唐突に、視界が晴れた。同時に目の奥を突き刺すような痛みが襲ってきて、思わず顔を手で覆い――
「!?」
両手が自由なことに驚き、薄っすらと瞼を開けて両手を見下ろす。
眩いライトに視界が濁り、殆ど色の識別が出来ない。
だが、両手をつなぎとめるものは何も無いのは分かる。
信じられない思いでゆっくりと両手を握る。
足元に視線を落とし、何も動きを妨げるものが無いことに呆気に取られる。
思わず口元に触れ、感触で分かっているはずなのに口枷を探す。無い。
肩から肘までを撫でながらもう一度視線を落とすと、自分が以前と同じ服を着せられていることに気が付く。
そこまで全身を確認してから、ゆっくりと周囲を見回す。そして愕然とする。
自分の居る位置だけがスポットライトのようなもので照らされている所為で、周囲は暗く、確認しづらい。
だが、明らかに自分の周囲を何百人もの興奮した人間が取り囲んでいる。
そして彼らよりも一段高い『舞台』――否、リングに自分は身をおいていた。
改めて押し寄せてきた懐かしい歓声と大音量のBGMに半ば呆然としながら、
ハダレは疑いようの無い事実に気が付いていた。
ここは、戦場だ。
「気分はどう?」
掛けられた声に、びくっとと振り返る。そこには、目隠しとヘッドホンを手にした拘束男がいた。
調教の際のおぞましい記憶の所為で、思わず一歩二歩と後ずさって距離を開ける。
拘束男はハダレからたった今取り去ったと思しきそれらをリングの下にぽんと放り投げると、眩しそうに笑った。
「懐かしい?」
ハダレは返答をせずに――わざと避けたのではなく、まだ返答できるほど状況がつかめていなかったのだ――、
辺りをぐるりと見回した。心臓がどくどくと激しく脈打っていた。
一度凍りかけたような心臓が跳ね上がるたびに、吐き気のような痛みがこみ上げてくる。
右を見ると、総立ちになった観客から罵声とも応援とも付かない歓声が浴びせられた。左も同じ。
正面には、暗い観客席を奥から仄暗く照らすようにバーが営業していた。動き回る人々で一杯の店。
そして自分のほぼ真後ろには、控え室からの廊下とこの空間を結ぶ――あるいは隔てるあのドアがあった。
余りに――間違いがなさ過ぎる。眩暈がする。
「……で?」
半ば悟りながら、しかし皮肉る気も、いわんや怒ったり怒鳴ったりする気力もなくぼんやりとハダレは尋ねた。
尋ねられた拘束男は薄っすらと目を細めた笑いを消さず、そっとハダレに近寄った。一歩、二歩。
そして、カギロイ――リングの下の、周囲から少し距離を置いた特等席についている主人を背に、立ち止まる。
ぴたりと止めた足をそろえてから、拘束男は唇を開いた。
「選ぶんだよぉ。俺か、ご主人様か。
君がどっちかに勝てれば解放するって条件でご主人様はこの代理戦争を組んだんだ。
……まぁ別にぃ?見知ったお客さんとか、店のヒトに無様な姿を見せたくなければ辞めたって良いんだけど……」
たっぷりと余裕を含んだ妖しい口調で、拘束男が簡単にルールを説明した。
拘束男か、カギロイ。どちらか、ハダレ自身が勝てると踏んだ方と一戦交える。
武器はなし。『異』は使用可。
ハダレが勝てば自由の身に、負ければ観衆の面前でレイプショーかつ就職先が性奴に決定。
なんとも分かりやすいルールだ。
――ハダレが解放の件を抜きにしても、元王者の威信をかけて断れない事も含め。
「…………」
調教開始前のように元気に、自信たっぷりに皮肉ることは出来なかったが、
ハダレは流石に呆れてため息を漏らした。もう抵抗などしていないのに、今度はわざとその道を開く陰険さに。
