何時もは歓喜で一体となる会場が、矛先をリングに向けた尖った興奮で沸き立った。
その様子を観察していた拘束男が、やおらハダレの前髪を掴んで顔を上げさせた。
「ふふ……」
おおおおぉぉぉぉぉぉぉ…………と、ざわめく様な薄い歓声が広がる。
ハダレの浮かべた蕩けるような快楽の余韻と、微かな嫌悪と、
大いなる歓喜の後の気だるげな表情が、会場の欲をそそった。
が、拘束男の狙いはそんなところにはなかった。
静かに、しかし確かに、彼はハダレの耳元に言葉を注ぎ込む。
「君の右眼は今何を見てるかなぁ……ほらぁ、ちゃんと視て。一番前のあのモヒカンの人、凄く君を軽蔑してる。
あんなに強かったのに……って。だけどよぉく視ると、君のいやらしい様子ばっかり思い出してるでしょ……
その後ろのおじさんは、ぁあ、もう君を犯したいしか考えてないねぇ。
隣のグループは……って、あーあ、普通の眼で見てもわかる。完全に勃てちゃって……
わかってるかなぁ?全部、今君に向けられてる『本当の気持ち』なんだよ……?」
「……………………………ぃ」
ひくん、とハダレの表情が揺れた。
その右の眼――視線を合わせる事で心の奥底まで視る『異』が、この世の欲の掃き溜めを全て受け入れる。
持ち合わせさえしなければ永遠に味わうことのなかった、他人の感情がそのまま流れ込んでくる嘔吐感と異物感。
――止めて。視せないで。
「…………ひ…ッ……」
「汚いよねぇ、醜いよねぇ?厭らしいよねぇ?――ほら、顔を背けちゃダメ。全部視て」
思わず背けかけた顔を、前髪を掴みなおされて元に戻される。
――気持ち悪い。酷い。
「君が舞台で犯されている間、誰か助けてくれた?誰か、こんな事止めようなんて言ってたかなぁ?
……だぁれも、居なかった。皆興奮して、好き勝手なこと思って、いやらしい妄想しちゃって、
結局助けてくれるどころか、皆今こうして君を犯したいとか考えちゃってる」
――誰も、助けてくれなかった。気持ち悪い。悲しい。
「もう良いんだよ、頑張らなくて。君が幾ら抵抗しても、誰も喜ばない。…………受け入れれば、楽になれる」
「…………」
首を振った気がする。横に二度。二度という数に意味はないけれど。
まだ死にたくない。まだ、ハダレとして自分は生きていきたい。
いくつかの希望はなくしてしまったけれど、まだ死ぬには足りない。まだやりたいことがある。
弱弱しい思いが脳裏によぎったとき、ふと、あの黒髪の男の面影が浮かんだ。
(……)
(……オレ、まだウスライに何にもお返しできてないや)
金か物か、具体的に考えていたわけではないけれど、組織の手から逃れたら礼をしようと思っていた。
受け入れられることはなかったけれど、あの日々はかつてないほど自分らしく過ごせた。
誰にも話したことのない事を話し、『異』であることを隠さずに生活した。
ついでに言えば、恋という感覚まで貰った。
(楽しかった……もっと一緒にいたかった。最後にはちゃんとありがとうって言うつもりだったのに)
だが、もう引き返せない気がする。
彼への一方通行な想いだけで抵抗しきるには、もう心の力が失われすぎていた。
罵詈雑言や淫猥な事を言葉という一種の緩衝材に変えることなく迎え入れた心が、悲鳴を上げている。
そして一方で、楽になれるという言葉がやけに魅力的に脳に届いた。
「――――――――――――、ハダレ」
何を言われたのか、分からなかった。誰に言われたのか、分からなかった。ただ、最後に愛しそうに名前を呼ばれた。
それでよかった。
彼は、諦めた。
ハダレと拘束男の絡みが一段楽した所で、カギロイはその席を離れていた。向かうはリングの上。
最後に『異』を使って精神的打撃を与えている間は、ハダレを攻めて観客を満足させることは出来ない。
ほんの少しだが、ただ待たせておくだけでは不自然な程度の間が必要だった。
カギロイは簡単な挨拶――ハダレを注文主以外に売り出すつもりがないという事も含め――で時間を稼ぐつもりだ。
それでも間が持たないようなら、適当に拘束男をいたぶっておこう。
ちょうど、2人の絡みを見ていて興奮が胸に溜まっていた頃だ。
適度にサディスティックな趣向を凝らせば、観客にとっていい見世物になるだろう。
適当だが、順当な計画だ。
カギロイはゆっくりとリングに上がる小さな階段に足をかけた。
一歩一歩、登るごとに胸に満足感や充実感がふつふつと湧き上がり、天井の眩しいライトに照らされ昇華して行く。
途中で、彼の最愛の奴隷がこちらを見てにこりと笑った。――上手く行ったらしい。それを見て微笑み返す。
戦場にそぐわない優雅な足取りと高い靴音を響かせながら、カギロイは舞台に立った。
この代理戦争の仕掛け人であるということに眩暈のするような支配感を覚えながら、ゆっくりと口を開く。と――
『!?』
全員が騒然となった。会場が暗転したのだ。
が、すぐに復旧する。……いや、復旧というにもおこがましい、ただの演出だ。
リング上は再び目映いほどの明るさで、満遍なく照らされて――
カギロイは眉をひそめた。リング上に、一箇所だけ暗転した時の闇を置き去りにしたような空間がある。
戦場の広さと照明の明滅で一瞬眩んだ眼には、それが何だか分からなかった。
だが――その闇が口を利いた。
それでカギロイはそれが『誰』であるか把握した。
「遅いな。ヒーロー気取りか?」
「いえ……」
肩を越す黒髪。全身黒ずくめの長身。右肩に背負った長物入りの袋。
その胸はまだコルセットで痛々しく固定されているが、その目には強い意思が見て取れる。
鋭い刃を思わせる視線。色はたがえど、ハダレと似た。
それを結んだまま、ウスライはゆっくりと口を開いた。
平坦で、抑揚の無いながらしっかりと芯のある声音が、馴染みこそしないが忘れられない。
「ハダレを返して頂きに参りました――兄上」
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