代理戦争/最下層街編/続・喪失/3


「…………」
ウスライは、旅立ってなどいなかった。むしろそれができそうな状態ではなかった。
わずかに上半身の部分のマットを起こす形で、起き直っていたが、
顔色はまだ白っぽく、いやに黒髪が目立っていた。全身のそこかしこから消毒液のにおいがして、
左腕はギプスで固定され、なんだか変な近未来兵器を装備したような大きさに膨れ上がっている。
たっぷり数秒見つめあい、なおも続くかと思われたときに、ふと医者が咳払いをした。
さほど大きな音は立てなかったが、わざとらしく、注目を集めるためのものであることは分かった。
反応したハダレがゆっくりと視線を向けると、
医者が多少こわばったような不自然な表情を見せていた。
「お、……ハダレ。起きたのか」
「……」
見れば分かるだろうと内心思いつつも、ハダレはほんの小さくうなづいた。
だるさが全身に染み付いていてはきはきした返事とはいかないが、それでも相手には伝わったらしい。
「だるさMAXだろうが、検温と点滴の交換に付き合ってもらうからな。
 神妙にしとけ」
「……」
「ウスライも。抗体・抗原反応はなかったのはいいが、輸血したての奴に拒否権はねぇ。
 たとえ直腸検温でもな」
「それは…」
「嘘だよこのおたんちんが。
 こっちもお前らの尻より、こいつの尻の方がいいに決まってんだろう」
そういって医者は看護師の尻に手を伸ばす。
しかし慣れているのか、彼女は冷静に身をかわし、手近な金属製のトレイでがつんと医者を殴った。
「ぎぃおおぉ!?」
――どうやら角をうまく使ったらしく、一発で人間とは思えないもだえ方をしながらおとなしくなる医者。
一方の看護師は冷静な顔でトレイをカートに戻している。

普段なら、指を指して笑うコントのようなやりとり。
それに対して何の感慨も沸かないのは――多分、自分の精神状態が異常だからだろう。ハダレは思った。
自分の身に降りかかった出来事の数々がこうして収束するまでの時間を客観的な視点からの言葉で語られると、
「今までのことは夢だったのでは?」と思い込む余地が余さず吹き飛んだ。
夢ではない。
夢ではない。
夢ではないが――夢であって欲しい。
そう思っている自分を自覚した瞬間、ハダレの左手がぎゅっと毛布を掴んだ。
医者は気まずそうに下を向いている。看護師は黙ったままだ。ウスライも、何も言わない。
その沈黙が、さらに『夢』という可能性を打ち砕いていく。
「…………」
時計の針が六時十分を通り過ぎるこち、こちという音さえ目立つ。
何十という秒数を数え、それでも誰もが身じろぎひとつしない。
重く、圧し掛かるような空気とはこういうことだろう。誰もがそう思えるような、深刻な雰囲気だった。

「えーと、な」
静寂を破るのには相当勇気が必要だっただろう――医者が、唐突に口を開いた。
「正直な。ハダレ、お前さんがこう、筆舌に尽くしがたい経験をしたってことは承知してる。
 俺には分からん、つらーい経験を、なぁ。
 それを、よく耐えてくれたって思っている。
 今日の日付知ってるか?」
ハダレは力なく首を振った。髪だけがぱさ、とゆれるほどの弱さで。
「三週間。お前さんが誘拐されたって聞いてから、三週間も経ったんだよ。
 昨日の……いや、今日か?の深夜も深夜、お前さんがウスライを担いでここに来るまで。
 それに、今お前の体重がどんなもんか知ってるか?
 俺が最後に量ったときから、7kg近く減ってんだ。
 ――俺には、お前が何を経験したかは分からないが、
 そういう数字から、お前がどれだけつらい経験をしたかは推し量れるつもりだ」
遠まわしな言葉を選んでいる――ことを、ハダレはぼんやり感じていた。
いつかは切り込まねばならない 事実に向かっていることを把握しているからこそ、
その最終目的地を横目に大きく迂回しているような。
それが何なのかは分かるようで――分からないようで――分かっている。と、思う。
いくつかの候補がすでに挙がっていた。
医者の言葉は、いずれ自身を落ち込ませる。
だがどんなに迂回して最終目的地につくまでに準備をさせようと、その事実が心に届くことが問題なのであって、
優しい言葉で覆いつくせるほど医者の発言の内容は残酷でないわけではない。
「だがな、ハダレ。
 見て分かるようにな、ここには高度医療の器具もないし、カウンセラーもいない。
 そんなもの、普通の患者どもは求めてないからだ。
 傷を縫えればいい。明日生きられればいい。心の病気なんざ金の無駄。
 ――実際な、あいつらには金がないから施せない治療法がたくさんある。
 だから俺は広く、浅くやっていこうと思ったのよ。眼科から肛門科まで、いろいろな。
 それだから……正直、お前のメンタル面をちゃんとケアしてやることができないし、
 最善の治療を尽くしてもどうにもできないこともある。
 それをちゃんと、患者であるお前に報告しなくちゃならない」
「…」
どういうようなことを言われるのか――それで、ハダレには見当がついた。
医者がこれだけ言葉を濁すのも当然だと思う。
だが、その心遣いを無駄だと思うと同時に感謝もしていた。
ただその感謝に意味が無いというだけで。
「……無理なら、後日にする。
 お前の中で色々考えることが済んだら、それからでもいい。
 でも、言わなくてもお前はきっとすぐに気づく。色々な場面で、ひょいっとな。
 だから、早めに俺の口から言っておくほうがいいかもしれない。
 …………どうする」
「……」
どうする、と言われても。
そんな表情をしていたに違いない――とハダレは思う。
正直、問われてもどう答えていいか分からない。
自分の中で確かに物事の順序というものを整理してからのほうが、確かに気は楽かもしれない。
しかし、もう言うであろうことがなんとなく分かっている今、そんな気遣いは無用であるともいえる。
「……」
ずいぶんと、相手を待たせた後。
ハダレは流されるように頷いた。
何も意味はなかった。どちらがいいか、真剣に考えたともいえないだろう。
ただ後で言われても同じだろうというそれだけで、ハダレは決意を固めた。

