代理戦争/最下層街編/続・喪失/2


気絶している間は、真っ白になるか、妄想じみた夢を見るか。ふたつにひとつ。
今回はどうも真っ白な方だったらしい。

ゆっくりと。目を開けると、案の定視界いっぱいに白い天井が見えた。
点滴のパックが残り少なになり、ぺしゃんこになって空調の風にあわせて揺れている。
(……)
凝り固まったような視線の先に、時計が見えた――時刻は夕方。
六時を十分後に控えた時刻を指す針の下に、小さくPMの表示が出ている。
医者の診察と夕食の時間を控えたその表示に、なんとなく息をつく――
そして、自身が現実世界にいることを自覚する。
ここはいつものヤブ医者の診療所で、自分は入院患者として扱われているらしい。

ふとそう気づくと、警戒とか、注意といった意識がすこんと自分の中から抜けるのを感じた。
なんとなく。根拠はないが、自分がそうすることもないと諭されたようだった。
患者、という言葉が根拠かもしれないが。
急くことは何もない――ハダレは、体の力を抜いたまま視線で周囲を探った。
とりあえず時計のほかには、意味のある壁掛けは何もなかった。
『手を洗おう』のポスターと、年単位で遅れたカレンダーからは必要な情報は読み取れない。
ハダレはゆっくりと視線を落とした。
壁……観葉植物……入院用ベッドの机部分……そして毛布。
そこまできてはっとした。
自分の体のすぐ上を覆う白い毛布。その上に、いびつな形の黒い布が掛かっている。
そのかたちは広がりきっていないコートのように見える。
(……、)
思うところがあった。入院用ベッドの左右を見ると、左側の一部だけ転倒防止用の柵がないのに気づく。
そのすぐそばには椅子があった。見舞い客用の、折り畳み椅子の一脚が。
まるで、誰かが片付けないまま帰ったかのように。

そう思い至った瞬間、ハダレの体に緊張が走った。
起き上がり、コートごと毛布を跳ね除けようと肘を立て、――
「ッだぁっ!……ぃたぁ…」
腕を立てたところで酷い痛みに呻く。どうやら、おもわず付いてしまった右腕がその源らしい。
夢の中よりも慎重に、そうっと身を起こして、右手をまじまじと観察する。
スポンジのような素材の上から包帯で巻かれている。以前、手の甲の筋を傷めたときと同じだ。
だが、手首もろとも固定するようにぐるぐると執拗に巻かれた包帯が『お前は重傷だ』と物語っている。
実際にぴくりともしない指が、さらにぱんぱんに腫れている。自身でも気持ち悪いほどに。

とりあえず腕を丁寧に移動させ、半身を起こした脚の上に投げ出す。それで、姿勢が決まった。
定位置においた負傷部分が動かないように気をつけながらあたりをぐるりと見回す――と、
より多くの情報が飛び込んできた。例えば、
「がっ…!ぁ…ッ…」
右腕よりも深刻な痛みが自身に起こりうることなどだ。
ハダレは頭を抱え、もう一度肘を突いた。
頭痛。風邪を引いたときとは比べ物にならない頭痛がハダレを襲った。
右眼奥から『疼く』というには強烈過ぎる、鼓動に似た痛み。心臓の拍動に一拍遅れて、それは確実に毎瞬間やってくる。
「う…ぁ、はっ…はぁっ……」
痛みを唇から逃がすように。
ハダレは気道に詰まった呼気を必死に吐き出した。
意識せねば息が詰まって死んでしまいそうだ――そんな妄想じみた泣き言を考え付いてしまうほど、
この激痛はハダレにとってつらいものだった。
外傷には慣れていたが、内部からの痛みにはそれほど耐性があるわけではない。
(……)
ズキン、と。痛みに追い立てられるように、ハダレはもう一度体を横たえた。
しばらく天井を見上げながらぼうっとしていると次第に鼓動の痛みが治まってくるのを感じた。
完全に痛みが消滅するわけではないが、安静にしているほうがいくらかましなのが分かる。
「は、ぁ……」
息をつく。
最初のため息を吐きつくすと、体がベッドに沈み込んで、そこで落ち着く。
どこを眺めるわけでもなく――何を考えるわけでもなく――それでも目を閉じなかったのは、
視界という情報を脳に送り込む続けることで、思い出すことを拒否していた。

