて、背面を強打しているので、搬送は慎重にお願いします」
「わかりました」
隊員と一緒に、衝撃のないように虎徹さんを担架に移す。
「悪ぃ。後はよろしくな、バニー」
顔をしかめながら、虎徹さんが僕に向けてサムズアップをする。せめて、心配はさせたくない。僕は無理矢理笑顔を作って、憎まれ口めいた事を言った。
「任せて下さい。病院を抜け出したりしないでくださいね」
「なんだよそれ。……さすがにちょっと動けねぇから無理」
苦笑する虎徹さんの顔色は余り良くない。
救急隊員が担架とともに遠ざかる、その背後からマリオの実況が聞こえてきた。
「バーナビーがスリグループの一人を確保! そしてブルーローズ&ドラゴンキッドも確保しました!」
残りは二人。
「……あ、携帯」
虎徹さんに返しそびれてしまったそれを、僕はスーツの隙間に潜り込ませた。
後で病院に持って行こう。きっと検査入院になるだろうから。
まだ避難客の列は続いていた。
『バーナビー、今からロックバイソンがそっちにまわるから、引き続き誘導と確保をよろしく』
アニエスさんからの指示が飛ぶ。
「わかりました」
大丈夫だ。早く終わらせて、一刻も早く虎徹さんの所へ行こう。
……大丈夫だから。
自分に言い聞かせながら、僕はアニエスさんの指示に従った。





それから1時間程でスリグループは全員確保、客の避難も完了し、僕は急いで虎徹さんの収容された病院へ向かった。
騒ぎを避けるために用意された個室で、虎徹さんは横になっていた。その腕には点滴がつながっている。
僕は息を呑んだ。
「……虎徹さん」
怪我の具合は。背筋に冷たいものが走る。
「よぉ、バニー。とりあえずこっち座れよ」
返ってきたのは、思いの外陽気な声だった。
拍子抜けして傍の椅子に座る。虎徹さんは首や手首に包帯を巻かれていたけれど、大きな怪我はなさそうだ。
「能力発動したのと受け身を取ったのが効いたらしくてな。全身打撲と軽いムチ打ちだけで済んだみてぇだ。ただ、経過を見るから3日は入院、2週間は安静に、だと」
「……そうですか」
大事じゃなくて良かった。でも、一歩間違えれば……。
点滴のモニタから微かにモーター音が聞こえる。消毒液の匂いのする病室。……H―01との対決の後、入院していた虎徹さんの姿を思い出してしまう。
僕が点滴をじっと見てしまった事に気がついたのだろう。
「ああ、これ、鎮痛剤だから。包帯巻く時に痛いって騒いでたら強制的につけられたんだよ。ったく」
愚痴を言いながらも笑顔を浮かべる姿が、痛々しい。僕は虎徹さんに、泣きそうな自分を見られたくなくて、少しだけ俯きながら、預っていた携帯を取り出した。
「そうだ、これ、預かったままだったので。何度か、楓ちゃんからメールが来ていたみたいですよ」
出動中、虎徹さんが設定している、楓ちゃんのメールの着信音が何度か聞こえた。
携帯を枕元に置くと、虎徹さんの手が延びる。一瞬だけ僕の指と触れて、離れた。
熱い。
打撲で発熱しているんだろうか。

……体温。熱さ。
硬い、指の感触。
――この感覚に覚えがあると思ったのは、どうしてだろう?

