代理戦争/最下層街編/続・悲愴/1


翌日の朝、医者に「なぜ夕食を取らなかった」と叱られて、
ウスライは初めて渡された紙袋におよそ病院食らしくない食物が入っていたことを知った。
柔らかいパンに、トマトソースでくたくたに煮込まれた野菜と鳥のささ身が挟まれているそれは、
一晩放置されたことでカリカリに乾いていた。
生ぬるくなったオレンジゼリーが回収されていくのをぼんやり眺めていると、
目の前にまた新しい紙袋が置かれた。
昨晩と同じような材質――味気ないわら半紙色だ――であり、似たような場所にラベルが付いているのを見て、
同じ店で買い求めたものだということが知れる。

カサカサと音を立てながら開くと、中からはこぶし大のパンとプラスチックのパックが出てきた。
パックは2段重ねになっていて、上段にハムとゆで卵、下段にサラダが入っている。
ウスライが紙袋を逆さにして振るとマーガリンやドレッシング、使い捨てのフォークがぱらぱらと落ちてきた。
――それが、病院での朝食の全てだった。
「何か文句があるのですか」とでも言いたげな、看護師の冷厳とした視線に押されて
ウスライはそれを口に運んだ。
実際にそれほど文句があるわけではなかった――ただ、自身の常識を少し打ち破られたというだけで。
いざ口にしてみると、奇抜ではない味は空腹を満たしてくれた。
医者と看護師がいる前でそれを平らげるのは爽快な気分とはよべないが、
それでも十分と経たないうちに食べがらを看護師に渡すくらいには空腹が勝っていた。

看護師が空いた袋をトレイに戻す間に、医者はじっともうひとつの袋を見つめていた。
まだ、毛布に包まったままのもう一人の患者は、朝食に手を出そうとは思っていないようだった。
しばらくためらった後、医者と看護師はそれをそのままにして部屋を退出した。
空調の風にあわせてカサカサと小さな音を立てる紙袋は、結局昼間でそのまま手をつけられなかった。


その日の昼食も、夕食も、ハダレが手をつけることは無かった。


時折、ハダレは毛布から身を起こした。
そのたびにウスライは、食事を取るのではないか、言葉を発するのではないかと期待した。
おおよその期待が裏切られた。
ハダレは水だけは口にしたが、一切の食事を拒否しているようだった。
だが、わざと飢えて死のうという馬鹿な事を大真面目にやっているわけではない。
本当に体が受け付けないか、空腹を感じていないのだろう。
その証拠のように、ハダレは数時間に一度、内容物の無い胃を振り絞るようにして吐いた。
胸から込み上げるものを吐き出す音は耳に心地よいものではなかったが、
衰弱しきった彼の背中が震えるたびに、ウスライの脳裏に不快感以外のなにかが浮かんでくるのを感じた。
青年がもぞもぞと毛布の中に戻っていくたびに、
ウスライの胸をもやもやと覆うそれが密度を増していく気がした。
コルセットで拘束された胸の奥底が息苦しさを増す。
耐えられないほどの苦しみではなかった。今までは耐えてきたのだから。
だが、それを吐露する安堵を瞬間を知ってしまった体では、より耐え難いものとしてそれが感じられた。

翌日にはもう手を出すだろうと思われた食事。
医者は大盤振る舞いで、近くの食堂から皿ごと借りて、出来立ての洋食を出した。
ウスライは苦心しながら、右手だけでそれを平らげた。冷めたパンよりは美味に感じた。
医者も何のかんのといいながらその場で食事を取った。
場を盛り上げようと、さまざまな話題を振った。ウスライは出来るだけ同調した。
――ハダレは顔も上げずに、自分の殻に閉じこもっていた。
ぴくりともしないその毛布のふくらみに、ひょっとして眠っているのではないかと思い、
看護師がそれに手を掛けた。起こして検温しようとしたのだ。
そのとき、毛布の隙間から手が伸びてきて体温計を受け取った。
驚く面々をよそに、きっちり3分後に再び腕が伸びて、体温計を返した。
熱自体はそれほどたいした事はなかった。看護師は何事もなかったかのようにそれを記録した。
皿を下げるときだけ患者の様子を気にしたようだったが、始終平然とした顔の看護婦はいつもと変わらなかった。
医者とウスライだけが、酷く沈んでいた。
ハダレの思うところは分からない。ただ、重い沈黙だけを誰もが感じていた。


