代理戦争/最下層街編/続・夢遊/1


真っ白な天井を見つめる間も、真っ暗な夢をさまよう間も、
ハダレは空腹も気分の悪さも感じていなかった。
全てを超えた感覚、とでも言えばいいのだろうか。
強烈なひとつの感覚にかき消され他の感覚がほぼ気にならないような、
とるに足らないもののように思えるような、
そもそもそんなものを持ち合わせていなかったような、不思議な感覚だった。
空腹。自分は、それに悩まされ続けてきたはずだった。恵んでもらった時もあった。ごみをあさった日もあった。どんなものでも、口にしないでいることは死を意味した。あの日の少年は必死に生きていた。
苦痛。自分は、それに悩まされ続けてきたはずだった。殴られたことがあった。犯されたときもあった。言葉で心えぐられた日もあった。それを無視し、ときに抗って、少年は生き続けた。
生き続け、成長する少年はいつしか、いつどこで途切れても可笑しくない細い運命をたどり十分に生き抜く力を備えた青年となった。どこの誰でも名前くらいは知っていて、強くて、危なげない。そんな青年に。
それでも飯を食わなければ死ぬ。苦痛なくして生きていける日はない。
今まで、そんな風に、あたりまえに感じていたそれらが急に消失する。
そして胸を責める真っ直ぐな痛みだけが現実感を持つ。

その痛みの重さに。
急に、ハダレは全てが無駄だったのだと悟った。

いつか、人は死ぬ。
老衰か病死か、はたまた殺されるのか、それは分からないが、必ず。
幸せは存在しない。幸せという物質はいざ知らず、その状況は確固たる存在ではない。
奇跡は起きない。遠いどこかに売られた兄弟同士が健康で昔のまま再会は出来ない。
努力は報われない。全ては偶然が支配し、そしてより悪い未来へと近づいていく。
人を信じることは出来ない。努力とそれは同等だ。期待すると馬鹿を見る。
そして『異』は愛されない。生きていくことすら贅沢な中で、最上級を求めることが間違いだった。
それら全てに、本当は期待していた。
どれだけ筋肉をつけ、戦闘に慣れ、シビアな人間関係を渡り歩いていても、
昔の過保護で甘ったれた自分の中にあったものはそう簡単に変わらなかった。
どこかでそんなものが自分に関わってくることを待っていた。
そしてそれは起きなかった。
一瞬、黒ずくめの男がそれではないのだろうかと思ったけれど、
彼はただの必然であって、奇跡の類ではなかった。
その証拠に、彼自身も兄を失い、そして自分の前から立ち去ろうとしている。

心の根幹を打ち抜かれたその感覚は、酷く痛みを伴っているようでもあったし、最初に言った不思議な無感覚でもあった。そしてその痛みと不思議な感覚は、ハダレの張り詰めた心を崩れさせ、無気力にするには十分だった。

ハダレの心はその体と似ていた。
一見五体満足な形をしていて、十分な強度を持っている。だが、傷だらけだった。そこに足元を崩すような衝撃が幾度も加えられた。血溜まりの中に倒れた兄は、弱弱しい息で命をつないでいた。
ウスライを守るために、その兄を明確な殺意をもって殺した。
そしてその代わりに、自分の唯一の持ち物を失った。それはなくした多くのものとの絆を象徴していた。
気づけば、ハダレは全てを失くしていた。率直な悲しみが胸を貫いた。後悔が胸にあふれた。本当は涙になって落ちる分までとどまり、胸に漣のように何度も押し寄せる。

それを零さないのは、最後の誇りのようなものだった。それ自体に大した意味があるのではなく、ある種の惰性で、それを捨てることが余りに空しいから続けている。
自らの糧となった人間を悼む人間らしさ、そして罪悪感を持ち合わせているという最後の印。野生に追い詰められたときはそれを失っていても、『異』を持つ『人間』として、それを持ち合わせているという事実は変わらない。だから、目に一杯それを溜める。
けれど『異』に振り回される自身の苦痛を認めることこそが、犠牲者への冒涜となる。
だから、最後の印は流さない。たとえどんなに強い苦痛を受けても、悲しみが大きくても、生きている限りはそれを許せない。
そして『許せない』という現状を変えてしまったら、今までの自分のしてきたことが、
全て無意味なものへと変貌してしまう。自分は最低の殺人鬼に成り下がってしまう。
自己満足に過ぎなくても、それでもいい。
完璧で傷のない美しい心をこの状況で保っていられることほど不気味なこともない。