「だっ、しまった! 昨日連絡するって約束してたんだった!」
虎徹さんの慌てた様子で僕は我に返った。
「……早く連絡しなきゃ、心配してますよ、きっと」
「お前、もし楓からメール来ても、俺が怪我したって言うなよ。……いてて、この状態で通話なんかしたら怪我したのバレちまう。メール返しとこ」
「場合によりますね。でも、楓ちゃんならわかるかもしれませんけど」
「変な能力をコピーしてた時がなぁ……」
深い溜息をつく。でも、楓ちゃんは虎徹さんと一緒に暮らした1年間で随分能力をコントロール出来るようになったと聞いた。
紆余曲折ありつつも、能力に目覚めたばかりの楓ちゃんを導いたのは虎徹さんで、虎徹さん自身も楓ちゃんとの接し方を見つめ直したんだろう。
メールを読む虎徹さんの瞳は優しくて、穏やかだ。

――以前はもっと、すさんでいたような気がするけれど。
棄てられた犬みたいな、他の人間を拒絶するような、でもどこか寂しさを隠せない瞳だった。……以前?

さっきから湧き上がる既視感が、僕を焦らせる。
勿論ヒーローとしてのワイルドタイガーの存在は知っていたけれど、実際に出会ったのはプロトタイプスーツを身に付けて出動したあの時が最初のはずだ。
昔見たテレビや雑誌の写真から得たイメージなんだろうか。
でも、普段は顔を隠している。簡単なアイパッチとはいえ、色の濃いそれは表情を押し隠すには十分だ。

何故かとても不安になって、メールに返信をする虎徹さんの顔を見おろした。

……こんな風に。
僕は顔を覗き込んで。そして。
たまらず、僕は尋ねてみた。

「……虎徹さん。僕と……僕が、ヒーローになる前に、会った事がありませんか?」
虎徹さんは一瞬目を丸くして、それから首を傾げる。
「……いや、ねぇよ。どしたんだ?」
「どうしてかわからないんですけど、そんな気がして」
「ヒーローアカデミーにたま〜に行ったりしてたから、その時なんじゃねぇの?」
「……そうじゃなくて」
そうじゃなくて、もっと違う形で。
記憶の奥底にある姿を必死で浚おうとするのに、それをうまく掬いあげられない。
もどかしさに唇を噛む。
思い出したいのに。曖昧だった何かがわかりそうなのに。
『バーナビー!』
断ち切ったのは、PDAのコール音と、アニエスさんの鋭い声だった。
「……はい」
『あら、今病院にいるの? タイガーはどう?』
モニタ越しに様子が見えたんだろう。虎徹さんは少しだけベッドを起こして、アニエスさんに声をかけた。
「ご心配いたみいります。俺は3日入院、2週間安静の予定。早く治ったら別だけど」
皮肉っぽく投げかける虎徹さんに、アニエスさんはあまり暖かくない答えを返す。
『相変わらず不死身の男ねタイガー。でも丁度良かったわ。バーナビー、タイガーが復帰するまでの2週間、1部に戻って頂戴』
「……え」
復帰した時、僕は散々1部には戻らないと主張したのに、まるで覚えていないみたいに強い口調で彼女は言った。
『ここの所視聴率が低迷気味なのは知ってるわよね? ヒーローTVには売りが必要なの。そうじゃないと、貴方達の仕事がなくなるのは、タイガー辺りはよくわかってるんじゃないの?』
モニタの向こうの彼女の瞳が苛立ちを孕んでいる。確かに彼女の言う事も一理ある。けれど。
「僕は一度引退した身ですし、コンビとして以外にヒーローとしての活動はしないと……」
反論する僕の膝に、ぽん、と温かいものが乗った。
虎徹さんの掌。
とっさにその顔を見る。まるで子供を諭す時のような表情を浮かべていた。
「行って来い。2週間、待っててくれよ。もしかしたらそれより早く治るかもしんねーし。……頑張れよ」
「でも」
「バニー!」
反論を許さない、勁い声で言われたら。
「いいから、お前が健在だって事を市民にアピールして来いって。……2週間なんてすぐだから」
囁くようにそう言われたらもう。……僕に他の選択肢はない。
「……わかりました。では、2週間だけ、宜しくお願いします」
『良かったわ! あっという間よ、2週間なんて。だからゆっくりしてていいのよ、タイガー』
「……りょーかい」
溜息混じりの虎徹さんとは対照的な、明るい笑顔を浮かべて、アニエスさんは通信を切った。
膝に置かれたままの手が熱い。虎徹さんはベッドに身体を預けたままで、僕に視線を向ける。
「ちょっとだけ1部に戻って、自分のヒーローとしての能力を確認してみろ。……俺の能力は2部で扱う事件の規模に見合ったレベルだ。でも、お前はそうじゃねぇだろ」
優しい口調だった。
でもどこか、僕との間に敢えて壁を作ろうとしている気がして。
「それに……今のままじゃ足手まといになっちまう」
息を呑んだ。
虎徹さんはあくまでも笑顔を崩さない。
でも、その言葉は余りにも重くて。……僕にはもう、何も言うことは出来ない。
「たった2週間だ。とりあえず、俺が復帰するまで、な」
アニエスさんは僕が2部に所属する事に最後まで反対した。最終的にはヒーローに戻る戻らないという激しい応酬の末に向こうが折れた形にはなったけれど。
まさかこのタイミングで。
「……はい。でも虎徹さん」
最後の抵抗かもしれないけれど。これだけは伝えておきたかった。
「ん?」
「僕は2部にちゃんと戻ってきますから」
このまま1部に残れと言われたら、僕は。不安を押し隠すように、冗談めいた口調で告げる。虎徹さんは無言で僕を見つめていた。どう考えているのかを読めない表情で。
「1週間くらいで治して戻ってきても、構わないんですよ?」
「……ははっ、じゃあ頑張るわ」
まなじりの笑いじわが深くなった。でもその笑顔は、僕の不安と困惑を押し流してはくれない。





