翌日、ウスライは一時間ほどこの場所を空けると言った。
「お前の身体がもう少し回復し次第移動する。
その先を手配し、情報集めを依頼した人物と会う必要がある。
今ここは安全とはいえ空けたくないが……」
ウスライは軽く息をついた。
「分かったよ。オレだって女子供じゃない」
ソファーの上に起き上がって、ハダレは言う。
「大人しくしてるし、万が一何かあってもやりすごすくらいできる」
「―――頼む」
黒髪、黒目、黒尽くめの男はそういって立ち上がると、例の袋詰めの棒を手にもう片手でぽん、とハダレを撫でた。
昨日の気まずさから、予想だにしなかった行動にハダレが小さく驚く。
その様子を目を細めて見ながら、ウスライはここ数日開かれていなかった扉に手をかけた。
「すぐ戻る」
「ん。…行ってらっしゃい」
ひらひらと手を振って見送る。
ぱたんと閉じる扉。それを見つめていると、ことさら、みぞおちの辺りが疼く感じがした。
一人きりになってからいくらも経たないうちに、ハダレはソファーの上で身悶えていた。
人一倍大きな抑えていた欲望が、一人きりになると途端に宿主自身に牙を剥く。
媚薬でも流し込まれたように全身の血が熱くなって、痛いほどに自身が勃起している。
「…ハ……はぁ…ッ……」
下着に擦れるだけで腰が痺れそうな刺激が襲う。
気が付くと、ハダレは自身を下着越しにソファーに押し付けて快感を得ていた。
片足を落として、ソファーのマットの角と自分の身体で性器を扱き上げる。
安物のソファーは、この時ばかりは荒く硬い材質が手伝って、最高の性具になっていた。
布を隔てている所為でややソフトになったソファーのクッションが、ざりざりという
耳障りな音を立てて張り詰めた裏筋を擦りたてる。
「……ッ、……っ、……ッ」
幾ら溜まっていると言っても、所詮これは自慰だからそんなに派手に喘ぐことは無い。
代わりといっては何だが、喉や噛み締めた歯や唇で塞がれてくぐもった吐息が鼻から抜けた。
眼帯が覆っていない左眼はうっとりと半開きになり、丁寧に巻かれた包帯で幾らか太くなった指が
耐えられないものを耐えるようにぎゅうっと毛布を握った。
とっくに先走りが下着を汚していた。或いは、ハーフパンツも裏の生地くらいは濡れていたかもしれない。
粘っこい液体が、涙のように後から後から流れては、滑りを良くしていた。
狂ったように腰をクッションに押し付けて蠢かせると、その分だけおかしくなりそうな快感が得られた。
それに縋り、いつもの手でする自慰のようにはいかない不自由さに喘ぐ。
乱れた前髪と、顔をうずめた毛布の所為でハダレの表情はどのようにしても見えない。
だが、絶頂が見え始めると、ただの喘ぎ声に嗚咽が混じり始めた。
高ぶれば高ぶるほど頭の芯が冷えるようで、快感で性欲が満たされるほどに切なさは増した。
その切なさの正体は分からなかったが、結局は『異』のいいなりに成り下がる自分が酷く情けなかった。
何度となく次こそ自分を律してみせる、『異』などに支配されないと誓ったはずなのに、
いざ欲を抱けば何度でも同じようなことを繰り返してばかりいる。
つい先日の代理戦争でもそうだった。
筋肉で構成されたような男――たしかモウジとか言った――を散々もてあそんだ後、
精神的嫌悪感の余り嘔吐しながら誓ったのだ。もう『異』等に振り回されるものかと。
だが数日の後、廃ビルで襲われた際にはなんのかんのといいながら自分で眼帯を外した。
そして今も欲に簡単に飲み込まれて、無機物相手に腰を振って――……
「ぁ、うッ!」
毛羽立った布の継ぎ目を通過した瞬間、ハダレは下着の中に迸らせていた。
久しぶりの射精に、とろりとした濃いものが絡みつく感触がした。
そうなってから初めて無計画に自慰を始めたことを後悔したが、いまさらどうこう言っても仕方ない。
自慰とは思えない、荒く熱い息を整えながら、ハダレはゆっくりと身を起こした。
手の甲で顔を拭うと、のろのろとした足取りで浴室へ向かう。
この歳になって、精液でぬるぬるになった下着を手洗いする日がこようとは。
自嘲というよりは落ち込みながら、ハダレは手にビニール袋を装着して、水を流し始める。
ぐちゃぐちゃと不器用に汚れを落とし、ぎゅっと絞る。
タイルの上にたまった水と、雫が僅かに波紋を描く。ぴちゃぴちゃと高い音を立てる。
何度かそれを繰り返し、最後に床をシャワーで洗う。
その、ザーっという雨のような音の切れ間に、玄関のドアが開く音がハダレの耳に届いた。
(うわ、帰ってきちゃった!?)
