「ここ。……ここなら、休める」
あの後移動するうちに、ハダレの足取りがおかしくなってきた。
激しい体力と気力の消耗のせいか、日が落ちてからここ一時間は半ば担がれるように移動している。
その彼が蚊の鳴くような声で指定したのは、とある元・オフィスビルだった。
屋上に、周囲より一階分ほど高い給水タンクと物置小屋のような建物があった。
どうやら、そこがハダレが選んだ場所らしい。
「下の階の方が居心地がいいから、住人はめったにこない。
それに一応ここ組織領から抜けてるし、定住してる人が多いから侵入もしづらい。
カワトのじっちゃん――あー、このビルに一番詳しい人なんだけど、言えば電気もガスも通してもらえるし。
多分使わないだろうけどね」
「俺がお前を誘拐したか何かと思われてないといいが」
「オレと顔見知りの住人、多いから。分かってもらえる」
そう言われて、ウスライは先ほど擦れ違った老人を思い出す。
襤褸切れに似た服を纏い、ビニール袋に「夕食だよ」と、
野菜の切れ端(どこかで恵んでもらったのだろう)をいっぱいに入れてはにかんでいた彼。
また別に、ひょろりとした顔色の悪い男もいた。
彼は重い持病があるらしく、身体をひきずって歩いていたがハダレを見るとよたよたと走りよってきて、
僅かばかりの飴を渡した。先日、動けないところを助けてもらった礼だという。
そして振返って、ハダレを見る。
先ほどまで、酷く憎らしく、残酷で、傲慢で強い笑みをたたえていた戦闘狂は、
いまや病人と見まごうような顔色でとぼとぼと歩いている。
夜に飲み込まれてしまいそうなほど頼りなげだ。
だが、それもきっと彼の一部に過ぎないのだろう。
ウスライは、ほんの短い同居の間に「ハダレという『異』」について、
彼がさまざまな表情を見せるたびにそう思い始めた。
ハダレは興奮型の『異』だ。その特徴は、自身が求めるものへ激しい執着と興奮を伴うこと。
ハダレが求めていることは、端的にいえば自身が生存し続けること。
つまり、青年は生存のためなら屍山血河を築くこともいとわない。
――たとえ、彼の理性がどれだけそれを後悔しようとも、生きることを心のどこかで望む限り。
だが、彼は生存を放棄していない。むしろ、理性が働くかぎり積極的に人生を楽しもうとしている。
代理戦争の戦場にたつ前にウスライに渡された、ハダレの素行調査も含む資料には、
彼の交友関係が記されていた。
『家族とは絶縁状態。恋人・配偶者なし。
ただし友人やなじみの店は相当数あり、愛嬌とそれなりの気前のよさで好印象・高評価を得ている。
飲食店から酒屋、代理戦争関連はもちろん、医者、衣料品店、時には売春宿や非合法の薬売りまで顔見知りがいる。
一方で年齢の割りに酒やタバコ、薬、性的な遊びといった刺激物に深い興味はないらしく、
もっぱら人との交流や最下層街の探索を趣味としている。
特にセックスフレンドの不在、風俗・関連店への訪問回数の少なさは他の選手と比較して目立つ』
最下層街の王者の健全すぎる素行に、ウスライのほうが疑いをもったほどだ。
だが同居するうちに、それが彼の素なのだと思い知らされた。
自立はしている。それなりのプライドと自信はある。頭も良い。
ただ、甘えたがっているというか、どこか子供っぽい扱いをされることを拒絶しきっていない。
そしてそぶりだけでなく、生き延びたがっていた。かといって、『異』に依存することも良しとしなかった。
教養も情もない、よくいる無法者気取りの――更に『異』にたのんだ最低の――若者だと思っていたが、
思ったよりも素直な青年に、不意に今までの偏見が消え去ったことを覚えている。
――そうして数日もしないうちに、彼のいやらしい面も知ってしまったわけだが。
しかし、思えば自分は出会ったときは彼に対して斜に構えていた気がする。
そもそも生まれも育ちもここよりずっと良かったから、街自体に睥睨があったのではないかと思う。
それが恥じるべき態度なのか、そのままでいいのかはよく分からない。
実際、この最下層の街はどこへ行っても不潔で無秩序で粗野で、どうしようもない場所だ。
が、そこにはもはや根付いた新しい人々がいる。それはここにいなければ理解できるものではない。
「……入るぞ」
何か、扉を開けるのが新しい行為だとでも言うように、ウスライは小声をあげた。
物置のつもりでつくったのだろう小部屋には、何も無かった。
ただ天井が少し崩れて、空が覗いていた。
ウスライは埃やコンクリートの破片――おそらく、天井の――の少ないところを選ぶと無造作に腰を下ろした。