翌日。
夕方、いつものようにトレーニングセンターに行くと、1部所属のヒーローが全員揃ってソファに座っていた。
「あらぁハンサム、1部に戻ってくるんですって? お帰りなさい」
ファイヤーエンブレムさんが立ちあがって、するりと片腕に腕を絡めてきた。微かに、高級そうなトワレの香りがする。
「……2週間だけですが。虎徹さんが休んでいる間だけ、お世話になります」
「アニエスさんはずっといて欲しいみたいだけどな」
どこかふてくされたような言い方でロックバイソンさんが続ける。
「そうよそうよ! いっそワイルドちゃんと二人で戻ってくればいいのに!」
スカイハイさんと折紙先輩が同時に頷いた。
「バーナビー君、おかえり、そしておかえり! また君とキング・オブ・ヒーロー争いが出来るのは嬉しいよ!」
「え、ポイントは2部でカウントするんじゃないんですか……?」
折紙先輩は首を傾げた。
「そーいや、ポイントの計算ってどうするんだろう。視聴率至上主義もいいけど、ポイントの計算めんどくさくなるだけなんじゃない?」
「ボク、このままタイガーと二人で戻ってくるんだと思ってた。違うの?」
ブルーローズとドラゴンキッドも首をひねっている。
「とりあえず、2部のポイントで計算するんじゃないでしょうか。……あくまでも僕は2週間だけの約束でこっちに来てますし」
「そうなのかい? それは残念だ。ワイルド君もバーナビー君も、1部リーグにこそふさわしいと私は思うのだけれど」
「……ありがとうございます」
素直に受け止めるべき賞賛の言葉が、今は重い。
アニエスさんの口ぶりではこのまま1部に残って欲しいようだったけれど、虎徹さんも一緒に、となると渋るかもしれない。
またあの問答を繰り返す事になるんだろうか。
それならそれで構わないけれど、虎徹さんの言葉が余計不安を煽る。
それに。あの記憶。

……僕は以前、虎徹さんに会った事がある?

