この世に、こんなに目覚めたくない眠りがあっただろうか。
理由のひとつは、気まずいから。
理由のもうひとつは、一晩でも寄り添っていたかったから。
疼くような匂いを感じ、ハダレはぱちりと目を開けた。血臭だ。
ウスライは元々あまり眠っていなかったのか、例の刀を手に身構えている。
――眠る前のことがあったので声をかけづらかったが、つとめて普通にハダレは振舞った。
「血の匂いがする」
「やはりお前の方が敏感だな。俺には感じられない」
「じゃあ何で構えてんだよ。早いって」
「不自然な振動と雰囲気だな」
「あんたの方がよっぽど敏感じゃん」
端的で軽い会話が交わされる。結論も、会話と同じくらい短かった。
「『異』の刺客か」
緊張した雰囲気のせいで、昨日のことを思い返す隙がない。ハダレは感謝した。
騒ぎが起こるほどの時間を掛けずに、『異』を鮮血の匂いで興奮させる程の殺し方ができる人間など、
そういると思いたくない。
特にハダレは大人数の追っ手をいとも簡単に蹴散らしている。
今度来るなら『異』の単騎だろうと踏んだウスライの読みは当たっていたらしい。
「すぐにここを離れる。戦闘はできるだけしたくない……が、無理かもしれない」
気のせいか少し苦い表情に、ハダレも急いで重い腰を上げる。
ふと、心配になって聞いた。
「……『異』相手に勝てるのかあんた」
「お前が言うのか?」
俺に負けたくせにと暗に笑われているようで、ハダレはぶうっと少し口を尖らせた。
それを横目に、
「兄に負けるのが癪だったから、その点はしっかりやってきた」
囁くように、早口で語るウスライ。緊迫した状況にあってもその口調に落ち着きが消えることは無い。
「お前を護りきる。絶対に渡さない」
しっとりと濡れた黒い瞳がハダレを見つめた。
その瞳を見つめ返すのは普通の方の眼だけだったから、無論ウスライの思考は読めなかったが、
「……ん」
読めなくても伝わるものがあるかもしれないと、ハダレは思って頷いた。
頷いた瞬間、勝手にもう一度頭が揺れた。
「伏せろ!」
何事かと思う間も無く、強引に引き倒されて視界が真っ暗になる。
――途端に、工事現場でしか聞いた事のないような破砕音が脳を叩いた。
体中に殴られたよりもう少し尖った痛みを感じながら、それでも無理矢理身体を起こす。
そして視界がやたらと開けていることに驚いた。
「う、わ……壁壊しやがった!」
自分も似たようなことが出来るにも拘らず慄きながら、ハダレは完全に崩落した壁の残骸から這い出し、体勢を整えた。
その隣に影のようにウスライが立った。ちょっと砂っぽいのは否めないが。
「本物の『異』か。本当に期待を裏切らない奴らだ」
前方に完全に集中して、ウスライがぽつりと言う。
その時、正面から瓦礫を蹴散らす音がした。
弾かれた様に正面を向くと、それと視線が合う。
灯りの無い最下層の街の一部であるかのように、夜闇に溶け込む色の拘束衣の男が、
そこだけ異様に精気を持った瞳を爛々と輝かせて立っている。
顔の大部分は隠されていて、よく分からないが。
――後で気が付いたことだが、この時ハダレはその男が若者か老人か、
太っているのか痩せているのか、そもそも男なのか女なのか、
ぱっと見ればすぐに分かる特徴の何一つを読み取ることが出来なかった。
それほど、見詰め合った瞳には、一瞬で引き込まれる『何か』があった――
「ハダレ!」
呼ばれて気が付いたときには、拘束衣の不気味な男が目前にいた。
鋭く跳ね上がる鼓動とは逆に、幾多の経験値を積んだ手足は冷静に動いた。
不自然なほど大胆な踏み込みをけん制しながら、拳を掌で受け止める。
「ふっ……」
ぱーん、と高く小気味いい音とは裏腹に、ハダレの腕が痺れた。この男、青年より膂力が強い。
