ハダレが完全に押し黙ってから、既に数十分は経っていた。
ウスライの存在など意に介さないように、ぼんやりとした視線を宙に向けて震えている。
回復しきったわけでもない身体を昨日から酷使し続けて、心身ともに疲れ果てているだろうに、
眠ることさえしない。
ウスライが見て来た者でも何度かあった。彼らは数日と経たない内に死を選んだ。
彼らの死の直前の様子と、ハダレが重なった。発狂して、ウスライの手を握って殺してくれと哀願する様子が。
そしてその首にあてがった刃を引いた瞬間を。
刃を引く動作が、ふいに先ほど突きつけた行為の続きのように連想された。
――そうするには惜しいと、思った。
彼が組織の手に渡るのは勿論、惨めにのたれ死なせることも、いわんや殺すことも。
なぜかは分からない――あれだけ不愉快で胸をえぐる言葉を吐きかけられた後で、
むしろ死んでしまえと思っても不思議はないのに。事実、その場では憎悪に近い思いを隠しもしなかった。
だが、今になって哀れみや同情のようなこそばゆい感覚が沸いてくるのはなぜだろう。
散々同類だ、同じだと言われたからだろうか。
――分からない。そうではないと思うが、言い切れる自信はなかった。
ウスライは隣に座り込むハダレの身体を片腕で引き寄せ、姿勢を崩させた。自分に身体をもたれさせる。
そこまでやって、初めて正気づいたようにこちらを見上げる青年がいた。
「……なんだよ」
「休め」
元のように体育すわりに戻ろうとする青年を押しとどめて、言う。
「十日も寝たきりだった人間が、半日走り回って疲れない筈が無い。
まだ傷も完治していないのに徹夜する気か?また明日明後日には移動するのに」
「……疲れてるし、体中痛いけど」
深くもたれた姿勢のままで、ハダレがぼそっと呟く。
「寝んのに……目ぇ瞑って待ってると、怖ぇんだよ……寝れないし」
「なら、横になっているだけでいい」
体育座りよりずっとましだと言い添えながら、ウスライは青年の頭に手を触れた。そのまま撫でる。
何度か触れて分かったことだが、明るいこの茶髪は地毛ではないらしい。
ぱさついた感触は脱色と染髪を繰り返したものらしく、その根元は暗い別の色だった。
青年は抵抗するかと思われたが、何分間かもぞもぞしていただけで、しまいにはすっかり大人しくなった。
それでも眠れないハダレに、ウスライはももの傷を擦ってやる。
何故自分がこんなサービスをしてまで、彼を狂わせたくないのかは不明瞭だった。
所詮自分は、『異』を組織から守り通したいだけであって、彼に執着は無い。――つもりだ。
しかし、ウスライにはそれが空疎な言い訳のようにしか思えなかった。
ふと、ごそごそとハダレが動いた。伏せていた顔を持ち上げ、
「あんたメチャクチャ優しいな。見かけによらず」
笑うほど浮かれた気分ではないが、それでも落ち着いたのだろう。少し照れくさそうに言った。
「……何か、ウチ思い出しちゃった。帰れねーけど」
「旅費が出せないのか?」
そんな訳なかろうと思いつつも、意地悪く聞く。ハダレは少しむくれたように、
「オレ一応、ここの代理戦争で負けたこと無かったから、メチャクチャ稼いでたっつの」
「悪かったな連勝記録を止めて」
真顔で謝る――本気かどうかはわからない――ウスライに、ハダレは言った。
「謝んなくていい。護ってくれたから。……でも、ケガ治ったらまた戦ってよ。絶対ぇ次負けないから」
「……何でそう執着する……」
怪我が治ったところにまた怪我をしたいのかと言いたげな様子に、
「だってオレが出来るのって、そーゆーことしかないから。そこに傷つくと、オレ価値無いじゃん」
「無理にこの街の治安レベルで生きていくことを考えなくてもいいだろうに」
「だから……帰れないんだってば」
ハダレは深くため息をついた。
ちらっと上目遣いに見上げると、ウスライがじっとハダレの方を見詰めていた。
強引に聞き出そうと身構えるのでもなく、かといって放って置くのでもない。
言いたいなら聞いてやるというような、そんな雰囲気と頭にぽんと乗せられた掌。それが、ハダレを後押しした。
「オレのガキがいる。だから帰れないの」
その発言に、ウスライが凍りついた。
「……多分、ヤリ逃げしたとか誤解してるよな。そのカオだと」
凍りついたままのウスライを見て、ハダレが酷い誤解だといわんばかりに言った。
「……前に俺の『異』は不完全って言ったじゃん。
オレには兄ちゃんとか姉ちゃんとかいっぱいいたんだけど、オレのよりずっと凄い力持ってたみたいで」
「端的に頼む。さっきからお前の対しての印象が悪化していて、もうすぐ殴ってしまいそうだ」
――どうやら、ウスライは相当貞操だの結婚だのに関して固い観念があるらしい。
ハダレは言葉を選ぶのを止めた。
「そんで、オレみたいなのは人買いが買ってくれなくて、一族の役に立たないから、