自分の記憶が整理出来ていない事がどれだけプレッシャーか、改めて思い知る。
見舞いから戻って過去の日記やPCをチェックしてみたけれど、それらしい記述はなかった。
ただ、何度か、夢を見た、という事だけは記録している。
年に1、2回。時期はバラバラ。相手の顔も名前もわからない。……性別も。
それに虎徹さんははっきりと否定をした。
ならば、見舞った時に覚えた既視感は一体、何なんだろう。
『ボンジュール、ヒーロー! 事件よ!』
思考に沈もうとする僕の意識を遮ったのは、アニエスさんのコールだった。
「バーナビー君、急ごう、そしてハリーアップだ!」
「何言ってるのかよくわかんないわよ、スカイハイ」
二人の、懐かしいやりとり。帰ってきたんだな、と改めて思う。
とりあえず、気持ちを切り替えないと。
ここは1部リーグ。特に凶悪なNEXTを相手にしなければならないのだから。
……虎徹さんは、いない。





それから1週間はあっという間に過ぎた。
相変わらず、シュテルンビルトの治安は良くない。
強盗、傷害、殺人事件にNEXT能力者が絡んでいる事もしばしばだ。
ウロボロスはマーベリックの死亡後、影を潜めたように思われるけれど、犯罪の数は逆に増えている。
アニエスさんが1部に戻ってこいと言ったのは、決して視聴率の為だけではないんだろう。
一つの任務が終わったらすぐに次の場所へ呼び出される。
2部も忙しかったけれど、扱う事件の規模が小さい事もあってどこか牧歌的だった。でも、1部リーグで扱う事件は切実なものが多い。人の生死に関わるギリギリのライン。一瞬の判断が命取りになる事もある。 改めて、虎徹さんが10年以上、第一線で続けてきた事の意味を考え直す。
あの人は僕が思っているよりももっとシビアに、死線を潜り抜けてきたんじゃないだろうか。
「もー、何でこんなに忙しいの! いい加減にして!」
ブルーローズが耐えかねたのか、汚れた手袋を外してソファに投げつけた。
「ボク、ちょっと限界……」
「僕もです……」
ドラゴンキッドと折紙先輩もぐったりとソファに身を投げ出している。
「これでは皆参ってしまう。一旦、それぞれの家に戻った方が良いだろう」
深夜に急に呼び出される事もあるから、途中から家との往復すら面倒になり、この1週間は殆どジャスティスタワーで寝泊まりしていた。
マンションに戻るのも着替えを取りに行く時だけ。その時間も惜しいくらい、出動だミーティングだ書類作成だ、とやる事は山積みで。
「……そうね。アタシもちょっと溜まった仕事を片づけなきゃいけないし」
「俺も今日くらいは飲みに行きてぇ……」
「何もない事を祈るしかないですね……」
全員で一斉に溜息をつく。とりあえず一度部屋に戻ろう。それから洗濯をして、虎徹さんにメールを送って……。
忙しさのあまり、虎徹さんの見舞いにも行けないままだ。メールは何度か送ったけれど、電話は出来ず、ただ短文で近況を報告して、虎徹さんの具合を尋ねるだけ。虎徹さんの返事も至ってシンプルで、退院したとか、家で寝てるとか、短い文章と他愛ない写真が送られてくるだけ。
もし明日、何事もなかったら、虎徹さんと電話で話がしたい。退院して自宅療養中だから、何か欲しい物があるかもしれないし。
そして、虎徹さんにも1部リーグの状況を話してみよう……。
何故だかわからないけれど、今、どうしようもなく、虎徹さんの顔が見たかった。
こんなに長く虎徹さんと会わないのは、久しぶりだからだろうか。

