「薬飲んで大人しくしてりゃあ、肋骨なんてすぐくっ付くくっ付く」
言葉と共にばんばんと肩を叩かれ、ウスライはぐっと息を詰まらせた。痛い。何だこの医者は。
蒼白な顔で汗を薄っすらと浮かべ膝頭を見ていると、何と酒のビンが診察台の近くに転がっていた。
呆れて、その「医者」を見返す。
彼は四十代前半くらいの中肉中背の男で、洗濯皺の目立つ古びたシャツとジャージの上に白衣という、
思い切り適当に医者のコスプレをしたような格好をしている。ついでに足元は便所サンダルだ。
その上カルテらしきものに混じって、代理戦争や賭け事の情報を満載した新聞が机に載っている。そして酒臭い。
「これだ。まぁぶっちゃけありきたりな鎮痛剤だけどな。六時間以上間隔を置いて飲んでくれ」
しかしその辺のこと以外は、信用できる名医だと聞く。
事実ここに到着してから治療を終え処方を出すまで、全て込みで一時間と掛かってはいない。
「分かった。……急に駆け込んできて済まない」
ウスライは左脇腹を刺激しないように、小さく頭を下げた。
が、酒臭いその医者は豪快に笑った。
「いいって。ここに来る奴ぁ、大抵急患だ。いきなり刺されたの、リンチされたのってなぁ。
そんな患者ばっか受け持ってるもんだから、
中央のお医者様みてぇな眼科だの外科だのの専門なんかなくなっちまってよ。
だからハダレのケツも痔にならずに治せたって訳だ」
「…………」
何となく釈然としないもの――というよりは、カルチャーショックと言っても良いかもしれない。
そういった類の違和感を感じつつも、ウスライはあえて抗弁する気力も無く医者を見上げた。
見上げられた医者はなおも暫く独りで笑っていた――が、急に笑いのテンションを下げて向き直った。
「んで……あいつ、どうなったんだ」
今のウスライの心情的には、心臓に刃を打ち込まれたのに等しい言葉だった。
だが蒼褪めた顔色も、表情一つ動かさずに、彼は淡々と答えた。
「駄目だった」
「誘拐されたって事か?」
「その通りだ」
「例のなんちゃらいう組織にか?」
「ああ」
「お前さんがいたのに?」
声音には表れなかったが、言わんとしている事は明白だった。
それでもウスライは一瞬の間をおいただけで、何でもないことのように答える。
「そうだ」
「そうか」
感情の欠落したような声音に一瞬顔をしかめたものの、
医者の方も、どうでもいい世間話を聞き流すかのような適当な返事を返す。
それと同じ調子で。
医者はポケットから小さな紙包み――タバコを取り出すと、くわえた。
火をつけるものを探しながらつぶやく。
「……あいつ、どうよ」
「何がだ?」
「いやぁ。抜糸したとき、お前さんいなかったろ。そのときハダレが色々話してたのよ」
ハダレが意識を取り戻してから一週間後、もう一度医者を呼び薬の補充と抜糸を頼んだ。
そのとき(尻孔の様子も見るからという理由で)ウスライは席をはずしていた。そのときのことだろう。
「色々、とは」
かなりの間をおいて、医者が口を開いた。
「あいつち○こでかそう」
「……、…!?」
ウスライは思わず吹きかけた。その衝撃でわき腹が激しく痛み、悶絶する。
「まぁもちろんそれだけじゃないけどな」
軽い調子で笑う医者を、ウスライは睨み上げた。
しゃれにならない痛みが鼓動と共に強まったり、弱まったりしながら押し寄せてくる。
「くだらない事を……」
「あんまりいっぱいありすぎてとっさにそれが出てきちまったんだよ。
本当はもっとまじめなことばっかり言ってたぞ。
お前さん、倉庫にあいつ連れてくる前に戦って、負かしたんだって?」
「…………それが?」
「安心したって。そう言ってた」
フゥ、と医者が息をついた。未だに見つからないライターを探しながら、
「自分があっち側に行ってもちゃんと止められるやつがいると思ったら、安心したと。
……なんかしでかす前に、殴ってでも止めてくれる…か、
なんかしでかしても怒ってくれて…それでいて、納得できる強さのやつがいると思ったら、
肩の力が抜けた感じがしたんだとさ」
「負かしたといっても偶然あいつが……」
「いいんだよ、偶然でも。お、あったあった」
反論しかけたウスライを制した医者。
その手には百円で買えるちゃちいライターが2つほど握られている。
どうやら適当に毎回おき場所を変えてなくすので、いくつも買い置きが合ったらしい。
「かっても買っても消えちまうんだ。何でかな……っと。
ああ、そうそう。ハダレの話な。
偶然かどうかが問題じゃないんだ。きっとな。それをやった、って事が大切なんだろう。
――それにしてもえらい惚れ込み様だったぞ。延々そんな話ばっかりしやがる。
普段どんなに代理戦争の話を振っても、『いいじゃんいいじゃん』っつぅ調子で逃げまくるくせに。
戦士として、保持者として、あと男として。
どの意味だろうと、あいつ完璧お前さんに惚れてるな」
