その言葉を聞いた瞬間、何故かハダレは驚いた表情を浮かべた。
目を見開き隠しきれない――隠そうともしない、その上少々翳った驚きを。
「……何で?」
そしてその渇き気味の唇から声が漏れる。
「何で任務を辞めるんだ?」
「…………なぜ、というと」
「アンタは故郷の命令でこんなところまでやってきて、
それで沢山人を傷つけて、殺すことまでやってのけて……」
そこでうっ、と一瞬声を詰まらせる。
「……全然、責めてるとかじゃないんだ。
ひどいことをするのは、苦しいよ。苦しいことを我慢するのは大変だよ。
アンタにとってはそれだけ故郷のことが大事だったんだろ?
何で今更やめるんだよ」
「……」
その言葉に胸を突かれるものを感じて、ウスライはほんの少し俯く。
故郷を発ってから5年。殆ど感じる事すらなかった郷愁を、今唐突に感じた事に戸惑う。
確かに問題は山積みであり、故郷を出奔してほっとした事は数知れない。
だが兄殺しという酷な任務を放棄しなかったのは、
それに相反する感情があったことに強く起因している。
2200年の歴史を持つ国。
山深い小さな郁。
土の道を辿って潜る門。
木造の家は何棟かに分かれ、各々の住人が生活している。
そして敷地の外れに離れがひとつ。
敷地面積は狭くとも二階建てのその建物の前にはよく手入れされた庭があり、
春には染井吉野の若木がやや寂しくも趣のある華を咲かせる。
それを手入れする人物――
「……故郷のために、俺は何でもしてきた」
回想を頭を軽く振って振り払う。
「誰かを殺すことも厭わず、振り返らず、ただ愚直に直進してきた。
それが正しいと信じていたかった」
「ぐちょく」
ハダレが繰り返す。どうやら、言い回しが分からなかった風だったが、
分からなくても特に問題のないことだった。ウスライは目を細めながら続けた。
「そう信じることでしか己を支えられなかった。
…………そういう時にここへ来てお前と出会った」
ハダレにはそこで己の名が出てきたことが心底意外なようだった。
「最初は最下層街もお前の事も正直にいえば気に入らなかった。
到底受け入れられるものではなかった。
お前はお前で強い事を鼻にかけている人物に見えたし、
この街も下卑た人間ばかりで早く退散したいとばかり思っていた」
「正直言うねぇ」
多少は同意するが同意しきれない部分もある、といった様子でハダレが頭を掻く。
表情は複雑だ。
そこまでコテンパンに言われてちょっと不快なような、
そこまで胸の内をさらしてくれることを少し嬉しく思っているような。
少々申し訳なさを感じながらウスライは続けた。
「だが、お前と接し暮らすうちお前の過去を知った。傷を知った。
最下層街の摂理を少し学んだ。
俺は何も知らなかった。知らないのにそれで判断しようとしていた」
そして、ウスライはいつかハダレに分け与えるように触れた、
己の鼓動のする箇所に手を当てた。
とく、とく、と静かに波打つそれを己の外と内から感じる。迷いはない。
「それから何より……『異』に対する思いが一変した」
その様子をハダレはじっと見ていた。視線もそらさず。
――暫くして、彼はふっと息をもらした。笑うというには不足した表情で。
「……そっか、オレもう『視え』ないんだっけ」
「……?」
「前、オレアンタの心の中視た事あるでしょ。
その時はさ、あんたはオレみたいな『異』のことキライみたいだったから。
変ったっていうなら、ちょっとでも良く変わっててくれたら……嬉しいなって」
言い終わると、ハダレが照れるように笑んだ。
まるでちょっとしたドジを踏んでしまったように。
「それで、いつもみたいに視ようとと思ったら……ね」
ウスライはそっと近づき、手を伸ばした。もうあまり躊躇いはない。
ハダレの頭に掌を置くと、その赤い髪を軽く掻くように指を梳きいれる。
「……すまない。本当にすまない」
何度もなでられるうち、ハダレはうっとりと目を閉じた。
口元には微笑みさえ浮かんでいる。
それはどうあがいても許せぬ者に対して浮かべる表情ではなかった。
「……お前が俺の心を視たとき、一時は手を上げてまで否定した。
けれどもやはり、己の心は偽りきれなかった。
故郷を出てきたときから――あるいは、故郷を出る前から押し殺してきた
この心を、唯一垣間見たのは、お前一人だ」
その言葉に、ゆっくりとハダレの瞼が上がった。
短いまつげに縁取られた、印象的な唯一残された青灰色の瞳がウスライを見つめる。
そして瞬く。
「初めてのことだったから……慣れていなかったんだろう。
文字通り見透かされて、一瞬は不愉快だったが、その後とても楽になれた。
お前の前ではどんな隠しだてもできないと身をもって知ったからこそ、
何も我慢する必要がなかったから」
「そっか」
うん、うん、と聞いていたハダレは短く返事をした。
ただ必要なだけの返事を。
そしてウスライもまた、必要なだけの結論を下した。
「だからそんな恩人を、閉鎖的で短絡的な、俺と同じような人間しかいない場所へ
連れて行って再び檻に閉じ込めるようなことはしたくない」
「でも、それだとアンタは罰を受けたりするんだろ?
オレのせいでそんなことになるのはいやだ」
ハダレがかぶりを振ったのでウスライは手を引き下げた。
「それに、兄との闘いで負った傷が深くてそのまま亡くなったことにすれば、
おそらく彼らは諦めるだろう。
……それにこれは俺の問題だ。お前は……」
「お前だけの問題じゃない!」
何故かハダレの口調は固く、強い。
「オレだってお前に助けてもらった。試合のときと、病院の時。
二度も助けてもらったやつのために何もできないなんて絶対にイヤだ」
食い下がるハダレをいさめるように、ウスライは穏やかな口調で告げる。
「前も言ったかもしれないが、俺の故郷は閉鎖的な場所だ。
『異』を持った人間は畏れ敬われる。だがそれは偏見と同義だ。
その上自由に郁を出る事も自由に結婚する事も出来ない。
お前が故郷にいたときに閉じ込められていた檻と同じだ。
予想だが、郁の上層部はそういう環境にお前を置くだろう。
何も変わらない。
お前の兄が命がけでお前を逃がした事を忘れたか?
その想いを無駄にすることも俺は出来ない」
兄の事を持ち出され、うっとハダレの喉が鳴る。
絶望から立ち直ったとはいえいまだその傷は深く、彼の遺志を無下にするのかと
言われれば絶対そうは出来ないだろう。
そうなることを予期して彼の事を持ち出した己をひそかにいやしく思いながらも、
思いとどまらせるなら今しかない事も強く感じる。
「……」
じっとそらされる事もない潤んだ瞳が、
かすかに躊躇を孕んだような色をしている。
「オレは……」
――ぎゅっとその拳が握られる。
「オレは自由に出かけたり、結婚できなくていい」
「何故だ」
短く問う。
ハダレの答えもそう長くはなかった。
「アンタが好きだから」
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