疲れ過ぎて食欲もあまりなかったけれど、とりあえず食べないと回復しない。適当に軽めの夕食を取ってマンションに辿り着いた時には、日付が変わっていた。
まず服を洗濯機に放り込んで、シャワーブースに入る。
……身体が熱い。
立て続けの出動で頭と身体が奇妙な程冴えて、昂ぶっているのがわかった。
シャワージェルを泡立てて全身を洗って、それから。シャワーの温度を下げて、勢い良く吹き出してきた水を浴びる。
でも、水の冷たさは一向に自分の高揚した気分をおさめてはくれない。
まるで熱に浮かされたみたいに。
僕はシャワーを浴びながら、自分の性器に手を伸ばす。
掌と身体に残ったジェルの泡のせいで、慰める手はぬるりと性器を滑った。
普段は滅多にないけれど、どうしても身体が昂ぶって仕方がない時だけ、自慰をする。
射精した後に身体が醒めていく感覚はあまり好きではないけど、そうでもしなければ眠る事すら出来ない時があって。
「……っ」
水を浴びながら、目を閉じて、掌のもたらす快楽に集中する。
形を変えた性器は掌で震え、大きく脈打った。
あと少し。
早く楽になりたい。
掌の動きを早める。

……瞳の奥にちらりと見える姿がある。
虎徹さんだった。
上目遣いにこちらを見ながら、口の中に差し込まれた指を舐めている。
掌から、爪の先へ。
深く。浅く。
頬が赤い。どこか息苦しそうに、ちゅうっと音を立てて指を吸う。
何かを強請るように、煽るように。
視線が、合った。
どこか羞恥心が見え隠れする瞳が、戸惑いと、裏腹の快楽に揺れている。
まるで口淫をするみたいな仕草。
紅い舌が指を這う。
僕を、誘う。
「……、く」
その瞬間、僕は掌の中に精液を吐き出していた。
どろりとした熱い液体が、掌を汚す。
「……僕、は」
少しずつ冷えてゆく身体から、シャワージェルのぬるみは消えてしまっていた。
手の中の白濁を洗い流しながら、呆然と立ち尽くす。
「僕は、一体、何を」

