意外なことに、修羅場を掻い潜ってきた割に男から悪臭はしなかった。
というよりも想像していた男臭さがなく、目を閉じている限り男女どちらを相手にしてい
るのか分からないといってもいい。回されたままの左腕の重みは男のものだが、唇の柔ら
かさ、香りの甘さを否定できない。
「……」
ふっ、と男から軽く鼻息が漏れた。ウスライが反応して目を開けると、青灰色の瞳がこち
らを見ていた。探ると、男の唇の間に、いつの間にか隙間ができている。
――誘われた。それをウスライが察して舌を滑り込ませると、満足したように男が瞼を下
した。
口内に侵入した舌先が何より先に男の舌先に触れた。待ち構えていた、というのが正しい
のだろう。触れるなり、当然のように絡み合わせられる。
クチ、と濡れた音がした。聞こえたというよりは口の中でしたのを"感じた"。
(……?)
ウスライは違和感を感じた。絡み合う唾液――その中から、微かではあるが苦味を感じた
のだ。コーヒーやタバコのようなそれとわかる味ではない。ふとある可能性を思いつき、
追いすがる男を押し返すように引きはがす。
「お気に召さない?」
小首をかしげる男の口元。苦味――連想――薬剤。重傷でも機敏に動き回れる行動力。二
つを結びつけるのは難しくなかった。
「薬をやっているのか」
厳しい声色で指摘する。苦味の弱さから、キスに乗じて摂取させるような悪意があったと
は思えなかったが、それでも気分のいいものではない。
男はといえば――事実を言い当てられて気まずそうにするどころか、ぺろりと舌を出して
『ばれちゃったか』とでも言いたげな顔を見せた。
「まぁ、残り少ない人生ですから」
「中毒になっても構わないと?」
問い詰めると、逆に厳しいまなざしで「そんなわけないじゃないですか」と即答した。
「ハイになって何もかも忘れたいだけならもっと安いクスリでいい。
さっきも言ったじゃないですか、私には時間がないんです」
「何を使った」
「アンフェタミンを」
ウスライにも放浪の日々を経て得た多少の知識はあった。高額で取引される、少量の粉薬
・錠剤・アンプルの類。それらがどういった種類と効果を持ち、どのような価格で取引さ
れているのか。
アンフェタミン――amphetamine。ナルコレプシーなどの睡眠障害や注意欠陥多動性障害
などの治療薬として用いられる。また遠い昔、中枢刺激剤ににた代替薬が開発されるまで
は軍のパイロットなど緊張を長時間強いる職務の人間に、無睡眠活動できる"魔法の薬"と
して処方された時期もあるという。
だが最下層街ではその名では呼ばない。
通称ではなく、最も分かりやすい呼称はこれだ――『覚醒剤』。
「…………」
ウスライの手が男の肩からすべり降りるように落ちた。
アンフェタミンは循環器に強い負荷を掛ける。それに躊躇せず手を出したということが男
の覚悟を示しているようだった。この男は、どこまでも余生を奴隷として生き抜くつもり
だと再確認しただけだった。
ウスライの沈んだ様子を見た男は、他人事のように笑った。くすくすと健全な笑いをふり
まきながら、ベルトを緩め、パンツと下着を腿半ばまで下ろす――"あとは自分でやりま
すから"。
「ヤク中だからって、こんな中途半端なキスじゃあ誤魔化されませんよ?」
笑いの挙動で萎えたままの性器が間抜けに揺れる。奴隷という言葉から想像するような、
ピアッシングや入れ墨の類はない。それを驚きもせず受け入れる自分に、さすがのウスラ
イも自身が麻痺しているのだと思わざるをえなかった。
もういちど、と突き出された桃色の舌。
挑発に乗るかどうか、面白がるような瞳はどこまでもハダレにそっくりだった。のろのろ
とまた苦味を受け入れると、今度は強く唇ごと押しつけられた。
「……ン」
甘えるような男の息を呑み込み深く舌をからませ合う。舌先でつつきあったり、口蓋をな
ぞったり、口の中の攻守が入れ替わるごとに、回されたままの男の左腕がずるずると落ち
ていった。
その手先の行く末を目で追うと、やはり股の間だった。数十秒の間にどれだけ興奮したの
か、だらんとしていたものが芯を持っていた。そしてなお細い指に扱かれて赤く、大きく
興奮していく。それが舞台の上でハダレを辱めたと思うと、ハダレとどうという仲でもな
いのに頭の芯が冷めるようだった。
「…ッ……」
ヒクッと男の体が震える。
それが触れ合う口唇から、肌から、髪の先まで伝導する。男の自慰の快感を、雄弁に伝え
られた気分。
その心地を、どこか冷めた視点から眺めるような冷静さ。――つい何時間か前、病院でで
きなくなっていると感じたもの。
「ァ……ああっ」
ゆっくりと唇が離れる。それにも関わらず響く水音――男のペニスが発する音。
うっとりと目を閉じて、自身の好いところを一心に擦りあげる。声にはしていないが唇が
動いている。もっと、もっと、ご主人さま。
余りの浅ましさに奴隷への高揚も薬物使用への絶望も怒りも薄れる。
相手があまりに哀れすぎて同じ土俵で見れなくなったというのが正しいのかもしれない。
同時に、ハダレに何か伝えようという思いも消失していた。
男は遠い所に行きすぎた。
呆然と男を見つめていると、ふと瞼をあげた青い眼と視線があった。
ものも言えず押し黙っていると無表情なその顔に満足がいったらしい。もしや奴隷を放置
して眺めるその表情が男の主人と似ているのだろうか――と想像してしまいうすら寒い心
地になる。兄弟のアブノーマルな性生活など知りたくもない。
ため息をついて目をそらそうとする。
それを察知したのか、男が声を上げた。相変わらず自身を扱く手と、先端部を刺激する逆
の手は止まっていなかったが。
「……始まりは、8年前……ん、あの方がお国を出たこと……」
みだらな語り部が、廃墟から掘り起こす真実。
ウスライはゆっくりと向き直った。
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