「お前は正気だ」
「…………」
暫くの沈黙。明かりに集まってきた虫の羽音が、ちちっと耳に届くだけ。
瞬きの音すら聞こえる距離。
そんな中で男の瞳とウスライの瞳がひたと視線を絡み合わせていた。
その行為の意味も理解してウスライが取ったその距離は、
逆に男を戸惑わせたようだった。
「近いですよ……」
何を思い出したのか――少し恥じるような囁き声が、男の唇から漏れた。
青灰色の濡れた瞳が瞬きを繰り返す。
潤みを増してきたような眼は、確かにウスライを見ていた。
そしてウスライを通して、違う誰かをも見ているように茫洋としていた。
「思い出しちゃうじゃないですか……」
男が姿勢を正した。
組んでいた脚を下ろし――たことは見てはいないが気配を感じた――、投げ出していた両
腕を持ち上げてゆっくりとウスライの首に絡める。殺意があればそのまま抵抗できずに殺
される姿勢にあることは認識していたが、好きにさせた。
背を這いまわる指の動きは緩慢そのもので、急所を探すような不愉快な挙動は見せていな
い。むしろ場違いな背筋の疼きを呼び起こすような。まさぐる、という気配に近いだろう
か。
「……何を思い出すと?」
籠絡される――そんな感覚を追い払うように、ウスライは口を開いた。相手は同年代の男
だというのに、拳を交えたような間柄だというのに振りほどきがたい何かを感じる。これ
こそが奴隷の魅力だというのならば、何も抗せず堕落する愉悦を多くの人間が求めてきた
理由がそれなのだろう。
体一つで相手を弄する。それは効率の最大化であるとともに極致でもある。武力で圧倒す
るより、よほど簡素で策略的、かつ効率的だ。権力を力で物にするのは難しいが、権力を
持つ人間の心は物にできる。そういった発想の転換だった。この兄の作品は。
だがそれも過ぎた策だった。真面目にしていればいずれ東方士族の中枢に近い職を得ただ
ろうに、乱心して慣れない暗澹たる世界に踏み込んだばかりに命を落とした。
目の前の男はその犠牲者だ。
主を失い、瀕死のていでその弟に事後を託し、今は過去を懐かしんで抱きついている。
「ちょっといいお話」
男の右手が首筋から頬を撫でつけた。その皮膚の柔らかさを確かめるように。
「取引、しませんか」
「何の?」
「今となっては私しか知らない話、してあげますよ」
「何に関する話だ」
「貴方"たち"が得する話。御主人と私しか知らない昔話を」
じっと。見つめる青灰色の虹彩が、手ぐすね引いて待っているかのように深みを増す。言
葉でも玩弄されそうになる――それも、戯れにやられているという感覚が強く、事務的に
拒絶することができるが、そうでなければ断るのが難しそうな誘惑。
「対価は?」
振り切るように言葉を発する。――返される微笑みに、待ち受けられていたことを悟る。
「抱いてください」
「……」
驚きが読まれたのだろう。馬鹿なことを、と呟こうとしたところを笑われた。
「嘘。そこまで要求したら、貴方は絶対断るから」
笑いの呼気が鼻先をくすぐる。
「……だから、キスして、声を聞かせてください。後は一人でやりますから」
「それ以上は御免だ」
「大丈夫、そこまで貴方は御主人に似てない」
するすると降りてきていた右掌が胸、腹を撫で、そこで離れる。
宙をつかむように握られた、男の手が膝に置かれた。ウスライの許可を待つように。
観念したように嘆息したウスライを見て、男が微笑む。
あどけない様な――ハダレによく似た、
艶やかな様な――全く似ていない、
悲しそうな――面影のある、
死を目前にした笑顔で、ゆっくりと瞼を閉じる。囁き声が届く。
「私は」
囁きに触れる。
「あのかたのもの」
呼気を奪う。
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