せめて血を残すのに協力させようとして、生まれたときから種馬扱いだったってわけ」
十秒きっかり位で説明して、もう一度振り仰ごうとすると、その後頭部に掌が当たった。
ゆっくりと髪を逆立てるように指が差し込まれる。その気持ちよさに、ハダレの口元が緩んだ。
「オレの住んでたとこって、米も野菜も水もあんまりないとこで、じゃあ何を売るかって言うと、
『異』を売って金もらってたんだよね。でもさ、そんなこと繰り返してたらそのうち『異』の血がなくなるよな」
ハダレはウスライの肩に擦り寄った。あったかい。人肌は、こんなに心地よかっただろうか。
心地よさが消えないうちに、不愉快なことを早口でしゃべる。
「そんで、そろそろ繁殖の臨界値て所でやっと気が付いて、超強引な方法取ったわけ。何だか分かる?」
ウスライは口にするのを躊躇うように一瞬間をおいて、言った。
「……近親相姦か?」
「そういうこと。オレは外には売り出せないから、ずーっと閉じ込められて育ったとたんに逆レイプ。
ちなみにオレの童貞持ってったのは上から2番目の姉ちゃんで、処女持ってったのは上の兄ちゃん」
「ちょっとまて。処女って何だ」
「ありていに言うとバックバージンってやつだよな。
つか、はじめに童貞奪われたんだけど本当姉ちゃんが怖くって、いまだに女っぽい女が嫌でさ。
痛かったのは処女だけど……やっぱり、ものごとは初めが肝心だよな」
「なぜそんな……」
「女性恐怖症みたいになって、立たなくなった。だから尻掘られて立たされた」
「兄が結婚すればよかったのでは」
「その時にはもう兄ちゃん売られて、ちょっと出世したからたまたま里帰りさせてもらってたんだよ」
ウスライは目の前が――夜闇でなしに――暗くなる思いだった。
「それで子供がいるのか」
「分かってるだけで3人……家出した時にはわからなかったのとか、いるかもしれないし。
もちろんガキが悪いんじゃないけどさ、……そんな成り行きで父親面するのも変だしさせられるのも嫌だ」
ふーっと、猫が唸るような声でため息をつく。途中で自己嫌悪をするのが嫌で、相当一気にしゃべったらしい。
「彼らはお前を都合よく教育しなかったのか?家出しようと思ったのは何故だ」
「あー……」
ハダレはなんともつかない声を上げた。何か、大層な梱包をしていたものを探すように。
暫く言葉を捜すように宙を眺めていたが、やがてちょっとはにかむように話し始めた。
「生まれてからずっと閉じ込められて、それが当たり前だと思ってたんだけど。
……そんなの普通じゃないって、下の兄ちゃんが教えてくれた」
ウスライの眉が、ぴくりと動いた。話に没頭していたハダレが気が付かないほどの程度で。
「外の事なんかそもそも知らないオレに、こっそり空とか、海とか町とか、部屋にないもの色々教えてくれてさ。
そんで、――いつか絶対自分の足でそういうの見にいこうって、オレに思わせてくれた」
ウスライの様子など露知らず、ハダレは憧れるように、噛み締めるように兄を語った。
「オレがもうメチャクチャに荒れた時もずっと一緒にいてくれてさ。
ちょうど今してもらってたみたいに、頭撫でてくれた」
「そうか」
だから、この青年はそうされることに酷く安心感を覚えるのだ。
途端に、ハダレに対してそうすることが酷く味気ないような気がして、ウスライは撫でるのを止めた。
だが、ハダレは一層ウスライに擦り寄った。
傍目に見れば、子供が甘えているのとは若干違った意味合いがある仕草で。
思い出に抱いている気持ちと、今ここにいる誰かに抱く気持ちはまるで別物だと示すように。
「いい加減、もう限界って時に、ついに兄ちゃんがどっかに売られちゃって。
もーそん時は衝動で動いたよね。ありったけの飯とか水とか服持って、何にも知らねーのに外に出て。
連れ戻されはしなかったけど、行き倒れて人買いに捕まって、あとは代理戦争へようこそーみたいな」
「幾つの時の話だ」
「んーと、家出たのが多分、13で……代理戦争始めたのが14になってすぐかな。今オレ18」
そこまで一気に聞いてから、ウスライが嘆息した。
「お前がそうしている間……俺はもっと呑気に生きていた」
「あんたが?呑気?」
嘘つくんじゃねぇよと顔にでかでかと書いたハダレが、唸る。
対するウスライは肩をすくめて言った。
「俺が東方の武家の家系だとは言ったな。特に俺の家系は長く続いていて、ただでさえ煩いところに、
更に古参の『異』の血系なものだから、異常なほどの規律で雁字搦めだった。
――だから、何も考えなくても、従ってさえいれば生きていけた」
静かに聴いていたハダレの左眼が揺れた。酷く驚き、そして期待するかのように。
「…………あんたも、『異』?」
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