達したその瞬間、想っていたのは、虎徹さんの快楽に沈む顔。
顔を赤くして、少しだけ涙目の。

「どうして」
問う声は、水と一緒に排水口に吸い込まれていく。

僕はその後、虎徹さんに電話をする事が出来なかった。
酷い罪悪感が、心と体を苛む。





その晩、夢を見た。
「わりぃけど、水もらっていいか? 喉渇いてさ……さすがに飲み過ぎた」
今よりも少しだけ若い虎徹さんが、赤い顔をしてソファに横たわっている。
ほんのりと目尻を赤くして。
「……はい」
僕は涙ぐむ年上の男性に取るべき態度がわからなくて、内心途方に暮れながら、水を差しだした。
虎徹さんは顔だけ起こして水を飲もうとしたけれど、酷く酔っているせいかうまく飲めなくて、口の端からぼたぼたと水が流れ落ちてしまう。
身体を起こすように促してみたけれど、アルコールがまわっているのか、起きかけてまた仰向けにソファに倒れてしまった。
……どうすればいいんだろう。
今日は昼間暑かったから、アルコールと相俟って脱水症状を起こしているのかもしれない。だったら水分を補給しないと危険だ。
虎徹さんは頬を流れた水を手の甲で拭って、その滴をぺろりと舐めた。
そして、美味しそうに目を細める。
無意識の行動だったのだろう。
――紅い舌が、まるで別の生き物みたいだ。
心の、身体の奥底に眠っていた何かが、溜息になって外に吐き出される。
ふと、悪戯にも似た考えが浮かんだ。……どうして、そんな風にしようと思ったのか、わからないけど。
口移しで飲ませればいい、なんて。
僕は空になった口内に水を含み、滴で僅かに濡れた唇に、僕のそれを押しつけた。
一気に水が移らないように、少しだけ虎徹さんの顔を斜めに向けて。噎せないように、少しずつ。
「……んッ」
こくり、と喉が鳴った。
餓え乾いた身体。
物欲しそうな、音。
「……うまい」
口の中の水を全て明け渡して唇を離すと、掠れ声でそう言って、満足気に笑う。
どこか子供みたいな笑顔に引かれるように、僕はもう一度水を含み、唇を押しつけた。
今度は、最初の時よりも強く。
粘膜同士が触れて、体温が混じり合う感触は、僕が初めて知るもの。
アルコールの匂いに、こちらが酔ってしまいそうだ。
水を飲み下す音が生々しく、鼓膜に伝わる。
頬に伝わる滴が、ソファに落ちる音がした。
いつの間にか僕は、水を飲ませる事よりも、その唇の感触に集中していた。
少しだけ荒れて、しっとりとしたそれは、水で体温を奪われてもすぐに熱を取り戻す。
「もう一口、くれよ」
強請るような、甘えるような口調に、僕は目を見開いた。
「……」
いいだろうか。
もっと、その唇を味わっても。……水を飲ませる事を、免罪符にして。
理性なんて流れる水とともに零れ落ちてしまったんだろう、きっと。
僕はキスの理由を作るために、急いで水を口に含む。
そして、口づけて。今度は一気に水を飲ませて。すると彼の腕がもっと、と強請るように首にまわされ、引き寄せられた。
残った水をすすりあげるみたいに、彼の舌が僕の中に滑り込んでくる。
カジュアルなキスしか知らない僕に与えられる感触はあまりに強烈だ。
「ん、ふ」
息の継ぎ方もわからない。けれど、別の生き物みたいに貪欲に僕を貪るその舌の動きがあまりにも扇情的で。
僕は彼がしているように、彼の舌に自分のそれを絡めてみた。
びくり、と彼の身体が震える。
こんなキスに慣れない自分の舌は、思うように動いてくれなくて、もどかしい。けれど、強く吸い上げる度に、彼の身体がふるえて、僕にしがみついてくる。
……僕が夢中になっているみたいに、この人もそうなればいいのに。
その時初めて、自分が眼鏡をかけたままだった事に気がついた。
お互いの肌が触れ合って眼鏡を曇らせている。あとで眼鏡を拭いておかないと。
でも今はそんな事はどうでも良くて。眼鏡を外す時間すら惜しい。
もっと、もっと深く。
この人の中へ。
粘ついた液体が口の中で混じり合って、とろとろと零れた。
そして。

……不意に目が覚めた。
見慣れた寝室の天井……ここは僕のマンションだ。
ゆっくりと横を見ると、時計は午前3時を表示している。
エアコンのきいた涼しい部屋で、僕は一人、とろとろと浅い眠りに落ちていたけれど。
「……虎徹さん」
そろりと起き上がって、僕は頭を抱える。
夢じゃない。
あれは、本当にあったことだ。
僕がまだ20歳になるかならないかの頃。
ウロボロスのマークを持った男がブロンズステージで逮捕されたというニュースを見て、僕は両親殺害の手がかりを探しに出かけた。
あちこち聞いてまわって、でも結局何も得る事は出来ず。仕方なく出直そうと思っていた時に、虎徹さんを見つけた。
――その時の。
「……っ」
全く思い出せなかった。しかも、それが虎徹さんだなんて気づきもしなかった。
僕は頭を抱え込む。

『俺とお前で、最高のコンビだったじゃねぇか!』

……同時に浮かび上がってきた記憶がある。
僕が虎徹さんを忘れたのは、初めての事じゃない。
記憶を操作されて、サマンサおばさんを殺した犯人だと教えられた。
僕は虎徹さんを追い詰め、そして。
気がついた時には、涙を流す虎徹さんが目の前にいた。

「僕は……!」

息が苦しい。

  1度だけじゃなくて。
僕はまた、虎徹さんの事を忘れてしまっていたんだ。
「……虎徹さん!」

心臓が恐ろしい早さで脈打つ。どくどくと流れる血の音が耳に入ってきて煩い。
――会って。
直接確かめないと。虎徹さんに。
貴方は覚えていたのか。何も思わなかったのか。

