互いに悲鳴は無かった。だがお互いに、後々思い出せば笑いが止まらないほどに呆気に取られた表情をしていた。
一瞬ウスライは何が起こったのかわからなかったが、理解した時、まれに見るほどに動揺した。
(殺してしまったら意味が無い――!)
思わずフェンスの外れた所から、四つんばいになるようにして下を覗き込む。下に大輪の血の花がないことを期待して。
期待通りに、下の階には血の花は咲いていなかった。
それどころか、すぐ下の階のせり出した部分に、青年が片腕でぶら下がっているのが見えてほっとする。
ウスライが平坦な、それでも明らかに動揺していると分かる声で言う。
「すぐ降りる。そのままで――」
「……オレは、贅沢なのか?」
それを、遮るでもなくぽつりとハダレが呟いた。
思わず青年が錯乱しているのではないかと思わせるような、一瞬では理解できない言葉で、問いかける。
「……オレが、オレのままで生きようとするのは……贅沢なのか!?」
青年の指の先が震えている。限界なのだろう。
思わず、届くはずがないと知りながら、ウスライは手を差し伸べた――が、ハダレは今度は決然と無視した。
真上にあるウスライの顔を眩しげに、――いや、眩しいのは朝日だろうか?見やって、
「オレは……生きていたいだけだよ。……このまま」
嫌な物から眼をそむけるように瞳を閉じて、落ちた。がりっと嫌な音がして、生爪が剥がれる。
三階とはいえ、地面は遠く、硬く、どんな危険物が落ちているか分からない。命の失われる予感に、ウスライの背が冷えた。
だが、幸運なのか不運なのか、青年が落ちた場所は朽ち果てたゴミが集められている場所だった。
不潔だが床よりははるかに柔らかく、ハダレの身体が受け止められる。
そのまま気を失ったらしい青年がぐったりと四肢を伸ばすのを見届けてウスライは立ち上がった。
そして階下に青年を迎えに行った。
夜が明けてから人一人を担いで、できるだけ人目につかないように目的地につこうというのは至難の業だった。
ことに、大人の男一人は大きすぎる。布で巻こうが鞄に詰めようが、目立つこと請け合いである。
――それでもウスライは『ばれてないばれてない』と自身に言い聞かせながら、目的地へ急いだ。
目的地は薄汚れたアパートのように見える建物で、事実戦前には中流の世帯が住んでいたのだという。
ただ今はその少し広めのスペースを使って、怪しい物品の保管や取引に使われたり、
時には人身売買のまねごとや死体の保管や処理にまで用いられていると噂される、通称『倉庫』という場所だ。
ここだけの話だが、ウスライが借りた部屋はいたるところに赤黒いしみがこびりつき、
風呂場には得体の知れない腐敗物があったために、他に借り手がいなかったのだという。今は片付けられて清潔だが。
ウスライは辟易しながら青年を部屋へ運び入れ、ソファに寝かせた。
自分もとてつもない疲労を感じながら、改めてこの青年を検分しようとしてふと気づいた。
――なぜ、彼から生々しい鉄錆びの匂いが消えないのだろう。 あの胸の傷は、さほど深くはなかったはずだ。
ひょっとしたら何か怪我をさせたのかもしれないと思い、躊躇いながらも服を剥いで確かめる。
そして、彼の身体を見て呻いた。
どう判断したらいいのだろうか。
まず何より目に付くのは右腿だった。巻かれていたシャツの裏面には血がべったりと付き、傷に張り付いていた。
――だから血が止まったのだろうが。生々しい傷は何度も開閉したらしく、乾いた血の層の上に鮮血を滲ませている。
そして両足首の上にくっきりと浮いた、拘束の跡。
無理な力を加えたらしく、ただの縄の跡では済まされない傷と腫れになってしまっている。
両手首にも縛られた跡があり、酷く擦り切れていた。
そして、首筋の鬱血の跡と、服を剥いで初めて漂った精の臭い。その源は確かめる気にもなれない。
それらが全て一同に会したのは、しかも哀れに痩せた青年の身体なのだ。彼は今、死んだように眠っている。
ウスライは、医者の手配をするとすぐに、全裸のままの青年を風呂場に運び入れた。
風呂場といっても、ただ無駄に広いスペースにシャワーがついただけの場所である。それこそ死体の処理でもできそうな。
ウスライは頭を振った。今、小脇に抱えた青年はまだ生きている。
シャワーのコックを捻って湯の温度を温めに加減してから、ウスライは青年の傷に障らない様に汚れを落とし始めた。
あの薄暗い、夜明け前のマンションでは分からなかったことだが、青年には自分の血も返り血も、両方ついていた。
小刻みに布を肌に這わせて汚れを落とすと、改めて青年の身体がぼろぼろであったことが分かる。
身体のそこここに痣があり、今は傷でなくとも、過去には傷であったものが次々に指に触れる。
指に感じられるのはそれだけではなく、薄い皮膚の下の、貧弱な組織――
(筋肉は流石についている……だが、それでも薄い。体脂肪も、正常からは逸脱して低いだろう……)
体質で片付けられる域ではない。
いつの間にか、ウスライの指先は布を落としていた。敏感な末端が、青年の身体を直接感じる。
(環境だな……栄養面が悪いのと、代理戦争のせいと……あと、『異』の精神的負担…そんなところか)
ウスライは青年の向きを変え、抱き寄せた。 そして今まで触れていなかった部分に触れる。
指先が水をまとって、青年の肌を撫でる。 だが、その指はお世辞にも艶を感じさせる手つきではない。
それこそ、医者か死体洗いのような手つきだ。
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