代理戦争/最下層街編/続・悲愴/2


無抵抗に眠らされたハダレには、しばらくは目覚めないという確信があるせいか、幾分近づきやすかった。
ウスライは椅子に掛け、まだ本調子ではない体をハダレのベッドのすみに預けるようにして青年のそばにつく。
寝息は細く、いびきもないせいか、ふとした瞬間に見失いそうだった。
それでもまだ生きている。深く傷ついてはいても、正気を保ったまま帰ってきてくれた。
その事実だけで、ウスライは随分と救われている自分に気づいていた。
一度、ウスライはハダレを諦めようとした。
もしもハダレが無事ではなかったら、自身がひどく打ちのめされるであろう事は認識しながら。
それでも、紆余曲折の後にだが、ハダレは戻ってきた。
とりもなおさず、それはウスライにもう一度チャンスが与えられたということだった。
今こそ応える。そのチャンスが。

そっと伸ばされた指先が、ハダレの髪の毛に触れた。
寝癖が酷い毛を撫で付けるように、丁寧な手つきで、ウスライの指が動いた。
自然な愛撫だった。
この三週間の間にも少し伸びたようだ。茶髪の根元に、はっきりと天然の髪色が段差のように出ている。

暗さを帯びた赤毛。

――それは、いっそうウスライを責める色でもあった。
だが、もう目を背けることは出来なかった。
まずは額を地に擦り付けて謝るところから全てをはじめよう。
どんな反応をされようと、そこは挫けてはならない。
奪ったものが多すぎた。そしてそれはすべて自分の挙動が成した事だ。それを告白して頭を下げよう。
そのあとで、もしも弁解の機会があれば――応えを口にしよう。
ウスライはハダレの頭を撫で続けた。ぴくりともしない青年を慰め、逆に縋るように。
その様子は、まるで腐りかけた卵を暖める親鳥のようだった。


薬によって導入された眠りは深く、ハダレは夕食時になっても目を覚まさなかった。
ウスライは一刻でも離れがたいというように、傍で食事を取り、検診を受けた。
医者と看護師は何も言わず、消灯時間になったら戻れとだけ命じた。
言われたとおり、ウスライは消灯時間に自分のベッドに戻り、
看護師の見回りをやり過ごしたあとで椅子に掛けなおした。疲れると、上体をベッドに預けた。
ハダレの腕には、新たに点滴が追加されている。手の甲に打たれたそれは、栄養剤だった。
もともと、ハダレはストレスが食欲に出やすかったという。
興奮型の性が欲の発散にあるとすれば、代理戦争で発散した直後にまた多大なストレスを抱えることになる。
ストレス――罪悪感。自分の生の糧となって貪り食われた、敗者たちへの。
戦場へたてば、強制的に他者への征服欲や支配欲が表へ出てしまう。
よって、ストレスが影響するのは基本的欲求のひとつ――食欲の減退、不振につながるらしい。
それでも今回のように全く食事を取らなくなるのは初めてだ、と医者は漏らしていた。
点滴の薬液が一粒、二粒落ちるたびに、ウスライの胸に澱のように罪悪感が募る。
――胸に重く圧し掛かり、逃れられない苦しみ。
ハダレも、ずっとそれに耐えてきたのだろうか。それも、たった一人で。
涙もこぼさずに。

自然とまたウスライの手が伸びていた。
ハダレの眠りを妨げない程度に触れながら、じっとその寝顔を見つめた。
もう、彼の右眼が誰かの気持ちを、そして未来を見ることはない。
ウスライの胸のうちを暴露することも、ない。酷く切なかった。
その代わり――近づきやすく感じられるのは、きっとまだハダレへの『異』としての畏怖が消えていないからだろう。
かすかに自嘲しながら、ウスライは思った。そして決意が固まっていくのを感じた。
近付きやすいなら、近付こう。
ハダレが暴露できないならば、自分で露にしよう。
そして、……近付いた分だけ、ハダレを理解しよう。
自分とハダレは違う。何が同じかを見つける方が難しいくらいに何もかもが違う。
それでも理解できるところがあるなら、それを見つけ出したかった。
何もかもを汲み取れるほどウスライは思い上がってはいない。ハダレではないのだから。
だが、そうすることこそ――今まで逆に暴露されることのなかった、ハダレの傷への慰めになるのではないだろうか。
少なくとも、自身はそうだった。

