激しい剣戟の音と歓声に両側を挟まれた一方で、忘れ去られたように静かな空間があった。
黒髪の兄弟の戦う場所から少し離れた、リングの隅。そこに、2人の『異』が倒れていた。
片方はうつ伏せで気絶していた。もう片方は、身体に穴を開けていた。気絶はしていない。
血の泡を市場に並べられた蟹のように吹きながら、それでもしっかりと主人の方を見つめている。
しかしのた打ち回る力はもうなく、上下する胸と瞼と、そして隣に眠る青年の髪を撫でる左手だけが動いている。
丁度傍にあったから弄んでいると言った様子のその指先は、酷く優しげだった。それは単に弱っているだけかもしれないが。
拘束男は、主人を眺めていた。突如現れて、ハダレを取り返しに来たという男と戦う主人を。
血塗れの拘束衣の胸の下では、自分への失望と悲しみ、そして愛情が渦巻いていた。
自分は『異』を材料とした性奴として、主人を護る義務があった。それなのに、この有様で。
更に主人は自分なしでも事を優勢に運んでいる。
それに対しての安堵と、自分の情けなさを見せつけられた悲しみがあった。
一方で、自分が傷ついた事をほんの少しでも言葉にしてくれた主人へ注ぐ、例えようのない愛が湧いて来るのが分かった。
ふと、自分は死ぬのだろうかと思った。たまらない寂しさのような底冷えが半身を襲う。
物事をこれだけ考えられるのだから大丈夫だろうと思う気持ちもあった。生きて、もう一度主人に愛されたかった。
その一方で、死にたいとも思っていた。主人より後に死ぬなど、嫌だった。
血は意外と大量に出ているようで、ゆっくりと湿った感覚が広がっていくのは気持ちが悪かったし、寒気を催させた。
その中で、気絶した青年の髪を撫でる指先だけは、彼の体温を感じて温まっていた。
とても心地よい。緩やかに彼の髪が解れる度、僅かに溜まっていた熱に触れることが出来た。もっと撫でていたかった。
生きているものを撫でるというのは、こんなに安堵感を伴う行為だったろうか。何だか、忘れていた気がする。
主人も、こんな心地だったのだろうか。ふと、そんなことを思う。触れられる時も拘束男は限りない安堵を覚えていた。
だったら撫でる者と、撫でられる者は、きっと同じ安堵感を分け合っていたのだ。掌と、髪の熱を与え合うように。
青年は無反応だ。何を考えているかなど、分からない。眠っているものの夢を知りうることがあるはずがない。
だが、その夢が悪夢でないように――身勝手であろうと――思ってしまうのは、同じ主人に愛された仲間意識だろうか。
ぼんやりと、取りとめもなく考えている拘束男――彼が、思いつくはずもなかった。
その濃厚な血の匂いが。自身に限りなく近い血液に浸される感覚が。或いは、それに紛れたたった一滴の愛しい男の血が。
眠れる彼の『欲』を刺激して、揺り起こすことになるなど。
唐突に、拘束男の手首が荒々しく掴まれた。
異変に意識だけは覚醒するが、身体は全く動かなかった。動くのは視線だけ。純粋な恐怖がすうっと背筋を伝った。
まるで化け物の前に縛られて放り出されたような緊張感を感じる。
何故目覚めたのか。彼は壊れたのではなかったのだろうか。拘束男には、分からない。
誰も乗り越えたことのない打撃を克服するほど、彼の生命力は強靭だったとでも言うのだろうか。
――それとも、愛の力が壊れた彼の精神を呼び覚ましたとでも言うのだろうか?――馬鹿馬鹿しい。
拘束男は主人から視線を逸らして、眩い天井を見上げた。自分の左手を握る化け物の姿を視止めようとして。
「………あんた、……死に掛けてんのか……?」
ふと声が耳に届き、視線を落とした。拘束男が予想していたよりも少し脚の方寄りから、化け物は彼を見下ろしていた。
その化け物――ハダレの顔は憎しみに歪むでも有利を誇るでもなく、ただ疲れたような顔をしていた。
「目が覚めたら……いつのまに、こんなことに…あんたなら、分かると思って」
――そういえば、ハダレが眠っている間に色々あった。たった今目覚めた彼がそれを知っているべくもない。
だが、どう見ても自分が流暢に事の次第を話せるとは思えない。拘束男は無言でハダレを見返した。
「分かってるよ……あんた、そんな身体じゃ話せないだろうし……、……?」
ハダレが、急に言葉を止めた。拘束男と視線を合わせたまま瞬きもせず数秒見つめあい――悟ったように、ぽつりと語った。
「………オレが、もう一つ…『異』を?……ウスライのそれを……?」
拘束男は微かに頷いた。確かに、今「心を読む瞳と瞳で交わされた会話」には間違いや嘘偽りがない、と示すように。
ハダレは視線をつないだまま、呆然と座り込んだ。
「ウスライ……」
ぼんやりと呟く。拘束男がもう一度、小さくこくんと頷いた。
ハダレはそれに指し示されるようにリングの上で戦う二人を見止め、顔を上げた。そこに、求めていたものがあった。
ウスライは押されていた。カギロイは予想以上の強さを維持していた。――むしろ、故郷にいた頃より進歩していた。
特に左腕を傷つけられてからは七・八割がた防戦に回っている。
勿論怪我も痛むが、それ以上にカギロイの攻撃的な姿勢が強く、踏み込むことが出来ないのだ。
奴隷を傷つけられた憎しみもあるだろうが、それ以上にして最大の理由があった。
「どうした、ウスライ。やはり『異』も持たぬ出来損ないはこの程度か!?先ほどの余裕は何処へ行った!」
「………は………ッ!」
断続的な金属音の後、ぎちりと噛み合う様な音を立てて二人の間を刃が交差する。
キチキチ……ッと軋むような鍔迫り合いの音がBGMのように鳴り響く。
「私が故郷にいた頃より『異』の使い方を覚えたからといって、このような差が生まれるとは……正に奇跡の力、だな!」
ぐり、とウスライの刃が数ミリ押下げられるように曲がる。カギロイが力を込め、払おうとしているのだ。
食い下がるウスライ。傷ついた身ながら――痛めた肋骨もまだ完治していないというのに、必死である。
しかし、それも長くは持たなかった。
>>NEXT
<<BACK
創作物へ戻る