泣きそうだった。正直に言えば。
何に、といわれると難しかった。思い出すのは拒否していたから。
だが例えばバーで、隣の席の客がつとめて低い声でしている別れ話をなんとなく察してしまうように。
あらゆる出来事がその涙を湧かせていることだけは、ハダレは察していた。
だが、やはり泣くべきではなかった。
たとえ何を失おうともハダレは生き延び、一方で死に追いやられた人々がいた。
それで充分だった。涙を流すべきでない理由など。
(……)
だが、一方でまた涙が出てきそうなことも事実だった。
ぼんやりと眺める黒いコートには、乾ききった血の染みと大穴が開いていた。まるで投棄されたような雰囲気すらある。
そして荷物の類はどこにもない。

黒ずくめのあの男は義理堅そうな一方で、面倒はことごとく避けそうな雰囲気を持っていた。
ハダレとの一件は『ハダレを組織の手から逃れさせる』ことで終わることになっている。
さらわれた自分を救い、診療所に――さまざまな組織と関わりがあり、中立地扱いになっているここに――置いて、
それ以上の接触をさけて彼が消えるなどという筋書きは、誰が描いてもそうなりそうな話だ。
ハダレは左腕を伸ばし、腹から足元にかけて広げられたそれを引き上げた。
暖かさがそれで増すわけではなかったが、なんとなく――そちらのほうが心地よかった。
守られているとか、そういう妄想を働かせるわけではないが、
あの舞台の上で抱きしめられた感触を思い出させるその存在は、心地いいの一言に尽きた。
真っ白くまぶしい舞台用ライトに目を細めながら、体を預けたときのあの安心感。
力いっぱい抱きしめられた息苦しさとともに感じる温もり。
請われた許しの内容などどうでもよかった。助けに来てくれたことへの感謝で一杯だった。
全身の感覚器から溢れ出しそうなほどのそれらを、ほかの感覚を遮断して純粋に追い求められる幸福感。
それらを全て思い出すことができる。そのコートが、自分を覆ってくれているというだけで。
ただ、――本人がいればもっと鮮明に思い返すことができるだろうに。
ハダレはもう一度ため息をついて、その失望を痛みとともに逃がそうとした――

その息をはききったのと同時に、心臓を貫くような深い悲しみが現実感を持った。
ほんのわずかにさした光のような幸福感が、逆に意図的に忘れかけていた悲劇を掘り起こしてしまっていた。
ハダレは生き延びた。そしてそのせいで何もかもを取りこぼした。
二度とは手のひらに取り戻せないものばかりを、とっさになげうつ形で。
その判断はそのときは正しかったのだ――そのときは。
今はもう、分からない。
むしろそれは明確な誤りであったと証明するように、湧き出てきる涙を必死に抑えている自分がなんとも惨めだった。
泣くべきではない。
泣いていい時も、場所も、全てを引き換えにして、自分は生き延びたのだから。
何度も自分に言い聞かせるようにして、ハダレは目をしばたかせた。
涙が鼻腔に流れ、あるいは蒸発して退いていく。
そのたびに、表に出さずに封じ込めた痛みが二度三度と胸を貫くのを、黙って感じていた。

その時、病室のドアがガチャンと無遠慮に開けられた。
視線を下げてそちらを見ると、いつものとおりだらけた医者と無愛想な看護師が入室してきた。
カート(治療器具乗せた金属製のものだ)を押している看護師のためにドアを開けながら、
彼は高らかに声をかけた。
「大先生の回診だぞー。元気してるかウスライ」
「……」
ハダレは思わず感傷的な気分を忘れて――ついでに、急に動くと猛烈な頭痛がすることも忘れて――横を振り向いた。
病室は狭いが、流石に個室ではなかった。同じようなベッドが、少なくとも左にひとつあった。
――その上に、ウスライを乗せたベッドが。



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