代理戦争/最下層街編/続・追跡/3


そう。空腹のとき暖かな食べ物のにおいに惹かれるように、
自分はその匂いをたどって檻を抜け出したのだ。
山も谷もない平坦な廊下がまるで地獄のように遠かったけれど
渇望を満たしてくれるものはそれしかないのだから求めるほかなかった。
飢えているのは胃袋でも喉でもない。
ただ、ただ"それでしか埋められない部分"を満たしたくて、
再び本能に身をゆだねたことがみじめならば、
何をもってヒトはヒトとなるのだろう。

すりむいた箇所は数知れず、両方の肘膝はひっきりなしに血が出ている。
特に左手は点滴を引きちぎった跡から血がだらだらと流れて、
まるで酷いヘンゼルとグレーテルのようだ。
まともに歩けない自分の体が憎らしくて憎らしくてたまらない。
でも、恨みつらみを言葉にする前に、渇望を満たしてくれるそのモノを
唯一たどる手がかりが薄れていってしまうことにおびえ、
手足をもがくようにうごめかせることに気を取られて罵倒することもできない。

早く。追いついて、振り向かせて、問いただしてやらなければならないのに
――――どんな手段を使っても、そこまでたどりつくことはできない。



血の跡をたどっていけば、ハダレの後を追うことは簡単だった。
元より二週間寝たきり、栄養点滴でかろうじて保っているような体だ。
そう早く移動できるはずもないだろう――
そんなことを考えている間に追いついてしまうほど、彼は近くにいた。
血痕は徐々に新しいものになっていたが、それに加えこすりつけられたような小さな汚れが多くなっていった。体をすりむき、それでも止まらずに進み続けた結果なのだろう――ひどく数の増えた血痕を追いながら、ウスライは病院内を抜けた。
この上なく慎重に階段を降りてゆく。
外から見とがめられることと、待ち伏せ両方を警戒しながら進む。
だが久しぶりの外気に、ほんの少しの高揚を感じながら――

ゴツッ

――緊張の体制になるというより、むしろその姿を想像してしまいながら、
ウスライは階段をなおも下り続けた。


ゴツッ


二階の踊り場。そこから見える街は夜闇に包まれ、個人のものだろうか…点々とついた明かりのみがついでのように道を照らしていた。少なくとも人影らしいものはない。


ゴツッ


だが確実にそこにいるのだ。逃げていくのか、それとも待ち構えているのかは知らないが……いま追うべき男は。


ゴッ……


小一時間も経てはいない、それほど遠くまで行ける体でもないだろう。だが相手も命がかかった行動に違いない。下手な追跡は全員を破滅させる。


「ハダレ……」


だから追わなくていいのだと。
階段を転げ落ちるように這い進む哀れな背中に、ウスライは呼びかけた。

彼は呼びかけられても反応は示さなかった。
肉の削げた腕と脚をもがかせ、息を切らしてミリにも満たない距離を進もうとする様子はさながら亡者のようだった。ウスライが足を止めて見下ろしていた時間は優に分を数えただろうが、それでも進んだとは言えないような距離を稼ぐことしかできない。

「ハダレ、止まれ……」

あまりに無様な姿にめまいを起こしそうだった。ハダレが体を浮かせようと突っ張った肘はひどい擦過傷が、手首から肘までの間にはあちこちでぶつけたあざがある。
文字通り"転げ落ちて"ここまで来たのだろう。自力で立てない者がここまで来るにはそれしかない。

「止まれ」

ウスライが傍に立っても、ハダレは反応しなかった。無視しているのか聞こえていないのかは定かではないが、少なくとも言葉で制止できる範疇ではなかった。ただ暗い路地を見つめ、そこに進もうとする意志はかたくなだった。
ウスライは膝をついてハダレの腕を取った。胴を抱き、そこで堅く物理的に引き止める体勢を示す。
そしてたしなめるように名を叫んだ。

「ハダレ…!」

青年は答えなかった。茫々とした目が向けられることもなく、ただ障害物に捕まったとでもいうようにもがき乗り越えようとする彼は、やはり『異』の支配下にあった。

「今のお前にあれを追うことはできない……諦めろ」

ウスライが力を込めて動きを封じようとしても、ハダレはこちらを見ることもしない。
逆にこちらを押しのけようとする力は意外なほど強く、暴れているといっても半ば間違いではなかった。

「ハダレ!」

いったいどこからその力がわいて出てくるというのか……枯れ木のような体を押さえつけながら、ウスライは呼びかけ続けた。

「ハダレ……止まってくれ」
「腕をとってくれ、ウスライ」

はっと振り返ると、遅れてついてきた医者だった。手に、暗闇に光る何かを持っている。
注射器だ。

「……」

中身は推して測るべし、だろう。だが。


「俺達は恨まれるだろうな。ハダレに」
再びぐったりと手足を垂れ下げた体を抱えながら、ウスライは呟いた。片手で抱えるには重すぎるが、それでも奇異なほど軽い体を医者に預け渡す。
「今度こそ死ぬかもな」
さらりと医者が言った。何かを思い当たったらしいが、それを口に出さないウスライに当てつけるようでもあったが。
「……だけどな、今生きてるから死のうか生きようか選びようがあるんだぜ。
 そう考えたら後々恨まれようが、お前がした事は間違ってないさ」
「注射を実際にしたのは俺ではないがな」
うっせーとつぶやく医者に背を向けながらウスライは言った。
掌に未だ握りこまれた金属片。
それが誓いのあかしだというのなら――相手は一人しかいなかった。


あてはない――そう思っていたが、あった。
所々で、昏倒した人間がいるのを見つけたのだ。彼らは手に手に小型の銃器を隠し持っていた。ビルの陰、飲食店の裏、時には大型のダストボックスから手足を出しているものもいる。
ひどく叩きのめされているわけでもなく、居眠りをしているように倒れこんでいるものが多かった。時には眠るように死んでいる者もいた。力加減を間違えたのか知らないが。
彼らの多くはハンターだろうとウスライはあたりをつけた。
専業の賞金稼ぎはこのご時世はやらないが、なんとなく腕っ節は強いものの代理戦争などに腰を据えられないものが手を出すことが多い。
フリーなのか組織の下っ端連中なのか知らないが、それにしても数が多い。これだけ正確にハンターを狩るなど尋常なことではない。朝になれば大騒ぎにまたなっているだろう。

ウスライはあたりを見回した。
このあたりを、箱の送り主が進んできたことは間違いがない。
だが――

(無理があったか…あれほどの負傷を負った体でこれだけの道のりを進んでいたから、
 歩みもさほど早くないかと思ったのだが……)

身を潜めているのか、逆に役目を果たすために全ての力を使いはたすような行動力を使ったのか――男の行方は分からない。
だが、必ず会わなければならない。危険を冒してまであの箱を送りつけてきた意味、そしてなぜウスライにだけ接触を図ろうとしたのか――真意を知るために。
人に尋ねることはままならなかった。違うハンターに目をつけられかねない。
だが一人の足で調べ続けることにも限度があった。最下層街の地理はおおよそウスライも把握していたが、三次元的な部分はハダレのような住人でなければ知る由もない。
ハダレをいっそ担いで来ればよかったのかもしれないと思ったが、血に反応しているだけなので倒れたハンターに反応するだけになっていた可能性が高い。
それでも確率がある限り、ウスライには探す責務があった。
ハダレを止めて、そこで足を止めなかった理由。
きゅっと手指に力を込めると、中に包まれた金属片の感覚が強調された。



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