その時、少年を支えたのは下の「兄」だった。
下の兄は、少年より4つか5つ上で、面差しはより少年と似ていた。
余り頻繁に会うことは許されていなかったが、それでも狂宴や儀式のあとには
まるで緩衝材にするかのようにあせてもらえた。
「お前を外に連れて行ってやりたいなぁ」
おそらく、少年が病弱だとか嘘の理由を大人が教え込んだ為か――兄はよくそんなことを言っていた。
最初少年は外というものの意味がわからず困惑したが、
「お前の体調だって、きっと空とか見れれば――ああ、空って言うのは……」
一つ一つ嫌味ではなく、丁寧に、大人には秘密で教えてくれる兄に、やがて共感するようになっていた。
いつか、自分の足で『外』を見たいという欲望が、少年に微かに生まれ始めていた。
一方で、兄は親のようにも振舞っていた。
少年が不安定になっていると、そっと頭を撫でて慰めてくれた。
その原因となる狂宴や儀式の存在を果たして兄が知っていたのかは不明だが、
少年にとって最後の正常な世界が兄だった。
兄に抱かれて、頭を撫でられていると、辛く苦しいものが涙になって出て行くような心地がした。
散々泣き虫だのと言われたが、結局は泣かせてくれる、その兄の優しさが少年の精神を支えていた。
「大きな兄ちゃんはいや。痛いことをたくさんするから」
そういうと、そうか、と兄は呟きながら一度頭に触れてくれる。
「姉ちゃんもいやだ。痛くないけど、こわいことをされた」
そう泣きつくと、兄は頷きながら抱きしめてくれる。
「ほかの人もよくわからない。お父さんとお母さんも、あんまり会ってくれない」
そう不安を打ち明けると、兄は頭を撫でてくれる。
決して不安そのものには触れてこない。
きっと、何も詮索してはいけないことになっていたのではないだろうか。今ではそう考えている。
「でも、ちっちゃい兄ちゃんは一緒にいてくれる」
それでも、たったひとつ明確に答えてくれたことがあった。
「兄ちゃん、大好き」
「……僕も。大好きだよ、ハダレ」
それが、少年が故郷の家族から得たたったひとつの確証だった。
いかにその後過酷な日々を過ごし、すさみきった最下層街で身を切り売りしても、忘れることはなかった。
だから夢うつつに頭を撫でられて、思わず兄と呼んでしまったとしても、何の不思議も無かった。
ハダレが重い瞼を開けると、そこはやはりソファーの上で、自分は毛布に包まって寝ていた。
時刻は夜のようだった。小さなオレンジ色の電灯が机の上にあるだけで、殆どの空間は暗闇だ。
頭を動かすと、大粒の氷の入った氷嚢ががぼりと音を立てた。
取り替えたての氷嚢と拭かれたばかりの身体が心地よかったが、また迷惑を掛けたことが心苦しかった。
「ウスライ……」
粘つく舌先で、その名前を転がした。
何故だか分からないが、そうするたびに胸を小さく突き上げるような感覚がした。
「起きたのか」
「うぉっ!?」
と、いきなり頭にぽん、と手が置かれ、ハダレは驚いてのけぞった。
振り仰ぐと、そこに問題の人物がいた。黒髪黒目の男、ウスライが。
「昨日からお前はまた高熱を出してくれてな」
「まじで……」
どうも記憶が曖昧で訝しげに答えると、ウスライは肩をすくめた。
「体調はどうだ。今は薬が効いてかなり気分はいいはずだが」
「……うん、今は楽」
かなり久しぶりのような心地で、ハダレは水を飲んだ。
思えば昨日は一切水分を採っておらず、おとといも、その前の3日分の渇きを満たすほどの水は飲んでいない。
いいペースで喉を鳴らすハダレを見つめながら、ウスライは目を細めていた。
「何か食べられるなら食べたほうがいい。果物は食えるか?」
「ん……ちょっとならいけそう」
ハダレがコップにおかわりの水を注ぐ少しの間にそれだけ聞くと、ウスライは台所へ向かった。
とんとんと何度か包丁の入る音がして、水を飲むハダレの鼻にも甘酸っぱい芳香が届く。
水を飲み飽きたハダレの元に林檎が届いたのは、それから一分もしないうちだった。
流石にうさぎさんなどではなかったが、いかにも上手く剥かれた瑞々しい林檎に、
「……妙にこう、上手なのは何?あんた、料理する人なの?」
ハダレが問いかけると、ウスライはしれっと
「俺の家系は東方の武家だ。刃物の扱いだけは生来慣れてる」
「どういう剥き方したのか見てみたいねその理由。
アレか、りんごを投げて宙で斬るような技でもあんの?」
冗談なのか何なのか判別しかねる言葉に眉をひそめながらも、ハダレは林檎を口に運んだ。
しゃく、っと思いのほか新鮮な音がして、ハダレは目を見張った。
「んまい」
別に目の前の男が栽培したわけでもないが、自然と言葉が出てきた。
最下層街では、生鮮食品が他に比べて割高になる。
中央がそういったものを独占する傾向にあるのと、単純に輸送が困難なためだ。
ちなみに、もっとも高くなりがちなのは卵で、ついで貝と青魚が(足が早く量がないので)高価になる。
そんななか、わざわざ缶詰ではない果物を用意してくれていた男の親切さというか、
一種異様なくらいの丁寧さがじわりとハダレの弱った精神に染み入った。
爽やかな果汁が、じわりと五臓に染み渡るように。
「……ありがと」
今なら不自然ではないと見て取って、ハダレはぼそっと言った。
返答はなく、あとはハダレが林檎を咀嚼するしゃりしゃりという音と、果汁のいい匂いだけが室内に満ちた。