代理戦争/最下層街編/承・畏怖/1


「………………」
暗い屋内に、わずかな物音が規則的に響いている。
規則的な物音というと壊れた機械の駆動音や、水漏れの音のようなものを想像しがちだが、そうではない。
きわめて有機的な物音だった。
空気が気道を通り、ヒトの肺を収縮させ、また口腔から出て行く音。そしてそれが酷く荒れていること。
また顎から滴った汗が落ちる音。そしてそれが尋常でなく多いこと。
そして、ハダレのパーカーの隙間から露出している肌が、わずかに切り裂かれ、そこから血が流れる音。
そしてそれは擦り傷程度の浅い傷に過ぎないが、ハダレを酷く刺激したこと。
「………………」
二人の距離はさほど開いていない。
吹き抜けになった建物の中心側の手すりと壁側は何メートルもなく、ハダレが柵に背をつけるほどに退いても、
やっとウスライの攻撃を避けられるほどしかないからだ。
ただ、先ほどまでの拳と足を使った攻撃ではそのような距離は必要ない程度の距離でもあった。
ハダレは無言でウスライの全身を眺めた。
「…………」
ウスライは、壁から一歩分前に踏み出していた。膝を突き、左手を腰元に置き、右手をかざすように伸ばしている。
その手に、例の棒の中から現れた長い刃が握られていた。まるで、腕が伸びたようだ。
左手は棒――今となっては鞘か――を握りしめている。
ただ、顔色と表情はよくない。
思わず抜いてしまったことへの後悔と、そうせざるをえなかった自分の身体へのふがいなさで、苦々しい色に染まっている。
「………………」
ハダレはウスライのほうを見つめたまま、ゆっくりと右手を持ち上げた。
そして手のひらを返し、自分の胸元――切り裂かれた傷に指先をあてがい、軽く擦った。少量の赤いものが指の腹を汚す。
それをちらりと見下ろしてから、ハダレはその指を口に運んだ。まだ凝固前の体液は、鉄錆の香りをさせていた。
始めは舌で舐めた。唇の隙間から、先ほどまで男をしゃぶっていた舌で、撫でるように。
唾液が鉄錆の味になると、下唇で扱くように吸った。ちゅっと扇情的な音を立てさえした。
最後に指先をすり合わせて、指から唾液の残滓を残らず落とした。
その間中、彼はもう一人の男をずっと見つめていた。


一連の動作に、さほどの意味は無かっただろう。
ただ、その所作を見たウスライはそれを遮ることが出来なかった。
「…………」
姿勢をぴたりと止めたまま、身じろぎもせずににらみ合う。
動作に意味が無いから、遮るにも意味はなかった。だからしなかったというのは嘘ではない。
(………………)
ハダレが何をしたわけでもない。ただ、ウスライの瞳に映っているだけ。
膝を突き、中腰になったウスライからでは、見上げるような形になるのはごく自然なことだ。
そして、ウスライを見つめるハダレが下目使いな事も。
だがそれだけでこれほど張り詰めたような、畏怖のような、魅了のような、
複雑な冷たさを感じさせるその雰囲気が、黒尽くめの男の全身をゆるやかに縛っていた。
「……それ、綺麗な武器だね。斬られちゃった」
ハダレの言葉が右から左へ流れていく。
ほの暗い回廊ではそこまで鮮明に色など判別できるはずも無いのに、その瞳だけを引き込まれるように眺めていた。
灰色と青を中途半端に混ぜた色。
まるで、最下層街の空のような色が、天を仰いだようにウスライの目に映った。
「殺してやる」
その青空から、声が降ってきた。

ウスライは咄嗟に右手を下げ、同時に身体全体を右にひねった。瞬間、ハダレの拳がその空間を潰す。
古びた壁の塗りが一瞬で砕け、粉塵と断熱材を撒き散らす。
破壊音を背に一挙動で立ち上がり、数歩駆けてから振り返ると、すでにハダレが迫っていた。
「ッ……!」
拳や生身の脚を刃物で止めることなどできない。
刃で受け止めることは斬る事と同義だし、それ以外は刀自体が耐えられないからだ。
どうすべきか一瞬戸惑い、結局選択肢さえ揃わないまま避けることを選ばされる。
「ハダレ……!」
呼びかけても、答えは無い。少なくとも求めている答えは。
微笑というには穏やかならざる笑みを浮かべた青年は、
最後に発した言葉を律儀に守ろうとするように拳を、脚を、時に肘や膝、使える部位は全て使って攻撃してくる。
それら一撃一撃は実に荒削りで、いわゆる系統立てられた武術とは程遠い完成度だった。
――勿論、ハダレが最下層街で主に実戦で磨いた技であることをかんがみれば、当たり前のことだが。
しかしそれらは興奮型の『異』の持つ高いサバイバビリティと、その力そのものによって
刃物や鈍器無しにヒトを殺傷することを可能とした。
ウスライには、それがことに空恐ろしいことのように感じられた。
たとえウスライがハダレを傷つけることが出来ないとはいえ、武器を持っていたとしても、
それが無意味なことのように思えるほどに。
――その根拠の無い畏怖は、先ほど刷り込まれたハダレの『異』の印象がウスライの深層に強く影響していたために
沸き起こったものだったが、このときのウスライにはそれを分析する余裕は無かった。
時折、青年の『武器』は壁や床、柵、扉に当たる事もあった。そのたびに物が壊れた。
老朽化して、歩いているだけで床が抜けるような危険な建物がなきにしもあらずの最下層街とはいえ、
この建物はそうではなかった。
つまり、ハダレの攻撃は尋常ではない威力を持っていた。それこそ、人間がまともに食らえば内臓が先にくたばるような。
その無残な死に様を連想させられたことも、ウスライの混乱と畏怖を深めていた。



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