思わずびくっと反応してから、慌ててシャワーを止めた。
手足を軽く拭いて、浴室の扉を開ける――
その耳に、強烈な破壊音が響いた。
誤認した音は、単にノブをがちゃつかせた音だけだったらしい。
今、扉は実際開いていた――扉がなくなったので、開いていた。
へしおれたとしか表現できない様で壊れた扉が、ゆっくりと倒れる。どん、と腹に響く衝撃が埃を持ち上げる。
ゆっくりと舞い落ちる埃の影に、何人もの武器を持った男たちをハダレは見た。
ウスライは全速力で駆け戻っていた。
待ち合わせた場所――怪しげな商店の集う一角の狭い部屋だ――に言ってみれば何のことは無い、
彼はとうに殺されていた。
強烈なアンモニア臭と腐敗臭が鼻をつく中、ウスライはその場に潜んでいた4人組の男に襲われた。
狭い空間に有利なように格闘用ナイフで武装した男たちを相手にしながら、
いまさらながらウスライは悟った。彼ら、組織のお膝元で留まりすぎたのだと。
男たちの息の根を躊躇わず止める。命乞いする彼らに、彼らの武器で止めを刺す。
自分が助かりたいのならば、誰かを犠牲にするしかない。
それは代理戦争の基本であり、この街――もしかしたら世界――のルールだった。
再び静まり返った部屋から、ウスライは全力で走り出した。
考えうる最悪のパターンは二つあった。そのどちらでもないように願うように、ウスライは奥歯を噛んだ。
部屋の扉がなくなっている事が、遠目からでも知れた。はっきりと、襲われた痕跡があった。
表情は変えずに、だがその動作の機敏さで事の深刻さを物語りながら、ウスライは静かな部屋を覗いた。
部屋は乱れていた。テーブルの脚が砕けて傾ぎ、ハダレの寝ていたソファーは真ん中が大きく裂けて、
中に詰まっていた黄色っぽいスポンジがこぼれだしている。
床には泥の靴跡が幾つもつき、窓ガラスが割れて外気が吹き抜けていた。
そして、それらの全てを塗りつぶすように人間のかけらが飛び散っていた。
天井から滴る赤い雨を避けながら、ゆっくりとウスライは踏み込んだ。そしてほどなく、見つける。
血溜りの中に呆然と座り込んだハダレを。
力なく開いた股の周囲には、独特な匂いと質感の白い液体がこびりついていた。
最悪のパターンのうちの一つ、ハダレが連れ去られるという方は消えた。
だがそれと同じくらい酷いルートをたどっている可能性がある。
ウスライはいつになく性急な様子で、ハダレの肩を乱暴に揺さぶった。
「ハダレ。…ハダレ!何があった」
「………………ウスライ」
ハダレは正面から覗き込むウスライと視線をあわせようとはしなかった。
「……また……やっちまった……」
顔を伏せたまま、泣く直前のような震える声で支離滅裂なことを呟く。
「お前がしてくれた事…………ッ全部…ダメに……こんな……」
激しく頭を振り、ウスライを拒絶しようとするハダレを、むしろ激しく詰問するようにウスライは肩を揺さぶった。
「何をされた」
「…………」
言いよどむハダレをさらに強くつかみなおしながら、ウスライは尋ねる。
「……犯されたのか?」
ぽつ、と血溜りに一滴また雫が滴った。
ハダレが何かをこらえるように首を横に振った。
唇を噛み切ったその筋が顎で途切れて、雫になって滴り落ちて行く。
「オレが。犯った」
僅かに目を見開くウスライに、叩きつけるようにハダレは叫んだ。
ひたと見据えた両の眼が、苛烈な懺悔に揺れていた。
「オレが!襲ってきたこいつら4人を!犯して、殺した!」
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