「まずは、当たり障りない話から、な」
そんな語り口で――治療の報告は始まった。
「お前が途中から根性入れて引きずってきたお陰で、ウスライは見てのとおり無事だ。
 輸血もちっとばかりしたが深刻な状況じゃない。
 左腕のほうは単純骨折で済んだ。まぁ、ぶっすりやられてる傷もあるけどな。
 完全に折れてるからしばらく掛かるしリハビリ期間が付くが、
 元のように動かせなくなると決まったわけじゃない。
 後は切り傷打ち身は数数えるのも面倒くさいくらい付いてるが、まぁ慣れっこだろう?
 あぁ、ちなみに肋骨のほうは一本治ったと思ったら二本折ってきやがったから、またコルセット生活だ」
医者がちらりとウスライを見た。
相変わらずの美しい顔にも、それを覆い隠すように大きなガーゼが張られている。
毛布から覗く上体を見る限りでは満身創痍であったし、顔色も戻りきったわけではない。
上体を起こしているのも楽ではなさそうだ。
――それでも、その瞳には回復しようとする意思が見られた。

「で、な。
 ハダレ、お前の傷の話をしよう」
ぼんやりとした視線をこちらに向けているハダレに向けて、医者は何気ない風に語りかけた。
「とりあえず全身がいつもどおり色んな小さな傷で一杯になってるのはいいな。
 特に酷い打ち身は右の頬の奴だ。冷たい感触がするだろ?それがなくなったら交換するから」
言われて、ハダレはぺたりと自身の右頬を撫でた。
冷却シートか、湿布のようなものか。消毒されたにおいのする何かが張り付いている。
その上から包帯が巻かれている――右顔面を全て覆い尽くすような、酷く広範囲の巻き方に含まれるように。
「それから……右の手の甲。これは薬指のすぐ下のところにひびが入ってる。
 いつもやってることだからたいした事はないが、使えなくなったら困るだろ。だから、動かすなよ。
 それと、前に診たヤツ。腿の刺し傷はちゃんとふさがってた。
 ……尻のほうは、大丈夫だった。心置きなくトイレ行け。
 どの傷でもいいが、痛みが余り酷いようなら誰かとっ捕まえて言え。薬渡してやるから。な」
「……」
小さくハダレが頷く。
「……」
ふ、と。医者が小さく息をついた。
それとともに、最後の確認を取るようにゆっくりとハダレ、ウスライの順に見る。
これまで淀みなく流れるような説明を行ってきた医者の、精一杯の勇気が試される場所での、
最後の休息のようなものだったに違いない。
ついた息と同じくらい小さく細かな息を吸って、医者は告げた。
「それとな。
 ハダレ。お前の眼の事だ」
誰の表情も変わらない――沈痛すぎる面持ちが居並んでいた。
「お前はこのあたりから……」
医者が人差し指で、自らの額の下あたりを指す。そして言葉とともに、すーっと動かした。
「ちょうどこのあたりまで、鋭利な刃物で斬られた。
 そしてそのとき、目蓋ごと右眼球を負傷した」
ぼんやりとハダレは聞いていた。
語られる出来事に対して、実感はなかった。
「ちょうど瞳孔……黒目の辺りを綺麗に両断された状態だった。
 お前がここに着いたころにはもう眼球の中身が傷から漏れ出してて、
 ……もう治すことも、残しておく意味もなかった。
 よって……俺は、今日の朝方。ハダレ、お前の右の眼球を……摘出した」



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