一方のハダレは、そこに居づらいとでも言うように離れた所に鞄をおろす。
と、それを見て取ったウスライが声を上げた。
「そこから、手が届くか」
何のことかとハダレが振返ると、腰を下ろしたままのウスライが手を伸ばしていた。
無言で手を伸ばす。手と手の間は何メートルも離れていて、明らかに届かない。
「これが俺の一番短いリーチだ。襲われたら護れない。もっと近くへ来い」
淡々と言われ、ハダレはもじもじと手を下ろした。散々戸惑ってから、ハダレは鞄を拾い上げた。
荷物をはさんで隣に、青年は腰を下ろす。
体育座りのように膝を抱えたまま、がしがしと唇を噛んでいる。何かを言いよどんでいるのは明かだった。
だがウスライは促すことはせず、天井から空を見つめた。
昼間の急襲から何時間も移動し続け、組織の縄張りをほんのすこし出た所で落ち着いたので、
空の色はもう暗い寒色で淀んでいた。
風も遠慮なく入ってきて、殆ど野宿のような状態だが、下手に室内に篭って包囲されるのも困る。
幸いだったのは、季節のせいか、暑すぎも寒すぎもしない温度だった。
これから夜半にかけて気温も下がるだろうが、上着を羽織っていればなんと言うことも無い気温の変化だ。
だが。
「……ごめん」
ひゅう、と天井の穴を風が通り抜けるのとほぼ同時にハダレが呟いた。
その背が小さく丸まっている。
「オレが油断してたせいで……だめにしちゃった……本当ごめん」
まるで何か抗いがたいものに付け狙われているかのように、怯えを声音に染み出させて、
ハダレが謝罪の言葉を繰り返す。
「もういい」
その隣で、ウスライが厳然と、しかし謝罪を拒絶するような真似はせずに言った。
「お前だけの所為ではない。俺がお前を一人にしたのは、俺の判断だ。
もしもあの時点でばれている事を俺が予想できていればこんな結末にはならなかった」
「それに、あんたに嫌な事……かなり言ったよ。『異』使わないって言ったのに」
「……もういいと言った」
「でもオレ……」
「それに」
言い縋るハダレに、ウスライは無理矢理言葉を続けて遮った。
「己の過失を忘れ……目の前の状況に気を取られて、護ると言ったお前に手を上げた」
はっと、思い出したように身を竦める青年の、少し腫れた右頬にウスライの指が触れる。
「お前が視た通り――俺には『異』に睥睨がある。俺とお前がしたことは同じだが、
あの時の切迫した状況で、自分が抑えられなかった。許せ」
眼に見えて変形するほどではないが、触れれば熱を持っていることがすぐにわかる腫れを、
ひやっとする指が触れて撫でている。
手つきは正に、腫れ物に触るように丁寧だった。
だが、ハダレはますます怯えたような視線をウスライに向けた。
まるで、許されることが末恐ろしい、というように。
「……もういい」
ウスライはそれだけ言うと指を引いた。
ハダレが何に怯えているかは明白だった――今まで護って来た全ての興奮型の『異』達が、
大なり小なり同様に恐れていたからだ。
『異』そのものではなく、その血系が副作用のようにもたらす自失の瞬間を。
『異』の起源は2つの説がある。一つは、人間が進化して獲得した新たな知覚であるという説。
もう一方は、逆に旧人類が持ち合わせていた知覚を未だに持ち合わせているのだという説。
戦争の際大いに『異』は利用された――千里眼で敵地を見渡し、捕虜から悟りの力で情報を引き出す、といった具合に。
そのために研究は大いに進み、現在は後者が有利になっている。
その根拠は、『異』の保持者がちょっとした欲望を感じただけで至る自失状態だった。
普段はどんなに冷静で上品な者でも、――特定の欲に傾くことが多いが――特に基本的欲求には全く抗えない。
あるものは眠たくなると何日でも眠り続ける。あるものは水を狂ったように飲み続ける。
あるものは交わった異性が壊れるほど性行為を繰り返し、あるものは生存のために何百人でも殺して見せる。
そして瞬間が終わると、誰もが自分を制御できないことに酷く怯える。
自分の犯した、余りに動物的な醜態を恥じる。
ハダレも、正にその状態だった。
眼を閉じればあの部屋の惨状が浮かんでくる。何か考えれば、恍惚とした殺意がよみがえる。
ただ膝を抱えて、生々しい感覚が過ぎ去るのを待つしかない。
涸れた様に涙が出せず、全身の疲労と痛みがじくじくと精神を膿ませる。死ぬことも思いつかない。
せめて兄に抱きしめられてわんわん泣いていた頃のようにできれば、もう少しましだっただろうに。
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