「……ウスライ。そろそろちゃんと、ベッドで寝ろ」
医者が毎夜毎夜そんな言葉を掛けるのも、いつものことになりかけていた。
夜の検診を終え、食事の容器を回収する頃にぽつりとそうもらす。
「分かってる」
それに顔も向けずに応えるウスライ。無論従うつもりがないとでもいいたげな背中は今夜もハダレの側についているつもりのようだった。
このやり取りがもう10日も――ハダレが食事を取らなくなってから、明日で二週間目になろうとしていた――続いている。
「お前も怪我人なんだぞ」
「分かってる」
「いいか、医者の命令だからな」
「あぁ」
小さな息に乗せるようにして吐かれた言葉は、医者にはっきりと今夜彼がどうするつもりか伝えていた。――ウスライは、今夜もきちんとした睡眠をとるつもりがないようだった。
かすかに疲れたような背中。
隈が出来るほどではないが、寝不足気味ではありそうな双眸。
それでも、『疲れ切った』様子ではなかった。
むしろ、なにかに向かってひたむきな情熱を傾けるような、不思議な熱さえ感じられるそれらに、医者は強く命令することが出来なかった。
かといって、安静にするつもりのない患者を放っておくのも躊躇われる。
そんな雰囲気を全身の毛穴から放出していそうな、医者の足取りはひどく緩やかだ。
「……おやすみ」
小さく鼻を鳴らして、医者は部屋を立ち去った。
扉が閉まる直前、看護師と思しき足音がぱたぱたと廊下に響くのが耳に届く。
そして少し急いたようにささやく。
急患か何か、あるいは問題が発生したのだろうか。
階下の事務室権控え室に戻る2人の足音が、なんとなく慌しさを含んでいる。
――が、それもすぐに消える。
いつもどおり、病室は2人きりになった。
ハダレはまたうつらうつらとしていた。
手術から日が経ちいくらか傷の腫れが引いてきたため、痛み止めとしての注射が減ったためだろう。
眠りにハダレが落ちていることは当初より少し減ったが、
完全な覚醒はなかなかなかった――というか、見分けがつきにくかった。
それでも、ウスライは手を伸ばしてハダレに触れ続けた。
応え――今度は、求めて。
ハダレが戻ってくる保証はなかったが、それでも待ち続けた。
忍耐。そういった言葉が何度も胸をよぎった。
これまでも年単位でしてきた行為だが、このたった10日はとても長く感じた。
ウスライは少し疲れた上体をハダレのベッドに伏せた。
左腕を巻き込まないように気をつけると、ちょうどハダレの髪に触れるのに
具合いい程度の場所に陣取ることが出来るのをここ数日で学んでいる。
「……ハダレ……」
小さく呼んでも、返事はない。寝言のひとつもない。
それでもその青年は信じる価値があると思った。だからこうして側にいる。
少しだけ眠たくなってきた。昼間にこっそり睡眠をとっているが、
看護師に見つかると起こされるので充分な睡眠量とはいえない。
ウスライは手を伸ばしたまま、そっと目蓋を閉じた。
側にいても返事どころか反応もない、それでも隣人の心地よい存在感を感じながら、
男は浅い眠りに落ちた。いつかの浅い眠りとは違う、その先に危機ではないものが待っている予感のする眠りに。
一方のハダレも、浅い眠りと夢の混じった中をゆらゆらと漂っていた。
夢と現の区別がつかないのはとても楽なことだった。
ある種究極的に自己中心的な世界だったから。
思い出と妄想で痛みを薄めても咎められることがない。
涙をこらえるのに疲れてしまったから、と言い訳をすればいつまででも浸っていられるところは、今のハダレにちょうど良かった。
現実を直視することはとてもつらいことだった。
その証拠に、ハダレは『いつでも眼帯で直視を避けてきた』。
