代理戦争/最下層街編/続・喪失/4


「よって……俺は、今日の朝方。ハダレ、お前の右の眼球を……摘出した」

視界の広さとしてはいつもとおなじくらいで、余計に実感が湧かなかった。
ハダレは目を瞑った。そして違和感を探ったが、上手くいかなかった。
これほど大きな存在の放棄――さらに、本当に捨て去ったのかも自信がない行為に、
明るい意味合いは見出せなかった。
「……摘出した後は、顔面の傷の縫合をした。これも、悪いが跡が残っちまう。
 きっと中央なら……皮膚の移植でも、何でも……もしかしたら右眼をとって置く事もできたかもしれない。
 でもこれが俺の限界だった。
 ハダレ。お前の右眼を取り戻すことができなくて……すまない」
医者は、それこそ涙のたまった両目に真摯なまなざしをのせ、ハダレに向かって深く頭を下げた。
きっかり10秒ほど、禿かけた頭をこちらに向けている姿には悲壮感があった。
視界の隅で、ウスライが小さく身じろぎした。
右手を額にあて、まるで頭痛をこらえているかのように瞑目する。
看護師は身動きひとつせず、まるで床から生えているような姿勢で宙を見ている。

沈黙の中で、ハダレは気づいた。
誰もが、自分の答えを待っているのだ、と。ハダレが何か言葉を発するのを、3人は待っているのだとふと悟った。
医者は頭を上げるタイミングを、そこに求めている。看護師は次の作業に移りたいのだろう。
ウスライは、その2人の動作の続きを待っているのだろうか。
だが――何を口にすればいい?
ハダレは小さく首を振った。言葉にするものが見つからなかった。
おそるおそる、といった様子で首をあげる医者――カートに手をかける看護師。そしてウスライ。
期待というには希望はないが、それに似たまなざしを向けられる。
「……」
誰かが、終わらせられる雰囲気ではない。
だが、終わらないこの空気こそ深刻で重苦しく、誰もに苦痛を与える空気だった。
ハダレはほとんど義務感で顔を上げた。何も、言うことが思いつかないままに。

その違和感を感じたのは、場にいたハダレ以外の全員だっただろう。
力なく、小さく首を振ったハダレ。彼が顔を上げた瞬間、誰もが"その彼"を初めて見た印象に囚われた。
右半分を中心に、2/3ほども包帯で覆われたその顔。
いつもの彼であれば、その左側に生き生きとした青灰色の瞳を瞬かせていただろう場所には、
興奮型の『異』の発する滴るような生気が全く無かった。
涙を流しているわけではない。極度の疲労によってぼんやりとしているのでもない。
眠気もなければ、苦痛、悲嘆の何があるわけでもない。
逆に全てを奪い取られて、吸い尽くされてしまったかのように、
何も感じていないただの目がそこにあるばかりだった。
「ハダレ……」
医者が、思わず漏れ出させてしまったような小声で彼を呼んだ。
だが、反応らしい反応は無い。
呆然としているのとも違うだろう。彼の精神はまだ破壊されたわけではなく、思考している。
それでも彼がショックを受け、傷ついていることは誰にも知れていた。
誰も包帯が巻けず、痛み止めを打てない場所に付いた傷が、目覚めから少しして
ハダレに影響を与え始めたのは、見るに耐えない光景だった。
「……傷が癒えるまで、お前達がここにいる権利はある」
医者が言葉らしい言葉を発し始めると、看護師が作業を始めた。
ウスライ、ハダレの検温と点滴のパックの交換をてきぱきと行う。
治療に『協力的でない』患者も、当然のように慣れた様子で処置していく。
その切り替えのよさをうらやむように、
「ハダレから預かってる金があるんだ。こういうときのために。
 ちょっとやそっとじゃあ使い切れない額だから、安心して治療を受けて欲しい。
 お前達がここにいることはまだ漏れていないし、漏れたとしても移す先は確保してある」
医者が言う。
「何なら最下層街以外の知り合いに都合をつける算段もある。
 どうにだって、何とかする手段はあるんだ――それを使うつもりがあるかないかは別にして」
看護師は自分のなすべきことだけをこなしていく。
廃棄物の類をトレイに入れ、カートに戻すと、下段においていた紙袋をひとつづつ患者の前に置く。
ウスライが、沈んだ表情の中にいぶかしげな視線を交えるが、看護師は無視してカートの元に戻った。
「……何もできなかった俺が言える事でもないが、な。
 とりあえず今は食って寝て薬飲んでじっとして、傷を治すことに専念してくれ。
 以上があったらこいつにいって、薬の一つや二つなら出してもらってくれ。
 俺は、また明日、朝来るから」
2人に言い含めるようにゆっくりと言葉を締めると、医者は病室から出て行った。後を追うように、看護師も。
ぱたんと小さく扉が閉まる。

