代理戦争/最下層街編/続・夢遊/3


「お二人とも起きてください」
かつかつかつといつになく忙しない足音に、ウスライは浅い眠りから引き剥がされた。
思考にまとわりつく眠気の、あまりの濃さに思わず時計を見る。――まだ2時だ。起床時刻には遠い。だが看護師の毅然とした態度と、それに共存するような焦燥を見て取って背筋だけは伸ばす。
「こんな時間に……」
何なんだと問おうとして、看護師の回答に進路を阻まれた。
「非常事態です。組織の人間が階下にいます。居所を掴まれたようです。
 早急に避難を」

驚愕より先に、反射的に。ウスライの手が刀を取った。

看護師はそれに反応しなかった。
「相手は一人です。武装している気配はありません。
 可能性として、すでに包囲されているか『異』の保持者である可能性があります。
 どちらにしても今のあなたには荷が重い」
「ならばどうしろと……」
珍しく歯噛みするような口調でウスライが視線を落とした。その先にはハダレがいる。
眠ったままのハダレが。
「今はまだ先生が相手を釘付けにしています。その隙に」
「何を考えているか分からない相手を前に、医者が立ちはだかったとして殺されるのがおちだ。
 ……俺が往く」
看護師を押しのけようとする。と、意外な強さで看護師は立ちふさがる。
「あなたに何が出来るというのです」
「医者に何が出来ると?」
余りの物言いにウスライが流石に苛立ったように言うが、むしろその言動にこそあきれたかのように看護師は語気を強めた。
「余り聞き訳がないようなら、その左腕を蹴飛ばします。
 ……私たちは医療の現場で敵味方を判断した治療はしません。
 だからこそ医者の下は不可侵の中立地帯なのです。
 それが理解できないあなたには、先生以上の働きが出来るはずもありません。
 ――さぁ、そこに寝ている彼を連れて、私の指示に従ってください」
――くるりと背を向け、ウスライはハダレを毛布ごと抱えあげた。
ここでこれ以上粘っても無駄口にしかなりそうにない。それに――
「武力の使い時は、いよいよ追い詰められ、私たちの力が及ばなくなったとき。
 まだ温存すべきものですから」
「……」
「何か?」
全てを見通しているような、女独特の眼力とでも言うか。
手はハダレの点滴をはずしながら視線だけ投げかけてくる、そんな看護師の瞳に
なんとなく憮然としながらもウスライはゆっくりと視線をはずした。
(……冷静になれないでいる……)
わずかに苦い思いを舌に味わいながら、看護師の指示に従うことを決める。
ほんの一月か二月前までは何を意識せずともごく自然に出来たことが出来なくなっているような気がした。
どこからか遠いところから事態を眺めるような視点で、自身の周囲を把握し、流れを自分のものにする。そんな事が。
あの頃は自分のみを守り、そして任を果たすことだけを考え続けていた。
そのために必然的に身につけた能力。そして、唯一『異』である兄にも畏怖される力であると信じてきた。
だが、その能力がいざ必要なときにはそれができない。
廊下を足音忍びやかに駆けるときも天井のパネルの隙間から体をもぐりこませる間も、
腕の中の感触が自身を事態の中心に繋ぎ止めている。
ほのかに生暖かく、ぐにゃりとして運ぶのが億劫で、
そのくせ手放すのを許してくれない。