綺麗で優しい記憶と過去は、いまや眼帯と同じ役目をしている。
ハダレの中で兄といえば拘束衣の奴隷ではなく、普通の若者らしい格好をした十代の青年だった。
ハダレの寝床といえばベンチでなく、マットレスのあるベッドだった。
そしてハダレはまだ十代前半の少年だった。
そのキャストのまま、延々と思い出の上演会をしている。実に不毛な夢だ。
だがその充足感たるや生半可なものではなかった。
ひとつひとつは取るに足らない思い出なのだ。
会話の端々。
遊んでもらったこと。
並んで勉強したこと。
水浴びをしたこと。
けんかをしたときのこと。
空の話をしてもらったときのこと。
外を教えてもらったときのこと。
抱きしめて、泣かせてくれたこと。
最後に会ったときのこと。
だがそのひとつひとつの小さなものを時系列で並べたり、関連する記憶を掘り返していると、ハダレのなかにあるものは、改めて兄から譲り受けたものばかりであることに気づくのだ。
今よりいっそう細く幼かった自分の足元は、常に兄によって支えられてきた。
何があっても最後は彼に行き着くのだ。
ハダレの中の記憶は強大すぎた。失ったということがきちんと受け入れられない。
そのくせ、失った痛みを忘れようと必死に記憶で目を覆っている。
ハダレは夢の中で何度も目蓋を閉じた。
苦痛から逃れ、新しい夢を見ようと目蓋を閉じるたびに現実が遠のいていった。
「……、……」
小さく揺すぶられて、ハダレは目も開けずにうにゃうにゃと適当に返事をした。
まだ眠いとかなんとか。そんなようなことを。
体表は適温に保たれた空気と柔らかい毛布を感じていた。不快な要素はなかった。
――そこできゅっと鼻をつままれた。
「………………」
さらに口を手で覆われ、それでも起きるまいと意地になるハダレ。だが、
「……!」
一分も経たないうちに、飛び起きて手を払った。真っ赤な顔で深呼吸していると、
「おはよ。ハダレ」
隣に兄が座っていた。にこにこと温和そうな笑みを浮かべている。
その笑顔に、ハダレは口から漏れかかっていた文句を飲み込んだ。
気がそがれた、というヤツだ。
「……おはよ。兄ちゃん」
遠慮なく大口を開けて欠伸をするハダレ。その頭を軽く叩くように、兄の手のひらが掠めた。いつものことだった。何かにつけ、兄は目線より下にある自分の頭に触れることが多かった。
「眠い」
しょぼしょぼする目を擦りながらベッドを降りる。降りた先の床はカーペットで覆われ、室内でしか活動しないハダレの足裏をふわっと包んだ。
とろとろのんびりと歩くハダレ。
それを続くように、兄もベッドから腰を上げてハダレを追う。
「顔を洗えばそんな眠気吹っ飛んじゃうから」
数歩もしないうちに追いついた兄は、ハダレの今より随分と狭い肩幅を確かめるように手を掛ける。そのまま洗面所にやんわりと誘導する。
行き着いた先の『洗面所』には近代的な洗面台はない。
構造そのものは似ている。盛り上がった台があり、真ん中はくぼんでいて、さらに下水を通す穴が開いている。
――ただ、それは石造りで、水漏れのないように上から漆喰のようなもので固められている。そして上水道はない。
なぜか。
それは、この『異』の地では水が貴重だからだ。
兄はまだぼーっとしているハダレをよそに、洗面台の傍にある大きな瓶の蓋を取る。
ほっそりした少年時代のハダレなら入ってしまいそうな瓶には、水がたっぷりと入っている。
それを洗面器にくみ出し、目の前の台の底においてやる。過保護なほどの兄の仕事のひとつがそれだった。
「はい」
差し出すと、寝ぼけ眼の中にも感謝を浮かべた弟がにこりと笑った。
「ありがと、兄ちゃん」
てへへと笑い声を出しながらそっと手のひらを水に差し入れる。