翌日の昼、医者とウスライは何とかなだめすかして食事を取らせようと、
ハダレの体を包む毛布を引っぺがした。
抵抗も無く、するんとめくれた毛布の中から姿を現したハダレの顔は酷くむくんでいて、隈ができている。
衰弱していたが、それ以上でも以下でもなかった。
医者は気をそがれたようだった。
泣き喚くとか、手当たり次第に物を投げるとか、いっそ積極的に自殺しようとする、
そういった行動で感情を表すような荒れた患者の面倒は多く見ていたようだが、
こういう形で表現されたときの経験は少ないような様子で
医者はハダレに鎮静剤を打つことを勧めた。
ハダレは黙って腕を差し出した。
痩せた中にも張りと強靭さを持ち合わせていた肌は、こんなに早く現れるのかというくらい
持ち主の栄養状態を反映していた。
苦労して血管を探し当て、医者はハダレの腕に針を刺した。注射だった。
ピストンが押し込まれてそれほど長い間を待たずに、ハダレは眠そうな様子を見せた。
しばらく様子を見た後に席をはずした医者に代わって、いくらか体調の回復したウスライが
見舞い用の椅子に座ってハダレを見守った。
ちらりともウスライを見ずに、ハダレは瞑目した。
それを見守りながらウスライが感じたのは、
適正な量で、適当な用法だというのに、薬剤で人が眠っていく姿への不健全な雰囲気だった。
否応ない場所に無理矢理引き込まれていくのが死に似ているからだろうか。
あるいは、欲しがっている物を欲しがっている者に与えて満たされる姿が見苦しいからだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えては、こんな考えこそ不健全だと思い直して首を振る。
数回それを繰り返してから、ウスライはハダレを見た。

毛布に包まりなおす暇も無く眠りに落ちたハダレの顔は、まるでミイラのように包帯が巻かれている。
毎日交換しているその長さが半端なものでないことはよく知っていた。
だが、その様子を正面から眺めることは避けていた。
ハダレは、まだ自らの傷を見ていない。
直視するにはショックが大きすぎるという医者の配慮で、鏡はもちろん、
なにか顔を映しそうなものは病室から取り除かれていた。
そんな中で、ハダレがその傷を負い――
さらに深く心を傷つけさせた直接の原因である自分のほうが先に傷跡を見るのは、躊躇われた。
そんな言い訳をしていた。

その時胸を占める感情は恐怖に似ていた。
快楽犯罪者が法廷で初めて自分の罪状の重さを知るように、親に殴られた子供のように、
その傷跡を見ることで自分の行動の結末をまざまざと見せ付けられることが、
これまでになく恐ろしかった。鋭いナイフをつきつけられるより、背筋が冷えた。
そして、そのような恐ろしさを隠してもっともらしいことをいってあさっての方向を見ている、
そのときのウスライの心をきつく締め上げる感情こそ――
――これまで頑なに否定し、無視し、踏みにじってきた、自身の持つ『罪悪感』だった。

ウスライの前で、ハダレが見せたさまざまな表情や感情。
飄々とした軽薄ないつもの笑顔、だるそうな寝顔、敵を一切妥協なく仕留める残酷さ、
たった一つの願いを口にしたとき、溢れ出そうな好意を伝えてきたときの真剣な表情、そして落ちることのなかった涙滴。
その全てから発せられていたハダレらしさ。それは、生命力そのものといってもよかった。
感情を駄々漏れにしているのとは違う。
むしろ野生の強い制御を強いられているのは、興奮型の『異』を持つハダレの宿命といってもよかった。
その中で溢れ出る、隠しきれない生への渇望。興味。好奇心。意思。
――そういったものを、根こそぎハダレから奪い去られてしまう未来。
自身の一挙手一投足がその無惨な未来を現実のものにしてしまう方向へ向かっていたことを、
ウスライは心の底から後悔し、ハダレへの罪悪感を募らせていた。
もしも、あの廃墟の戦いでハダレを守りきれていれば。
もしも、ハダレを救うことを最初から決断していれば。
もしも、自分が単純にもっと強ければ。
『もしも』『もしも』という数々の仮定の上に、明るい理想的な未来が妄想のように広がっていく。

最初は、相手が『異』というだけで卑屈になっている自分がいた。
しかしそういったものと日々触れているなかで、ウスライの心はわずかにだが動かされるようになってきた。
隠し通すことに、疑問を感じた。ほんの少し吐露したら、ハダレは笑顔でそれを迎えた。
暴かれた心は、羞恥や怒りの後にはさっぱりとした開放感を感じた。
隠し通すことは、もはや美徳ではなかった。それを理解してくれる誰かがいるのなら。
また、それに気づいた瞬間、もうひとつの事実に気づいた。
その誰かを失うことを、密やかに自分は恐れているということを。
そして恐れるほどに、その事実が自分にとって大切なものになりかけていることを。

そしてそれが失われようとしていた。
涙で湿り気を帯びた瞳に、あの生気はもはや痕跡もなかった。
ウスライの胸を冷ややかに貫いたあの『異』のまなざしよりも深く、乾ききったそれは深く突き刺さった。
そしてウスライを寄せ付けなかった。
男のまなざしの一片すらやんわりと跳ね除ける檻ができたような錯覚を感じるほど、
ウスライの罪悪感と、ハダレの傷は深かった。



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