代理戦争/最下層街編/転・崩壊/1


翌日から、歩き回りこそしないもののハダレはしっかりと起きていた。
すると、少しずつ食欲が戻り顔色が回復するうちに、今までなかった「暇」が生まれてきた。
戦前に発達していた薄型テレビだの、ケータイだのパソコンだのといった情報機器は
いまや中央の金持ちどもが購入するくらいで、この街にそんなものは皆無だ。
残された道はウスライと話す位なのだが、元々彼は無口なので話が続かない。
ハダレは先が思いやられる、というようにため息をついた――

……が、暫くもしないうちに、ハダレは自分が上手に暇を潰している事に気が付いた。
何か有意義なことをしているわけでもないのに、妙な満足感とともに一日が終わる。
(……なーんも、してないんだけど……)
不思議に思いながら、また無意味にソファーの上で寝返りを打つ。
時刻は真夜中だ。時計が時を刻むこちこちという音だけが聞こえる。ウスライは隣の部屋にいる。
その向こう側を見たことの無い扉を無言で見つめながら、ハダレは突拍子もない事を思った。
自制に満ちた完璧そうな男、ウスライだって人間だ。食事もすれば眠りもするし、
(…………抜いたりするよな?)
切ない自分の下半身を意識しながら、ハダレは考えた。
相変わらず自分の指先は包帯で巻かれ、トイレに立つのも辛い。帰れなくなる可能性大だ。
かといって、この場で毛布に擦り付けて出すわけにもいかない。
だがこのまま放って置けば、今日明日にでも夢精してしまうかもしれない。情けない。それだけは絶対に避けたい。
うとうとしても、火照った体が邪魔してなかなか熟睡できない。
中途半端に保たれる体の奥の火種が、ハダレを責めさいなんでいた――まさに、その時だった。
閉じられていた扉が開く音がした。
「眠れないのか」
ハダレが起きていることに気が付いて、ウスライが声を掛ける。
トイレにでも行くつもりだったのだろうか、その足を止めてソファーのほうに歩み寄る。
「また熱か?」
「……違う」
纏わり付く熱が、構われると更に熱くなる気がしてハダレはそっぽを向いた。
鳩尾の、ちょうど彼に殴られた辺りがつんと痛い。
不自然なほどに鋭敏に、自分以外の存在を感じて、抑えていた「欲」が溢れ出そうだ。
――来ないでくれ。そこにいて、『円』に踏み込まないでくれ。おかしくなってしまいそうだ。

だが、ウスライは気がつかない様子でハダレのむき出しの首を撫でた。
「ぅっ!」
大げさなほどに驚き、跳ね上がるハダレの身体。が、ウスライは頓着せずに、今度は額にも掌を当てて言った。
「微熱だな。薬を使うほどじゃない。大人しく寝ているしかない」
そして掌を滑らせて、ハダレの頭をぽんぽんと撫でた。
結局ウスライは、新しい氷嚢を置いていっただけでまた扉の向こうへ帰っていった。
結局なにをしにきたんだと不可解に思ったが、
ハダレが起きている気配がしたので純粋に心配してくれたのかもしれないと、思いついた。
また好意に反抗してしまったことが悔やまれた。本当は頭を撫でられることさえ嬉しかったのに。
無言で、いつものように左眼だけで扉を見つめながら、ハダレは酷くなる「欲」に一人で朝まで耐えた。

