ウスライの朝は早い。
これは自分の習性のような物だと自負している。
故郷では早起きを推奨するような諺まであったから、いろいろな大人からほめられたものだ。
一方、兄や姉――特に兄は、早起きが苦手で、よく朝飯抜きの罰をくらわされていたのを覚えている……
はっと目が覚めた。それとともに、身体を起こす。
ウスライは故郷の思い出、それが夢であったことを再確認したうえで、足を床につけた。
ひやっとする床板が、珍しく眠気が色濃く頭に残っていることを認識させる。
(顔を洗って……茶でも淹れるか)
殆ど足音を立てずに、ウスライは寝台を立って隣室への扉を開いた。
しん、とした部屋に、たった一つ耳に届く音があった。
ソファーの上に丸まった、毛布の塊から漏れ聞こえてくる規則正しい寝息。
(生きているな)
顔を伏せているせいで具合はよく分からないが、とりあえず死んではいないらしい。
朝目覚めたら苦労して保護した対象が死んでいた、では笑い話にもならない。
興味にも満たない安堵が、まだ寝起きの頭をじわりと満たす。
一度最低限の所で安堵すると、他の所が気になる。
(寝相が酷い……)
安物のソファーに寝るのに、寝相の美しさを求めるのもどうかと思ったが。
頭から毛布を被り、手足がぼとぼとはみ出ている姿は逆に何処か傷めそうで、
ウスライは何気なくハダレの脚を掴んで、ソファーの上に戻そうとした。
――そして、驚きにそれを取り落としそうになる。
灼けそうなほど、熱い。
念を押すように、毛布を跳ね除けてハダレの伏せられた顔や首筋も触れてみる。
やはり変わらず、昨日目覚めた時よりも熱い気がする。息は、触れただけで溶けそうなほどの熱を含んでいた。
(何故、今日になって……)
疑問に思うが、どうしようもない。
自分の支度は後回しにして、ウスライは袋詰めの氷をいくつも用意した。
激しく発汗している首筋を拭うと、そこに氷嚢を宛がってやる。が、一向に目覚める気配が無い。
目覚めなければ、水分も栄養も取れないから回復は遅れる一方だ。
ウスライはハダレの頭側にしゃがみ込み、唇や発汗の具合を看ている。
(昨日暴れさせたのがいけなかったな……水すらろくに飲んでいないこの状況では、
脱水症状がもう出始めてもおかしくはないのか……)
ハダレの表情をよく見てみれば、昨日の状態に比べて格段に具合が悪いのが見て取れる。
乾いた唇が呼吸で更に乾燥し、拭っても拭ってもじわじわと汗がにじみ出てくる。
時々反射のように呻くのは、眠りが浅いからなのかそれとも傷が疼くのか。
ふと、ハダレの額に汗で張り付いた前髪が目に付いた。
いかにも鬱陶しそうなそれを、何の気もなしにかき上げてやる。
彼が『異』であることは嫌悪の対象だったが、それでも世話焼きの性分が勝ったのか手が勝手に動いていた。
自然、頭を撫でるような形になったその瞬間、今までの沈黙を、小さな声が破った。
「……兄ちゃん……」
心臓の跳ね上がる音が聞こえたような気すらした。
一瞬、誰が言葉を発したのか、その単語の意味は何なのかということすら分からなくなるほど、
ウスライの脳裏は真っ白になった。
だが、仕草には全く動揺は現れず、ただ静かに手を止めただけだった。
ゆっくりと頭から手を離すと、何事も無かったかのようにハダレは眠り続けた。
うなされもせず、かといって安らかな寝顔でもなく、
時折呻き声をあげて心配させるがそれ以外はまるで死んでいるようだった。
昨日のはっきりした様子と暴れっぷりから悪化したとは思えない、初日の時のような様子。
そんな青年を相手に、ウスライのやるべきことは少なかった。
主要な部位の汗を拭いてやり、溶けた氷嚢を詰め替え、一応粥を煮てやったが、到底食べられる様子だとは思えない。
自分の用事まで済ませてしまうと、外出できない分本当にやることが無かった。
仕方が無いので、ウスライはハダレの向かいに陣取って静かに時を過ごしている。
もう何度も読み返した本を意識を半分何処かへやったまま捲っていると、
ハダレがまた何か寝言――いや、うわ言だろうか?何かをぶつぶつと呟いたりして、こちらの注意を引く。
そのたびに思考が先ほどの一言に戻っていってしまうのは仕方の無いことであるとも言える。
ウスライは今回、組織という相手の手の内に入ることでハダレの情報を得た。
だが所詮一時雇いの代理戦争の選手であったから、戦歴や身体的特徴といったハダレの「現在」しか知らない。
しかし。
(いや、……本来「過去」は気にしなくて構わないものの筈だ……)
『異』の過去など、特にこれから護って行くのに役立つことでもない限り、今まで質した事もない。
彼らが『異』に狂い、悩まされてうわ言や独り言を呟き続ける事も全く珍しくなどない。
気にした所で大した意味などないのだ。
「『兄』か」
それなのにあの単語にこうも心乱されるとは、自分は修行が足りないのだと思う。
自分にとってその単語は何より忌むべきものだ。
だがハダレの額に触れたとき、その声には自分の抱く『兄』という単語が含む意味など全く感じられなかった。
むしろ懐かしむような、穏やかな響きだった。
それがどうして自分に向けられたのかは分からないが、その単語が一瞬でも自分を指したことが腹立たしかった。
そして同時に、自分がハダレの指す人物でないことが、どこか複雑な気もした。