カーテンが閉じられ、扉も閉ざされた部屋には、怪我人2人が静かに放置された。
時計の針が一秒一秒を刻む音が気になるほどの静寂を感じて――ウスライは気づいた。
この部屋には2人の人間がいる。ひとつのベッドにひとりの人間があてがわれ、それがふたつ確実にある。
それなのに、ウスライが感じているのは紛れも無い孤独だった。
視線を己の周囲にとどめてさえおけば、自らは1人ではないことが嘘のような静寂。
身じろぎの音ひとつ、衣擦れの音ひとつしないというのは、
いくら行動を制限された怪我人が寝込んでいるとしても違和感がある。
小さく。
ウスライは視線を右に遣った。標的を捉えてから、ゆっくりと首をそちらに向ける。
首の微妙な運動とともに、結ぶことの珍しい黒髪がぱらぱらと肩から零れ落ちる小さな音がした。
――その音すら、隣にいるもうひとりより大きな音を立てていることにいっそうの孤独感が増す。
ハダレは先ほどと変わらず、顔以外は毛布に包まったまま身じろぎもしていない。
その顔さえ包帯で覆われているせいで、布の隙間から人間の一部が覗いているといった感じだ。
さらに言うならば、覗いている一部には生気がなく、まるで人形が仰々しく寝かされているようにも見える。
どうすればいいのか。
あるいは、どうもしないことをすればいいのか。ウスライは考えていた。
ハダレより先に目が覚めたと分かった瞬間から、この苦悩は始まっていたといっても過言ではない。
2人はあまりに多くのものを失った――特に、ハダレはことさら多くのものを失った。
その心が、酷く傷ついているだろう事は想像に難くなかった。
ただ、それをどう手当てしたらいいのか、それが想像できなかった。
血を流している場所にむやみに手を触れたら、痛みを与えるだけだ。だが、ほうっておけば治癒を促せるとは思えない。
化膿し、次第にいびつに塞がっていくのが目に見えるようだった。
そうでなければ――傷口が腐り、心が死んでいく、その過程も考えられた。
それを阻止するためには、適切に処置しなければならない。だが、どうやって?



「……ウス、ライ」
小さく声を掛けられて、はっとウスライが視線を集中させる。
ハダレがその視線を受けて、見つめ返していた。
「……ハダレ」
声の掛けづらさが先行して、詰まったような不快感を感じる喉から、精一杯の声音が出るのをウスライは感じた。
そのくらいしかできることがなかった。現時点では。
だが、何か一言でも発してくれるなら、会話の続きが望める。
あるいは何か身じろぎのひとつでもするなら、行動の続きが望める。
黒い双眸にほんのわずかな期待を交えながら、ウスライはハダレを見やった。できるだけ、何気ない風を装って。
そこに、鋭く切り込むような一言が放たれたのは、
ウスライの瞳に、ハダレの涙が一杯にたまった――
涙滴のなかに、あふれるような苦痛と、悲しみを湛えた瞳が映ったときだった。


「……死にたい…」


ウスライはとっさに顔色を失った。
何も言う言葉を思いつけなかった。
生存をあれほど渇望した青年が発したまさかの言葉に、全ての望みが断ち切られる。

その一言を残して、ハダレはゆっくりとウスライに背を向けて毛布をかぶった。
頭からすっぽりと一枚布に包まれた姿は、土葬を待つ大勢の死人の一人のようだった。
丸まったその背から泣き声や寝息が聞こえてくることは無かった。
ただただ、心ごと、ハダレは己を現実から遮断した。
――それは、一度は他人を迎え入れ、本来の働きを取り戻した『異』の環をハダレ自ら打ち砕き、
深い深い自閉状態に陥ったことを示していた。
生きていくことを熱望した青年の心は、その情熱と願いを失い、瀕死の状態だった。
その心が静かに身を横たえているのは、傷を癒す活力を得るためではなく、動く力が残されていないためだった。

ウスライは、何もできなかった。
あの滴るような、あふれるような生命力を宿した瞳の激変に、ただ戦いていた。
言葉を掛けることさえためらわれて、ウスライは呆然とその背中を見つめることしかできなかった。

その晩、ふたつの床から寝息が聞こえてくることは無かった。



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