代理戦争/最下層街編/続・夢遊/4


はっ――とハダレが目を覚ました――と思ったのは、兄の悪夢が途切れたときだ。幸せな思い出が一瞬で血塗られ、現実に引きずり落とされた。その余韻が気分の悪さとして残っていた。鼓動がとても早く痛いくらいに脈打ち、そのくせ体の中心は底冷えするような冷たさを保っている。
(……)
ゆっくりと目蓋を開ける。現実と等しいくらいの衝撃が訪れた以上、夢の中にいる意味はなかった。だが。
(……あれ……)
そっと目蓋を開けたはずの先が闇だったので、ハダレは驚いた。
まだ、自分は夢の中をさまよっているのだろうか。あの悪夢の与えた悪寒すら、夢に過ぎないのだろうか?
目玉だけ動かしても、どこまでも闇が辺りを覆っている。そしてかすかに息苦しさを感じる。
(ベッ、ドじゃ……ない)
感触からすると、毛布か何かだろうか。そしてその上から押さえつけられているような重さを感じる。
どういうことだろう。
押し返すようにしてあたりを探ろうと試みたが、どうにも体に力は入らなかった。
当たり前だった。もう両手の指では数えられないほどの日数、絶食しているのだから。
それを怖くも、つらくも感じないのは、きっと全てが虚しいと心が結論付けてしまったからだろう。
ハダレはまた目蓋を閉じた。
ここが夢の中であれ、何度でも目蓋を閉じれば妄想の中にいられる。何も心苦しいことはない。
現実になど帰らなくていい。帰る理由がない。
目を開けて追い求めるものもなければ、手を差し伸べて帰りを待つものもないのだから、
このままそっと夢の中から天国にいってしまいたかった。

その時、声を聞いた。

(もう、お前は目覚めないのか?)

――ハダレは、目を見開いた。
急に耳が開いたような、突然の感覚に強く戸惑いを覚えながらも鼓膜に残るその声を反復する。
余りに唐突な言葉に微細な声音は思い出せないが、ひとつだけ確実なこと。
……一瞬のその声は、ハダレには、とても辛そうなウスライの声に聞こえた。
(……まだ、ウスライがそこにいる……?)
小さな疑問が、静まり返った心に小さな波風を立てる。
目を瞑っても開いても暗闇の中に投げかけられた声が、
いやに現実味を帯びてハダレの内側に届いた。

ぼうっとしている。まだ眠気は覚めていないし、空虚な気持ちが消えたわけではない。
そこにそっと進入してきた声は、それをかき乱したり埋めるでもなく――
ただ、そこに残った。

(……ウスライ……?)

少しだけ。なぜか強くなった、体を毛布ごと押さえつけるような重みに、言葉にならない言葉が湧いた。舞台の上で強く、息が苦しくなるほど、涙が出そうなほど抱きしめられたのと同じ気配を感じたから。唇をほんの、ほんの数ミリあけて声を出そうとした。が、嗄れた喉は何の言葉も発音できなかった。

これは夢なのか、現実なのか。
現実味を帯びた夢なのか夢のような現実なのか、弱ったハダレには区別がつかない。
ただ手放したくない瞬間であることは間違いなかった。兄の夢と同じように、それがハダレにとって大事なものであることは疑いようがなかった。
――ただ、それを考えると、現実味を帯びた答え――結局与えられなかった、『異』である自分への肯定の答えの反対が連想されてしまうので、あまり考えることがなかっただけで。
とても正直に告白するならば。
ハダレにとって、ウスライさえ苦しみの種になる原因は、そこにあった。
ありていに言えば失恋というのだろう。小難しく言うなら、保持者と非保持者間の相互理解の不成立とでも言うか。ほんのひとときの接触が心地よすぎて、離れて過ごしていく未来が想像できなくなった。
きっと生きてはいける。
ただこの瞬間、この人生において、この人でなければ駄目だ――と心の奥底が疼き求めている、そんな人間に初めて出会い、そしてはじめて別れなければならない引き裂かれるような悲しみは、既に酷く傷ついていたハダレには耐え切れるものではなかった。
どうしてもウスライでなければ駄目なのだ。
とても勝手な欲求だとは分かっている。この興奮型の『欲』は押さえなければならない。
それが『異』としての責任だった。
"All be alone"……だからたった一人に戻るほうがいいに決まっている。


だけれど――――
破ってしまった約束のかけらが、まだ心を咎めているから、離れられない。
痛いとも悲しいとも言わなかったあの男が、
なにか心配を掻き立てる様な声音で話しかけたりするものだから、余計に。

今なら、もうすこしいい夢が見られそうだ。――男のことを含めて。
ハダレは意識の中でもう一度目を瞑った。ゆっくりとした呼吸の中に、眠りを見出す。
緩やかな温かさの中に漂わせるように、ふと意識を手放した瞬間――
「……分かった。今降りる」
はっきりとした声に、今度こそ覚醒を強いられた青年は、すすけた黒ずくめに抱き上げられた。
そして、その中で感じた”微香”が、彼の体さえ奮い立たせるなど、誰も予想などしていなかった。



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