だが、ハダレは自身が少しだけ変わってしまったことを自覚していた。

はじめは、ほんのありきたりな憧れとか、うらやましさだった。
単純に、彼が自分より強かったから。
一見冷徹なほどの無表情さを保った顔が、自分が今まで意識してきた『涙を流さない』という忍耐をあっさりとこなしてしまいそうだったから。
そしてその顔が綺麗だったから。
その後の戦いで、日々をすごす中で、ハダレはちらちらと彼の内面を伺う機会を持った。
ともに過ごした短い期間の中でも感じられた、相手のかすかな感情の起伏は、
『憧れ』という関係性の中の尊敬とか畏怖を薄めて、『好意』に近づけた。
そしてビルの屋上に立ったとき、ハダレはその気持ちが何なのか、はっきりと悟った。
あの黒ずくめの男の傍にいたい。あの男に認めて欲しい。そして彼を信じていたい。

それは、ハダレという一人の『異』が、ウスライという人間に惚れた瞬間だった。

一人でいることを義務付け、そして一人であっても泣かないことを決めた青年が、
初めてそれを自覚した瞬間に、彼の世界は変わってしまった。
あの奴隷と同じように。
本来は自分ひとりだけでなく誰かを守るために残されてきた『異』が、
正当な世界観をもとに本来の効果を生み出すことが出来るようになった。
そしてその代わり、もう一人でいることはできないような気にさせていた。
借りた肩から伝わるぬくもりと存在は、忘れるには心地よすぎた。
本当は取りすがって、泣き喚いて言いたかった――どこかへ連れて行って欲しい。ずっと、一緒に。
ただそれは出来ない願いだと分かりきっていた。
彼は彼の故郷がある。仕事がある。事情と感情がある。自分と同じように。
だから一緒にはなれない。よって、自分はまた一人で生きていく必要があった。
そうなったとき、果たして今の自分がきちんと自立できる自信はなかった。
薬や酒は嫌いだ。あれは理性を失わせる無意味な娯楽だから。
だが、次に自分がどこか別の街でそれに手を出さないとはもう言い切れなかった。
身を持ち崩した者たちが、なけなしの金を持って店に向かっていく姿を何度も目にした。
彼らは彼らなりに耐え難いことがあったから、ああなった。
自身はどうだろう。
腕に何本も点滴を刺し、鎮静剤でフラフラになっても、それで眠れるならと投薬を拒否しないでいる。何も変わらない。彼らと、なにも変わらない。
ふと、ハダレは想像した。
廃墟の片隅で使い捨ての注射針とアンプルと酒瓶に囲まれてミイラ化した誰かの死体。
その右眼は空洞になっている。体は痩せ細り、そして次の住人に蹴り散らかされ朽ちて行く――……

そんなものかもしれない。人は必ず死ぬのだから。
13才のとき行き倒れて死ぬか、18才で奴隷として売り飛ばされた先で死ぬか、中毒で死ぬか。
行き着く先が同じなら、それほど死に方にもこだわる必要ない。
そう――たとえば、このまま衰弱死するのでも構わない。

それを思いついた歓喜があるのでもなく。また、寂しさがあるわけでもなく。
ただ、それもいいかもしれないとは思った程度のことだ。中毒死するよりは楽そうだ。
もう自分には何も残っていない。
身を削って守るものも、逆に死ぬのをためらうほど縋れる相手もいない。
医者には申し訳ないと思う。だが、ハダレは死を拒絶はしなかった。
日に日に、出来ることが少なくなっていく。
食物をとること。
充分な量の水を飲むこと。
用足しに立つこと。
起き上がって薬を飲むこと。
はっきりと意識を保ち、会話らしい会話をすること。
また明日にはなにか出来なくなっているかもしれない。
だがそれを悲しく思うことはなかった。
全てが億劫だった。止まるなら呼吸さえ止まってもかまわなかった。
あれほど生きていたいと熱望していたのがうそのように、その情熱が消え去っていた。

何かを聞くのも。何かを見るのも。何かを味わうのも。しようとは、もはや思えなかった。
唯一感じているのは、髪に触れられているような、夢心地の触感。
まるで兄といつも一緒にいた頃の思い出を延々と繰り返しているような、懐かしくて心地いいそれだけだった。



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