その抑揚の少ない反応に、拘束男が小さく肩を震わせた。苦笑しながら、
「まぁ、所詮君は敗者だから。
でも寛容なご主人様のおかげで、もう一度だけ君に戦場を用意してあげたんだよ。
感謝しなよ?」
言葉尻を跳ね上げ、劇団員のように大げさなほどの身振りでくるりと辺りを指す。
その動きに呼応したように、観客のざわめきが大きくなる。
だが、ハダレは反応しなかった。
ハダレは視界の中心に拘束男を、周囲を縁取るように無数の観客の姿を納めたまま返事もしない。
つ、と拘束男は視線を下げた。すぅっと目が細まる。
ハダレの拳が強く握り締められ、グローブの滑り止めがきゅうきゅうと音を立てていた。
怒りや武者震いのためではない。そんな強い気配は、今の奴隷材料からは感じられなかった。
ならば――その真意は。
(……怖いんだね。きっと)
拘束男は哀れみに似た視線を向けた。あきらめの悪さを可哀想に思うことはあっても、
あきれたり、おびえる姿をあざ笑うような残酷な気持ちはなぜか湧いてこなかった。
(勝てる見込みがないのに、王者ってだけでこの舞台に上がらざるを得ない……
惚れ込んだ相手を倒されて、もうどこからも助けは来ない。
……だからこそ、戦わなければ逃げられない)
じっと、ハダレの返答を待つ。
(早く諦めれば……楽になるのに)
一分。二分。三分。
……じりじりと待っているのも、いい加減つまらなくなってきた。
拘束男は、できるだけやさしい声音で問いかけた。
「…………ねぇ、止めるの?それとも……」
ぱん、と。
破裂するような乾いた音が一発、戦場に確かに響く。
まるで、銃火器が発明されたばかりの頃の戦場のように。
決して大きくも、人を威嚇する響きも含まないそれが、何故か――ざわついていた会場を一瞬黙らせた。
「誰がやめるっつった」
さわさわと漣が押し寄せるように戻ってくるざわめきの中、低く唸るような声が意思を告げる。
拘束男は覆面の下から覗く青灰色の瞳をほんのすこし瞼で覆って、驚いたようにハダレを見た。
少し肉が減り、骨張ったように見える拳をもう片掌に打ち付けたまま、こちらを睨むハダレ。足元に、解けた眼帯。
その両眼には先ほど控え室で陵辱されていた時の濁りは影を潜め、
スポットライトの光の下で掲げたナイフのような、鋭く美しく、
引き込まれるような魅力的な力強さをたたえていた。
己を守るためだけに発動する、鋭すぎる感覚の刃が拘束男の脳内を貫く。
見つめる拘束男にむけて、ハダレは口を開いた。
そして唇を動かす前に拳を解き、片方の掌を天井に向けたまま肩の高さまで差し上げ――指先を蠢かせた。
くいくいと、二回ほど手前に指先を引く。
戦場に誘うサイン。それを――拘束男に向けて。
「リベンジ。――あんたが、オレの最後の戦場を飾る相手だ」
(オレが諦めたのは、オレ自身の人生じゃない)
ハダレは心の中で――今なお、拘束男に見透かされているであろう心を抑えるように胸を押さえた。
屈辱的で卑劣な調教の中で磨り減り押さえつけられた精神が暴れ狂いながら、
どこか悲痛さを含んだ最後の叫びをあげている。それが相手に伝わるようにと。
(オレにオレの人生を賭けさせたあんたを……倒せるかどうか。今度はそれにオレを賭ける。
あんたが生きようが死のうが。あんたの主人がどうなろうが。オレには関係ない)
どのみち、このような思いをするのは最後になる。
これでどんな形にせよ、終わりが来るからだ。
(誰も彼もが元鞘、幸せな終わり方をするって……そんな理想を諦めただけだから)
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