――右手だけで天井の隙間を這い回り、口にペンライトを銜え、通気ダクトや断熱材がもがれて僅かに広くなったスペースへ鼠のように潜り込み、さらに奥へ奥へと小さくはない図体をおしこめているうちに、なんだか泣きたくなるような心地になった。
ふぅっとついた溜息が埃臭くて、目鼻にしみる。
その気になればあと何メートルか進めそうだがその気力さえ奪われる狭さにウスライは身を投げ出した。人一人引きずって匍匐前進というのは、これでなかなかきつい。
ふと頭の中に、いつぞや唱えた呪文が響き始めた――"ばれてない、ばれてない"と。
毛布にくるまれた青年をそっと下ろして隣に自分も座る――つもりが、頭がつかえた。
そのまま、らしくないほどだらけた姿勢でずるずると寝転ぶ。何もかもが自分の邪魔をしようとしているようだった。
せめてものカモフラージュのつもりで、暗闇にまぎれそうな色の自分のコートをふたりの上にかけた。
ばさっ――
と、埃を巻き上げながらふわりと落ちてくる黒の布地を見る。
余りの粉塵の多さに、それはすでに灰色になっていた。
(……)
見下ろした自身の髪さえ白髪交じりのように見える。背負って運んできた唯一の武器ですら、薄汚れてしまっていた。がっくりと項垂れながらもハダレを抱き寄せ、上着をなるたけ被るように身を縮める。
ペンライトのスイッチを切る。天井に入り込むときは随分心細い明かりだと思ったそれが消えると、辺りが本当の闇に一瞬で呑まれた。自身の動きすら見えない世界にじっとしているのは苦行というほどでもないが、楽しくてうきうきしてくるものでもない。周囲に敵を認知することもないため、抱えている憂鬱な気分が助長されやすいことも面白くない。
ウスライは毛布の塊に額を押し付けた。

思いつく憂鬱の種は、語りつくした。何も変化がない状況では思考の進歩もなかなかおこらない。それどころか日々罪悪感と焦燥は募るばかりで、胸を占める痛みは深くなる一方だ。自身が手を下したのではないといえど、こうして――自身も、そしてハダレも苦しめることが分かっていながらぐだぐだと決断を下すのを先延ばしにして諦めようとしたことは、紛れもない彼自身の責任だから。
だが――それでも、救いがないことをつらく思うのは、自身が『吐露する』快感を知ってしまったからだろうか。
額を当てた先には、おそらくハダレの首か頭あたりだ。厚い毛布越しにはこつんとも言わない。抱き寄せた右手に伝わる感覚も同じで、ハダレの体の感触はほとんど伝わってこない。
違うものがくるまれていやしないだろうか。
そんなギクリとする妄想さえ、辺りを包む闇は助長する。
だが、周囲のどこに何がいるか分からない危険な状況で、それをわざわざ確かめる余裕もない。どこで音を聞きつけられるか、光を見咎められるかわからない中で、出来るはずもなかった。
何時間こうしていればいいのか分からない。何時間経ったのかも。
じっと身を潜めているが、物音ひとつしない。
誰かが暴れだしたり、家捜しする音さえ聞こえない。
自身の吐息だけはこんなに大きく耳障りなほどに聞こえるというのに。
確かな感覚は、抱き寄せ、額を当てた毛布にくるまれた何かの存在だけ。

ウスライはひたすら待ち続けた。
一筋の光にすら満たなくていい、何かを。じっと。

――どのくらい、時間が経ったのだろうか。ふと、額に圧力を感じた気がした。
そっと身じろぎするような、押し返されるような微妙な感触。
ハダレが目覚めたら、そうするかもしれないと思えるほどの力弱さで。
だがそれ以外の挙動は感じられなかった。毛布ごと抱いた腕、手のひらのどこにも。
(錯覚……か)
ハダレの覚醒を望む余り、今までも何度もこんなことを繰り返してきた今では、
落胆する気持ちのほうが強い。上げて、落とす。その繰り返し。
暗闇の中で鋭くなった触感でもう一度その感覚がないということは、やはり錯覚なのだろう。
ウスライは気落ちした――そして疲れた声音で、ぽつりと呟いた。

「……もう、お前は目覚めないのか?」

それは独り言の様でもあったし、目覚めぬ青年に問いかけた様でもあった。
ゆっくりとコートを引き寄せ、ハダレと自身を覆いつくせるように、抱きしめたまま小さく身を縮める。
返事はなかった。ハダレは口を開かなかったし、どこからも横槍は入らず、
ウスライは暗闇に取り残されていた。



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