代理戦争/最下層街編/終・復活/3


ニ十数回目の夜はやはり静かに、最下層街に闇を運んできた。
ウスライはブラインドの隙間から表の路地を見下ろしていた。そろそろ事態が動くはずだ
った。
一方ハダレは出立の準備をしていた。
といっても、新調したスニーカーに紐を通すだけの作業だった。
もともと着ていた服、靴は、捕まった際に全て破棄され、表に着ていけるものがなく、
ありあわせを調達してもらっていた。
常に肩掛け鞄ひとつで動いていた身では、最下層街を出るにしても変わりはない。
分散して預けておいた賞金・貴重品を回収できそうにないのはおしいが、
なにより命が大事だ。
せっかく助けてもらった身だ、むざむざ危険に飛び込む必要はない。
ハダレはあっさりとあきらめていた。
右足を終え、スニーカーの左足を取りあげたときだった。
「最下層街を出たら、どこへ行く」
「へ」
急に声をかけられ、間の抜けた声が漏れ出た。
ウスライは視線を外に向けたまま、再び尋ねた。
「ここを出たら行く場所(あて)はあるのか」
「……いや」
ハダレは頭を振った。
「あるわけないじゃん。
 最近やっと生活が軌道に乗ってきたくらいなんだぜ?
 外にツテなんかあったらとっくに出てってるって言うのに。
 ていうか……」
沈黙にウスライが振り返ると、ハダレの視線は手元のスニーカーの紐に落とされていた。
「最下層街を離れる日が来るなんて……考えもしなかったな……」

その目が眇められているのにウスライは気がついた。
「……この街に未練が?」
尋ねる。
ハダレは紐を弄んでいる。
「……どうだろうね。
 いい思い出なんかそうそうないんだぜ?
 ケツか命狙われてばっかりの場所でさ。
 見限ることはあったとしても追い出されるとは思ってなかったよ」
その口調には、たかが十八の青年としてではない、
最下層街で底辺から頂点へ昇りつめた男として語る深みがあった。
その背中のなんと小さいことだろう。
ウスライはそう感じた。

沈黙の落ちた室内には、窓の外から聞こえる町のわずかなざわめきと
室内のハダレが発するかすかな音のみに支配されていた。
ほとんど灯りのない室内にはハダレの白い肌が浮かび上がるかのようで、
対照的にウスライの黒い装束は闇に溶け込むかのようだった。
だが、最下層街の闇に存在が溶けて消えそうなのは
ハダレの方のようにウスライには感じられた。
圧倒的な存在感を見せつけたあの試合の夜は遠い日のことのようで、
復活したとはいえ今のハダレは元の強靭さには遠く及ばないそれしかない。
気が付いたら最下層街という場所に取り込まれてしまいそうな
ただ一匹の存在、彼はか弱いものになり下がっていた。
それは単に体力が衰えたからとか技が鈍っているからではない。
ハダレが巻き込まれた事件はあまりに彼に密なものとつながりすぎていて
精神の根幹をゆるがしたがゆえのものである。
大きく失ったものがあった。
得たものがあるのかどうかは――分からない。
分からないが、そのプラス・マイナスがどのように
今後の彼に作用していくのかを含めて、今は混とんとしたままでいても
仕方がないだろう――そう、ウスライは思っていた。

ただ自分たちを狙う者たちは待ってはくれない。そのうえ優しくはない。
だから、ハダレには時間を与えてくれる場所が必要だった。
どのようにそれを与えるかウスライは長い間考えていた。
ハダレがめざめてからこちら――相当の時間をかけて、ゆっくりと。
そして結論は出た。

「ハダレ」

呼びかけると、ん?とハダレが顔をあげた。
愛嬌のある瞳がいたずらっぽくウスライを見つめ、小首を傾げる。
僅かに心臓の跳ねる音を聞きながら、ウスライは言った。

「一緒に東へ行かないか」
ハダレの手元からスニーカーがぽろっと落ちた。
そしてなぜか、白い頬にさああああっと音を立てそうな勢いで朱が差す。
「…………?」
不審げに眉をひそめると、ハダレは自身の状態に気づいたらしい。
両手を大きく振りかぶり、バンバンと自分の両頬を叩く。
そしてこちらに親指を立ててみせる。
「オッケー正気正気」
「……意味がわからん」
違う意味で真っ赤になった頬を眺めながら本気でため息をつくと、
なぜかハダレはほっとしたように笑った。

それからウスライは説明した。
自分は任務を全うしたので、これから故郷に帰るということ。
故郷へは陸路で帰るため、長い旅になるということ。
その長い旅の間には多くの国があり、
最下層街のような場所から中央街のような場所まで様々な地域があること。
その中にはきっとハダレにあった新天地があるだろうということ。
そして――

「本当はお前を故郷に連れて帰らなくてはならない。それが新しい任務だった。
 だが、俺はお前にそれを強制はしない。
 新しく暮らすにふさわしい場所が見つかり次第、そこで別れよう」



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