ウスライはここ数日奇妙な視線を感じていた。
まだ身体が完全には癒えずソファーで寝起きしているハダレが、とにかくじーっとこちらを見ているのだ。
「何か面白いか?」
ついにウスライが尋ねると、ハダレはきょとんとして、
「……何が?」
「いや……俺の方を見るのが。そんなに面白いのか?」
「…………そんなにオレ、見てるつもり無かったんだけど」
不思議そうに呟くハダレ。
「なんか気に障った?」
「気になっただけだ。別に構わない」
ふーん、と頭を掻くハダレは、言うそばからこちらの手元をじぃっと眺めている。
青年の指の先は、先日の戦いの際に爪が丸ごと剥げていた。そこに絆創膏を貼り直す仕草を、熱心に見ていた。
傷が特に膿む事もなかったが、指先はよく使うのでまだ塞いでおいたほうが安心だった。
一本一本の指を摘んで、消毒薬を掛けてから軟膏を塗る。それを絆創膏を貼り付け、最後に包帯で巻く。
そんな作業を繰り返し、終わらせてウスライはハダレを見上げた。
ハダレはちょっとびっくりしたように目を見開いたが、
「……ありがと」
呟いたとは言えない声の大きさで言った。
ウスライはほんの少しだけ目を細めた。無言で、しかししかと聞いたとばかりに頷いた。
机の上の薬瓶や包帯を一手に持つと、ウスライは片付けに立ち上がった。
その拍子に、包帯と綿棒の箱がぽろりと落ちる。うっかりと取り落としたらしい。
反応して空中でつかもうとするが、不運なことにテーブルの角に当たってあさっての方へ飛んだ箱は、
見事にウスライの手を避けて、蓋をぱっくりと開けながら落ちていく。
茶色い床に白い綿棒がばら撒かれるのを想像して、ウスライは早くも嘆息した――

が、横合いから伸びた手がその箱をぱっとキャッチした。ついでに包帯まで捕まえて、はい、と差し出す。
何となく面食らったような気分で、
「有難う」
言って受け取ると、ハダレは無言でじっと見詰めてきた。
不自然なほどのその挙動をやはり不可解に思いながらも、とりあえずそれらを片付けようと背を向けた。
その時、ハダレが声を上げた。
「なぁ…何で、ンな優しくしてくれんの?」
ウスライの足が止まった。

「……オレをさ、渡したくないだけならさ、もっと適当にあつかうと思うんだわ。
 でも何か……今も包帯すげぇ綺麗に巻いてもらったりとかしてさ、正直申し訳なくてさ。それに」
こちらに背を向けたままのウスライに、頬を掻きながら続けて言う。
「お前『異』のこと、キライなのに何でそうしてくれんの?」

「……何時、何を視てそう思った?」
ウスライがゆっくりと振り向きながら、静かに言った。
明確に怒っているとか、呆れているとか、動揺している雰囲気は無かった。
それがむしろ恐ろしいくらいだった。
ハダレはじっとウスライの瞳を見返しながら言った。
「最初の廃ビルのとこで、オレを連れて行く理由言ってたとき、視えた。触ったら熔けそうな、強くて嫌な気持ち。
 それなのに目が覚めたらすげぇ優しくしてくれて、……ちょっと困った」
ウスライは何か言おうとするように――薄っすらと唇を開き、また閉じた。
「オレは……」
ハダレも、何事かを言いかけて唇を閉じた。
じっと、沈黙が続いた。

「あー、ごめん。変なこと訊いた。さっきの、忘れて。無かった無かった」
答える気配の無いウスライに、ハダレが冗談めかして質問を取り消した。
「ここに来てから――いや、その前からか。
 こんな良くしてもらったことなんか無かったんで、つまんない事考えちゃった。忘れて忘れて」
にっと笑って、ハダレが手を振った。
ウスライは何も答えずに、片付けに戻った。
ハダレはその背中を見ながら、唐突に悟ったような心地でいた。
きっと自分は、「『異』だから」という以外に優しくしてもらう理由をウスライに言ってほしかったのだ。
頭を不恰好な指で掻きながら、そしてもう一つ思い至る。
(オレの暇つぶしって……ずーっと、あいつのこと眺めてたのか)
そういえば、ここ数日の記憶といえばそんなものしかない気がする。
朝、目覚めたてだろうにもうすっきりした顔。面倒な手当を手抜きせずにやってくれる、真剣な瞳。
本を読んでいるときの無心な様子。存外普通に、でも綺麗に林檎を目の前で剥いてくれたときの、器用な指先。
そして今向けている背中。
また、鳩尾の辺りが、つんと疼いた。



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