特に冷却されているわけでもない常温の水は、それでも目覚めの感触をもたらす。
ぴちゃり、ぴちゃりと雫を跳ねさせながら小さな手のひらが水を掬い顔を濡らした。
その一挙手一投足を優しく見守る視線――ハダレには、兄が常にいた。
顔を上げ、手のひらで上から下へ撫でて雫を切ると、右頬にふわっとしたものが触れた。
兄の差し出したタオルだった。
少年の日のハダレは最小限の動作で全てを済ませることが出来る。
「また、零して……」
ハダレのあごから滴った水が流しの下に落ちた。あきれながらも、兄がそれを拭ってくれている。
ぼんやりとそれを感じながら、ふと洗面器のほうに目を遣った。
波立つ水面は洗面器の半分よりつかった水の分だけ下がっている。
洗面所の壁――台と同じく、石造りの――に取り付けられた明かりが、
まるで朝日のようにきらりと水面を光らせている。そこに映る幼い日の自分。
「……ハダレ?どうかした?」
急に動きを止めたハダレを心配したように、兄が肩に手をかけて顔を伺う。
必然的に、兄も水面に映る。
当時のハダレと兄の年の差は片手で足りるほど。つまり、12,3歳の弟には17,8歳の兄が存在することになる。
そして最下層街での5年を経た今、ハダレと当時の兄は当然同じ年頃になっている。
「……!」
その存在を確かめるように、肩越しに兄を振り返る。
髪をしっぽのように括った兄は、少し首を傾げて微笑んだ。穏やかで、綺麗に目尻まで笑みで満ちている。
「……」
なんとなくほっとするものを感じながらハダレは視線を戻した。
そして再び凍りつく。
豊かな赤毛に恵まれた兄弟。面立ちの隅々は異なるが、共通する青灰色の印象的な視線。
そこに映っているのは当時の兄と、片目が潰れた現在の自分だった。
疑いようもなく、兄弟と分かるほどに似ている。
ハダレはタオルを投げ出して水面を叩いた。
洗面器に半分も入っていないはずの水が、なぜかハダレの半身を濡らすほどに盛大に飛び散る。そしてわずかに残った水面に、新たに映ったのは――
「――〜〜〜――ぁ゛あぁああっ゛あぁぁ゛あぁああ゛あ゛あ゛――――!」
恐慌状態に陥りながら洗面器を遠くに投げ捨てる。水面だったものがぱんと弾けて、そこらを水浸しにする。
はっ、はっと息をつきながら洗面台に手を掛ける。
そこに、そっと手が重なった。
黒と革で構成された、拘束衣をまとった温かい手が。
「せっかく拭いてあげたのに」
苦笑するような声が、耳元をくすぐった後鼓膜をノックした。
恐ろしくて振り返れない。まるで、よく研いだ刃物を突きつけられて後ろから脅されているようだった。
器官が恐怖に凍りつく。上手く息ができない。身動きが――
「ッ……」
「緊張しちゃって」
ふっ……と吐息を吹きかけるような要領で注ぎ込まれた声。そして舌。
軽く歯を立てられ、耳たぶから総毛立つ感覚が広がる。
「やめろ!!」
重ねられた手のひらごと、振り払い逃れるように離れる。
ぞっとして見返すと拘束衣の男がきょとんとしたような曖昧な笑いを浮かべている。
振り払われた手をそっと胸に当て、解せないというように一歩近づく。
「逃げるの?」
「……ッ!」
水溜りに脚を取られ、這うようにして逃れる。が、はっと生臭さに気づき、水浸しの自分の体を見下ろす。
血だ。
思わず固まるハダレに圧し掛かるように兄が膝を割った。
「ねぇ、逃げるの?」
すぐ傍でささやく兄。その手のひらが胸からどけられ、ハダレの頬を撫でる。
ぬるりとする感触に覚えがある。
胸。創傷からこぼれる血が、血、が……
彼を現実に引きずり落とす。
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