ハダレは痺れを振り払うように腕を振り、反対の腕に添え、肘を突き出す。
完全に懐に入った形だ。特に興奮状態の『異』は、攻勢に出たがってただでさえ踏み込み過ぎるきらいがある。
これで当たらないはずが無い。いや、当たる。当たった。
顎や腹のような致命的な場所ではないが、ぎしっと男の左の腕が軋む。
が、
「はハッ」
明らかに痛い音を立てたことなど露知らないように、男が笑う。
そしてそのまま、何事も無かったように左腕を伸ばし――今度は、ウスライの刀に左腕を打たれて流石に動きを止める。
やはり痛みを感じているような表情はなく、むしろきょとんとした様子でウスライを振返る。
「渡さない」
ウスライが短く宣言して、刀を引く。何故か男の腕には傷一つつかない。
どうやら、この拘束服じみた奇抜な衣装は防刃繊維らしい。迷惑なことだ。
だが一方で心底愉快そうな歪んだ眼が、やせ我慢などしていないことを克明に物語る。
男は打たれた左手でぐっと刀を掴むと、押し返すように突き出した。当然、握っているウスライは一歩引く。
その一方で、ウスライの陰になっていたハダレを見て、陰惨に笑った。
思わずぞっとして、ハダレの全身が緊張する。
「ハダレ!」
もう一度強く呼ばれて、はっとする。既に事態は変わっている。
二人に攻撃を阻まれた男は、間合いを不利と悟ったのか大きく飛び退いていた。
一瞬で何がどうなる距離でもないが、男は獲物を狙う獣のように隙を狙っている。
「……疲れているのか。お前が戦えないなら戦法も変える」
男とハダレの中間に立って、ウスライは言った。
その背を見ながら、ハダレは頭を振った。確かにまだ体調は良くないが、その所為ではない。
半ば正気でないように見える男が、暴走した時の自分とぴったりと重なる気がした。
自分の最も汚く、誰からも隠しておきたい部分を悪趣味に真似されているようで、不愉快でたまらない。
自分もあんなふうに殺し、痛みを半ば忘れ、涎を垂らさんばかりに笑うと思うと、
「ハダレ?」
男から目をそらさず、ウスライが声音だけでハダレを振返る。返答は無かった。
その瞬間を隙と見て取ったのか、男が仕掛けてきた。
刃物を前に臆することなく、存分に長い手足で攻撃してくる。ウスライも男の狂喜に怯えることなく応戦する。
ハダレだけが得体の知れない恐怖に、戦場で手足を竦ませていた。
刃物同士の戦いではないので、片方の士がどれだけ手数を増やそうと、澄んだ高い音は聞こえない。
刃を無効にする繊維を片方が着ているので、ものを斬る鋭い音もしない。
一対一の、とても静かでハイレベルな戦い。お互い一歩も譲らない、真剣勝負。
ウスライは「身につけたのを後悔した」と言う言葉が嘘のような腕だったし、
一方の男は一見奔放かつ衝動のままに動いていると見せかけて、その実退くところは退く冷静さを隠している。
かつ、何がしかの『異』を使い、そしてゆっくりとウスライを追い詰めていた。
その様子が自分がウスライを殺そうとしているように見え、ハダレは竦んでいた。
壁を素手で壊し、人を躊躇いなく潰せ、その『異』は万人の持たざる優れた力を持ち……
そういった「自分達」の背中が酷く卑小に見えた。惨めで、弱く、中ががらんどうの、人の形をしたなにか。
その時――
二人の動きが不意に止まったことに気が付いて、ハダレは暗闇の向こうを透かしてみた。そして驚く。
男の散々痛めつけられたはずの左腕が伸びて、その拳の影がウスライとひとつになっていた。
「…………」
はっ、と喉が勝手に空気の塊を飲み込み、息が出来ない。其れを打ち破るために、男の名を呼ぶ。
「ウスライ!」
呼ばれた男が振り返る事は無かった。
ゆっくりと片膝をつき、両膝を突き、
拘束衣の男の拳とウスライの影が完全に離れた瞬間に腹を押さえて崩れ落ちる。