ウスライは胸に手を当てた。慰められたものがあるとすれば、そこに存在していると思える場所に。
そこは、十分な力強さで拍動していた。
力の燐片を感じた手のひら。それを、ウスライは再びハダレへ触れさせた。
もらったものを、そのまま返す。そういったしぐさだった。
その晩ウスライは夜明け近くまでハダレの隣にいた。
何もすることがないはずなのに、退屈さはなかった。いつかのハダレも、そうだった。


翌日。ハダレが食事をとらなくなって5日目。
朝の検診で、ハダレの胃腸と口内の荒れがひどくなっているのを見かねた医者が、
少量の緩いゼリーに薬を混ぜたものを出した。
飲めと促され、ハダレは身を起こそうとした。が、起き上がれなかった。
突いた肘が震えて、体を支えきれずに崩れ落ちてしまうのだ。まるで小鹿だった。
さじに何杯もあるわけでもない薬さえ飲めない姿には、王者の面影はなかった。
結局看護師がさじを口元まで運び、ハダレは何とかゼリーを飲み下した。
――それも、消化されないうちに吐き出してしまった。
吐き出したものはほんの少しで、薬の苦い匂いがした。それ以外の臭気はなかった。
もちろん食事は取れなかった。その代わり、点滴が増えた。
衰弱が激しかった。元々病弱な人物ならまだしも、普段が普段だけに、そのギャップがいっそう痛々しかった。
そして弱音がないだけ、怖かった。密やかに崩れていく感じがしていた。
それでも、ウスライは諦めなかった。
ほとんどの時間を、ハダレのベッドの隣で過ごした。
医者と看護師の来る時間だけおとなしそうに自らの床にいたが、それ以外はたいてい空にしていた。
そんなことはわかっているのだろう。それでも、医者は何も言わなかった。
隣にいるからといって何をするわけでもない。
ハダレが閉じこもっているときは何もしないで見守った。寝ていれば、髪を撫でる。
どちらか分からないときは、自分の休息を取った。
ただひたすら待っているようでもあったし、何かを起こすために傍にいるような気もしていた。

そうしている間、ハダレは一度としてウスライと目を合わせようとはしなかった。
ふらつく脚で排泄に向かうときも、それができなくなっても、頼るのは看護師だった。
もちろん、左腕を骨折しているウスライに出来る手助けなど限られている。
しかし、『困った』の一言もウスライに言わずに、ハダレは細い生を繋いでいた。
――まるで、視界に彼を映さないように、わざとそういうやり方を選んでいるように。

冷たくなった相貌は、表情を作り出す素が枯渇してしまったようだ。
何を見ても、どんなに苦しくても、初めの日に見せた涙の粒の後は表情らしい表情は見せなかった。
鎮静剤を投与して強制的に眠らせられ始めた3日目からは、体のリズムと薬が合わないためか、
それとも傷の痛みを和らげるための薬もあるためか、朦朧としていることも増えた青年。
彼の眠りには、夢がなかった。
薬ですとんと落とし込まれる睡眠には、幸いなことに悪夢はなかったが、愉快な夢もなかった。
夢のない眠りにつくハダレの寝顔は、やはり無表情だった。
ウスライのそれがうつったように、硬くなった頬は、栄養不足でやつれたようだ。
その上でちらちらと瞬く瞳は、ぼうっとしてほとんど何にも集中することがなかった。

死んでしまったのだろうか?彼の心は。
ウスライがその双眸でいくら見つめても、答えは分からなかった。
今こそハダレの『異』がうらやましいと、男は思った。
それがあれば、表情のない彼から感情の一片も読み取れただろう。
そしてその心が今も息づいているか、はっきりと見て取れたのに。
だが、それこそ仮定の話だった――どうしようもない、夢想だった。
今こそウスライは応えなければならなかった。ハダレが自分に与えてくれたものに、そして彼から奪ったものに。



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