代理戦争/最下層街編/終・静寂/4


先ほどよりだいぶ大量の塩辛い水が喉の奥を通るのを感じた。
こぼしてしまうかと思うほどの涙が溢れてきたのを抑えたのは、もはや意地と言っていい。
その様子を見ていたウスライが、ずっと右手を握っていてくれたのが、情けないことに、とても嬉しかった。
「……やはり、何か思い当たることがあるんだな」
こくりと頷いて、ハダレは唇を動かした。
「く、び、わ、……これか?」
ウスライがベッドサイドの入院患者用の棚にのっていた、首輪を指す。
――ハダレがずっと身につけていたもの。
ボロボロでところどころ色が切れて、使い古されたそれは入院してからずっと外されたままだ。
しかし首に擦り切れが残るほどに肌身離さず付けていたアクセサリーが何の関係があるのだろう。
この首輪なら、とっくに外れているではないか。
ウスライがいぶかしげにそれを取り上げ、ハダレにかざす。
「これが?」
ハダレは首を縦に振り、口を動かす。
「……?」
いま一つ何を言っているのかよく分からない。
もどかしげに指先も動かす手を取り、ウスライは何をしたらいいかを尋ねた。
すると、ハダレの指先が金具の部分のすぐ下、糸の色が違う部分を指した。
一度ほつれて補修したところのようだ。
そこを指しながら、必死に訴えかける。
「……ひ、ら、け……?糸をほどけということか?」
ハダレが切実な目で頷く。
ウスライは同じ棚の下の段から、果物ナイフを取り出した。
ひっかけて糸をほどいていくくと、首輪の一辺が表と裏地の2枚の革帯に分解されていく。
意味も分からず、ただ指示されたとおりに作業をする。
これでいいのか――そう、ウスライが聞こうとしたときだった。
表と裏の帯の間から白い異物が覗いている。
「これか?」
確認すると、ハダレがまた涙ぐんでいるのが見えた。
わけのわからぬままそれをそっと抜き取る。どうも、それは折りたたまれた紙のようだった。
ナイフと首輪を棚に置き、紙片をそっとそっと広げていく。
紙片自体は古いもののようで何回もたたまれて棒状になっていた。
慎重にそれを広げ切る――それをゆっくりと眺める。
紙片は雑誌の切り抜きか何かの写真だった。
抜けるような青い空。快晴ではなく、白い雲が少し浮かぶ。
影を落とす広い草花、遠くを満たす湖か海のような水。
その下のほうに、走り書きで書きつけてあった。



    可愛い弟へ
 
   僕はここからいなくなります
   けれどさみしがらないで、君も自由になるんだ
   空や海を見に行けるように首輪をはずしてあげる
   どうか君がずっと幸せでいられますように

                   愛してる             


「……首輪を、外す……」
まったく同じ言葉が書きつけてあることに驚愕しつつも、どこか受け入れる。
拘束男が正気なのかそうでないのかはっきりしなかったため、
この一致が偶然なのか故意なのか判断しかねる。
だが、あのセリフを吐いた時の真剣な顔とこの紙片を見ると、
いずれにせよ彼の決意が固いことが透けて見えた。
切ない愛し方だった。ハダレが自由になる様を兄が見ることはないのだ。
しかしそれでも彼の幸せを思ってお膳立てしたことは間違いない。
ハダレが本当に幸せを感じられるかは別として、ある生き方を貫いた奴隷の最後の仕事だった。
今さらながら、微笑とともに返したためらいのない返事が、心からのものだと実感する。

ウスライが紙片から目を離すと、ハダレがまだ涙をこらえていた。唇を動かす。
「わ、か、ら、ない、……くびわ、の、いみ、だけど……」
まだまだ何かいいたい言葉があるようだった。必死に思いを表わせる言葉を探すハダレ。
しかしハダレの語彙の中にそんな繊細な言葉はなく。
また、18年の間のぐしゃぐしゃな思いがひとことで済むはずもなく。
心中は複雑きわまりないだろう。
喜怒哀楽、いろいろな感情の奔流は停止していた心には重すぎる。
その中で涙の粒は落ちないのが不思議なほどの大きさで、キラキラと輝いている。
以前見た生気あふれる青灰色の瞳に限りなく近かった。
「ハダレ」
思わず声をかけると、ハダレが震える口から言葉を紡ごうとする。
だが乾ききった唇以上に、わなわなとしている顎が、
唇の動きで言葉を伝える手段さえ断っている。
いや、動けないのかもしれない。
瞼をおろせば、洟をすすれば、顔を傾ければこぼれそうな涙。
絶対にこぼさないと誓ったそれらが彼の動きを縛っている。
たまたま生き延びる資質と優しい気質を持っていたというだけで
もてはやされたり恨まれたり利用されたり閉じ込められたハダレ。
彼の拳は今やぎゅっと握りしめられていた。
感情の波を、涙の元栓をぎゅっと締めつけたいとでも言うように。
兄が完全に戻ってこないことを悟りひとりですべて完結すべきだというように。
茫洋とした涙をこらえる目は見開き余人の姿が映る隙はない。
その様を見下ろしながら、唐突にウスライは察した。
すべきこと、したいことを。

突然ハダレの拳が強く引かれた。
視界が90°動いて、重力に伴って大粒の涙が落ちる。
だがあっと驚く間もなく、その雫は消えた。
目の前の闇に吸いこまれて消えた。

半身を引き起こされたハダレの頭を、ウスライが抱きこんでいた。

反射的にウスライの胸に手をついて離れようとしたハダレに、男が呟いた。
「泣きたいだけ泣け」
支えるように後頭部に添えられたウスライの手が、赤い髪を撫でた。
殴り合ったり殺し合ったその手はとても温かく、
ハダレの額が押し当てられた胸からは確かな鼓動が伝わってくる。
「……」
突っ張りかけたハダレの腕の力が緩む。
――だが、次の瞬間強く爪を立てるように握りしめられた。
ハダレの肩が震える。
それをなだめようとはせず、ウスライが一層強く頭を抱き寄せた。
泣きやむ必要はない。

「……こうすれば涙は落ちない」

屁理屈であろうと、男は青年に救われた。
救われるまでに犯した罪は絶対に消えないが、
ただそのひとつだけは真実であるから、ひとりきりにならなくてもいい。
同じ罪を背負い、その罪に救われたものが許すのだから

「…ぅ…、…う…ぁあ"っ……ああああああああああ」

もう、苦しみを隠しとおさなくていい。



消灯時間を過ぎても、医者も看護婦も見回りに来なかった。
病室の扉の小窓から内部を確認したのだろうか。
それとも何かを察したのだろうか、ふたり以外の誰の気配もなかった。
ハダレは涸れた喉を振り絞って泣き続けた。
ウスライの胸元を叩き時に拳を握りしめながら。
時々涙が勢いあまって、ウスライの腿やシーツにぽたぽたと垂れたが
それではっとしてとまるほどハダレの涙の量は少なくなかった。
抱きよせて、それでぎょっとするほど痩せこけた体のどこにその力があったのかと
不思議に思うほどの号泣は長い時間収まらなかった。
痙攣のような泣き癖が収まり、ハダレが泣き疲れ、部屋に静寂が戻るころには、
時計の針は日付を変更する時点をとっくにすぎていた。



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