紫煙を燻らせる医者を呆然と眺めているウスライに、医者はとめどなく話を続けた。
「今考えりゃあ話のネタもなかったんだろうが、
これがまた包帯の替え方が丁寧だったの、生のりんごなんか久しぶりにくわせてもらっただのと
どうでもいい話ばっかりでよ。ああ、ケツに薬を塗るとき勃ちそうだった、とかもあったな。
いい加減飽きたんで『のろけなんざ聞かせるな』って言ったら、何つったと思う。
『まぁ聞いてくれたっていいじゃん。二度とねぇ機会だ』だと。
のろけ、の方は突っ込みなしかよ!ってなぁ……」
「ま……待ってくれ」
余りの話にウスライは静止をかけた。
「前提から話して欲しいんだが……ハダレは、……性別を選ばないのか?」
医者は一瞬ぽかんとした。
一度、二度、煙を吐き出すと、長さを増した灰の塊を灰皿に落とし、それでやっとああと言った。
「あいつがバイかってことか?そりゃ違う」
「なら…」
「ゲイかって言っても違うだろうな。
代理戦争で確かにヤってるが、ありゃあ頼まれた演出にすぎない。本当の嗜好とは違う」
「プライベートでは……?」
ウスライはハダレの素行をデータとして受け取っているが、
普段から近しい人物ならそこに記載されていない事実を知っているかもしれない。
期待を込めてたずねる。
が、医者は首を横に振った。
「なーんもねぇ。風俗どころか、酒もタバコもやんねぇ。
きれいなおねえちゃんのいる店が好みなのか、ガチホモ兄貴のいる酒場が好きなのか、検討もつかねぇ。
分からん、ってのが正解だな
……って、なにをそんなに気にしてんだ?」
ふと見つめ返されて、ウスライの咽喉が詰まる。
返答できない――まさか、数時間前にキスされたばかりだとは。
「それは……」
「なんかされたのか?」
「……」
「分かりやすいな、お前さん」
あきれたように言われ、なんとも返答しがたい。
そんなウスライに、医者はくしゃりとタバコの火を消しながら、
「まぁ、慎み深そうなお前さんのことだから詳しくは聞かないがな。
――許してやってくれ。んで、できるなら助けてやってくれ」
やはり酒臭さは残っていたが、顔から赤みや緩みは抜けていた。
「これからどうするんだ?」
「…………」
値踏みするように――勿論、返答の内容をだ――こちらを見つめている医者を、
ウスライは数秒の沈黙を置いてから見返した。
慎重さの為か、それとも返答の内容そのものが口に出すのが憚られたのか。
「過去に」
一言一言を別個に紡ぐように告げた。まるで、全てを連ねておくのが耐えられないとでも言うように。
「奪われた『異』を……奪還した事など、ない」
「………………取り戻せなかった、ってことか?」
医者の問いに、ウスライは小さく首を振った。
「背後に多数の『異』を抱えた一族がいようと、所詮俺は『異』も持たぬ個人だ。
どんなに粗悪な命令系統であっても、組織に個人は勝てない」
医者は長い溜息をついた。それにくっついて言葉が出てきたとでも言うように、呟く。
「そりゃあつまり、勝てねぇから尻尾巻いて逃げたって……そういうことか」
返答は無い。
重苦しい空気だけが、ゆっくりと部屋を循環する。
「勝てるはずがねぇから、助かるかもしんねぇ奴を見捨てたってことか」
ぺたん、とまぬけで薄っぺらい便所サンダルの足音を立てて、医者が一歩ウスライに近付いた。
医者の表情はうかがい知れないが、ウスライも凍りついたような無表情を通している。
「護るだなんだって偉そうなこと言っておいて、お前を頼った奴らを裏切ってきたってことか」
その間にもぺたんぺたんという足音は続き、医者とウスライとの距離は縮まるばかりだ。
そして2人の距離が後一歩か、二歩といったところで医者は足を止めた。
何故か白衣の袖からはみ出た拳が、ぶるぶると震えている。
「あいつも、そうやって見殺しにする気なのか!」
悲鳴のような、それでいて恫喝にも似た大声と一緒に唾が飛んだ。が、相手の男はそれを気にもせず黙っている。
「何とか答えやがれってンだ!畜生!」
その態度に触発され、激昂した医者はついに拳を振り上げた。
ごっ、と鈍い音がしてウスライの黒髪が揺れた。医者の拳が痛み、熱くなった。だが、それだけだった。
乱れた髪の間から、黒い瞳がしっとりと医者を見ている。
逆に、むしろ医者の方がウスライを見ていられないというように視線をそらした。
「……畜生……」
そのまま唸るように繰り返すと、医者はよろよろと汚い机に突っ伏す。
積み重なった書類を手当たり次第にぐしゃぐしゃに引っかき、時々堪えきれない様に机を叩いた。
ウスライはその様子をじっと無表情に眺めていた。
その名の通り、景を映しながらも揺れることの無い水面のような黒瞳が、静かに医者の背に向けられていた。
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