化け物のような力で殴られたにも拘らず即死していないのが不思議だが、
到底無事とは思えない様子で倒れこんでいる。
もう一度呼ぼうとすると、拘束衣の男が振返ってまた笑った。
思わずすくみ上がるハダレに、男は声を出して笑いながら襲い掛かった。
「う、あぁああああ!」
ハダレは眼帯を引き毟り、大きく跳び退りながら絶叫した。
男が不気味に笑っていることや、敵の組織の追っ手であることや、ウスライを倒したことがどうだという訳でもなく、
ただただ男が迫ってくるということ自体が怖くてたまらなかった。
それから逃れるためだけに、生き延びたいという欲を押さえつけることなく相手にぶつける。
とりあえず数回は打ち合ったが、しかしその様子といえば、
男がハダレのだだっこに付き合ってやっているようなものだった。
恐怖に支配された人間の拳など、むしろつまらないとでもいいたげに数回相手をしてやると、
男はハダレの襟首を掴んで自分のほうに引き寄せる。
「…………ッ!?」
上がった吐息が感じられるような距離にいきなり引き寄せられ、ハダレが一瞬戸惑った所で、
男がハダレの右眼を覗き込む。
その瞬間、ハダレの脳に男の思考が半ば強制的に流れ込んできた。
「あ……あぁあああッ!?」
自分に入り込んできたもののおぞましさに、ハダレは喉の裂けるような叫びを上げた。
それは自分と同じか、それ以上にどす黒く粘っこい、気味の悪い感情の塊だった。
最初に視えたのは、酷く優しい感情だった。何かを懐かしみ、愛しむ、心地の良い感情。
それが段々と、迫る夕闇のように塗り替えられていく。
愛しさが悲しみで打ち消され、懐かしさが嫉妬で消し飛び、隠していた黒い感情がとめどなく押し寄せてくる。
ハダレは眼を閉じようと、男から離れようともがいた。
しかし押さえつけられ、流し込まれる思いのたけのすさまじさに、眼を閉じることが出来ない。
いつのまにか、全ての優しい気持ちは偏執的な愛に変わっていた。
笑顔を眺めていたいという気持ちは、泣き叫ぶ顔を見たいという歪んだ欲望に代わった。
抱きしめ頬擦りしたいという気持ちは、犯しつくして傷つけたいという欲へ。
共に喜びを分かち合いたいという気持ちは、隷属させて言うことを聞かせたいという欲へ。
かつて壊すのが怖くて、触れることすらままならなかったものが、そこにある。
もはや壊れることなどかまわない、むしろ壊して壊して壊しつくして、
最後に残ったかけらだけを自分の手で組み合わせて、がらんどうの彼の中に、望むままの彼を作ってしまえ――
「…はッ、はッ……」
全てを注ぎ込まれたハダレは、まるで絶頂の後のように息を切らし、痙攣していた。
手足がぶるぶると震え、右眼だけを見開いてやっと立っているといった状態だ。
半開きの口元からは赤い舌が覗き、唾液が伝っていた。
これが彼が『異』を隠す理由の一つだ。
視なくてもいいもの、視たら傷つくもの、言葉に変換してすら心抉るものをダイレクトに流し込まれることは、
時に肉体に何をされるよりも、彼を壊しつくす。
その口元に口付けながら、拘束衣の男はにっと笑った。
先ほどまでの凄惨な笑みは幾らか影を潜め、疲れきった子供を抱いて帰るような愛しげな表情が浮かんでいる。
「ハ・ダ・レ」
べろりと舌を大きく出しながら、伝った唾液の全てと微かに滲んだ涙を舐め取る。
ハダレがすぐに正気を取り戻さないことを確認すると、拘束衣の男は青年を抱えてその場に背を向けた。
たった一つ、その場に倒れたままの男に、してやったりと言った嘲笑をくれてやると、
後は大事そうに青年を抱えたまま、男は夜闇に消えた。
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