朝になったら連絡をしよう。そう思って待っていたけれど、夜明けはなかなか訪れない。
寝不足の判断力が落ちた状態ではまともに話も出来なくなってしまうから、そんな事は絶対にしたくない。
でも酒で無理矢理眠って、それが残っている状態で会うのもイヤだ。
早く寝よう。そして、起きたら、虎徹さんにメールをしよう。
会って話がしたい、と。
部屋を真っ暗にして目を瞑る。無理矢理意識を外界から遮断して。
瞼の裏に浮かぶのは虎徹さんの顔ばかりだ。過去の、そして現在の。





 1週間の疲労が溜まっていたのかもしれない。一度寝入ってしまったら、結局朝の10時前まで目が覚めなかった。出動のコールもない。アニエスさんから『事件発生まではゆっくりしておくように』という同報メールが来ている。
 このまま事件さえ起らなければ、久々の休暇だ。
 僕は枕元の携帯を開いて、虎徹さんにメールをする。
『今日は呼び出しもなく、このまま何もなければ休みです。もし良ければ、お見舞いに行ってよいですか? 空いている時間があったら教えて下さい。欲しいものがあるようなら、買って持って行きます』
 簡単な内容のメールだった。昨日からの自分の気持ちを、どう表現してよいのかもわからなかったから、文章は普段よりも余計そっけなくなる。
 虎徹さんは起きていたのだろう。返事はすぐに来た。
『退屈で死にそう。昼メシ食いたい。適当に買って持って来てもらえたら助かる。うちの場所、わかるか?』
楓ちゃんとのやりとりで使うのだろう。顔文字が沢山入ったメールに苦笑しながら、僕はまたメールを送る。
『GPSで場所はわかります。12時過ぎに、そちらに到着出来るといいんですが』
 これまで、僕が虎徹さんの家を訪ねた事はない。逆はあるけれど。
 ……そう思っていた。でも、多分、僕の記憶は本当のものじゃない。
 確かめるためにも、僕は虎徹さんの家へ行きたかった。一人で。





テイクアウトのサンドイッチやホットドッグ、ポテト、サラダ、飲み物を買い込んで、僕は電車で虎徹さんの家へ向かった。
虎徹さんはヒーロー復帰後、ブロンズステージの以前住んでいたアパートに戻ってきた。海に程近いその地区は、任務でもプライベートでも、僕自身は行った事がない筈。
昼間のブロンズステージは、流石に夜ほど治安は悪くない。けれども、街並みはどこか古びて荒れている。
最寄りの駅で降りて、PDAにセットされたナビを頼りに、なるべく大き目の通りにある歩道を選んで。
残り500メートル、とナビが合成音声で告げた、その少し先に。
ビルとビルの切れ間。カラス避けのネットがかけられたゴミ置き場がある。
今はほんの少ししかゴミは置かれていないけれど。

『大丈夫ですか?!』
 虎徹さんは山積みになったゴミの中に突っ伏していた。意識がないかと思って慌てて駆け寄り引っ張り上げたら、とりあえず気絶してはいなかった。酒の匂い。どうやら酷く酔っているみたいだ。

 そして、ナビが案内する方向と同じ方を、その時の虎徹さんは指さして。少し先に交差点が見える。そこを左に曲がったら。

記憶の中の自分が誘導された道の通りに、ナビが僕の道案内をする。
そこに現れたのは、見覚えのある、レトロな造りのアパートだ。

ああ、やっぱり。僕はその場に立ちつくす。
急がないと保冷材が溶けてしまうのに、動けない。
――僕は、ここに来た事がある。

2012.9.25UP。祝、映画公開! ということで、「花に嵐」の後の話です。
8月の新刊に収録されているため、公開するかどうか悩んだのですが、三部作のラスト1作は本を買って頂いた方へのお楽しみということにさせて頂きました。
私にしては珍しくバニー視点の話です。(2)に続きます。