代理戦争/最下層街編/承・畏怖/2


ウスライは退くことを考えていた。
この様子では、彼を保護する前に殺されかねない。それは本末転倒だ。
それに自身が受けたダメージも浅いとは言いがたく、精神的にもぐらついている。
またハダレを無理に保護せずとも、一旦退いて、彼が理性的なときにもう一度尋ねるとか、
後をつけてでも敵を排除する方法はないことはない。
だから、退くことにはさほどデメリットは無かった。だが、ウスライはその場にとどまった。それはなぜか。
――ハダレを傷つけずに退く術と隙が無かったからである。

ウスライは知る由も無いが、ハダレの身体はもうとっくに限界のはずなのに、まだ稼動している。
だが運動量はそんなことを微塵も感じさせない。
傍目には息を弾ませているだけだ。暗闇のせいで、負っている傷の深さも、陵辱の跡も、ウスライの目に留まるほどではない。
――その時、ハダレがふと攻撃の手を緩めた。
「…………?」
数歩大きく下がってから、ウスライは不審げな眼差しでハダレを眺めた。
その視界が上下するのは、息もつかせぬ攻防の残滓――激しい呼吸のせいか。
一方のハダレも息を荒げていたが、視線を下げていた。
そして、そのまま声を上げ、ウスライに呼びかけた。
「……退きたいんだろ、あんた」
「……!」
「退けばいい。オレはあんたがどこかへ行くまで何もしない。不意打ちなんて、絶対しない」
突然の言葉に、虚を付かれた様な吐息を漏らすウスライ。
「オレは……一人になれれば、それでいいから」
「…………それですむ事じゃない」
やはり息を弾ませて――ところどころ薄汚れ、打撃の跡がついていた――、ウスライが応える。
理性を取り戻したようなハダレの様子に、すぐさま踵を返したいような衝動を押さえ込んで言葉をかけた。
「相手は組織だ。お前がいくら強くても、一人でやれることなどおのずと限度がある。
 だから……」
「…………」
ウスライは沈黙した。ただ、ハダレが上げた目と目を合わせる。
そうすれば伝わるのだろう、と試すように。事実、ハダレの右眼がウスライの想いを視る。
「……だから、オレをつれて帰って、護るつもり?」
みるみるうちに険悪になるハダレの雰囲気に、ウスライは動じない。――ふりをした。
そんな様子が、ハダレには腹立たしかった。
「『異』に呑まれてビビってる癖に、裏側をちょっと視てやれば顔に書いてあんのも同然だよ!
 だけどなんだよ、さっきから一回も殴り返さねぇでやられたい放題で!やるならやれってんだよ!」
『異』の生み出す欲望に駆られたハダレは極度の興奮状態で、表情も感情もころころ変わる。
だが、その肉体と活動が精彩を欠くことは無い。むしろ、高ぶるほどに精緻を極めていく。
「……オレとあう前、一人ぶっ殺したろあんた。上の階で。男一人!
 血の匂いさせて興奮型の『異』と逢うなんざ、煽ってるとしか思えねぇだろーが!
 オレを落ち着かせようとしたらな、目の前から誰も彼も消してオレ一人になるしか欲を消す方法がねぇんだよ!
 だから、消えろ!それか争いたくないなんて嘘ついてねぇで、殺されろ!そうしないで、話なんか聞けるもんか!」
怒鳴れば怒鳴るほど、身体の酸素が薄くなっていく。だが、言わずにはいられない。
言えば言うほどに虚しくなり、殴れば殴るほど自分の身体が痛む。視れば視るほど切なくなる。
だが、そうせずにはいられない。
「それに、あんたのしてることは全部遅すぎる――警告するのも、来るのも、信じさせるのもだよ!
 あんたの警告が遅れたから、オレは最低なやつを信じた!
 来るのが遅れたから、オレの身体は今ボロボロだよ!
 信じさせるのが遅れたから――」
ぐ、っと今までにない力が脚に漲る。ボロボロの身体のどこから沸いてきたのかは分からない。
だが、その力が、今まででも最速・最強の蹴りを構成していくのがハダレには視えた。
そして、ためらいも無くウスライの頭部を狙って、右脚を放った。消えて欲しいと願った。それがどういう形であれ。
風切る異音が、その威力の尋常でないことを物語る。だが。

退けないことを悟ったウスライの身体が一瞬で前進すると、ハダレの蹴り足を鞘で薙ぎ払った。
激しい異音とともにそれが弾き飛ばされ、ウスライの身体がバランスを崩す。
――それが、ウスライにとって幸いした。
「ッう……!」
ちょうど深い刺し傷を負っているほうの腿に鞘があたり、一瞬ハダレが動揺する。
その一瞬で、ウスライがハダレを引き倒し、殴り、気絶させ連れて行く、――と考えたのが、ハダレに『視え』た。
ハダレは――いや、ハダレの中に巣食うものはそうさせたくなかった。
接近しようとするウスライに、逆に無理に身体をひねって、肌の触れ合うほどに接近する。
そして、その喉笛目掛けて口を開け、噛み付こうと牙をちらつかせた。非常手段中の非常手段だ。
驚いたのはウスライだった――まさかいきなり、ハダレがこんな原始的で切羽詰った攻撃に出るとは思わなかったのだ。
咄嗟に腕を突き出し、代わりに噛み付かせ、一瞬動きが止まった所で、――思わず思い切り殴っていた。
意外に軽い手ごたえの青年の身体が文字通り、吹き抜けの方に飛んでいった。がん、と音を立ててフェンスにぶつかる。
そして、脆く錆びていたフェンスごと――四階から落下した。



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