「ハダレに会うつもりはないのか」
「えっ」
心底意外そうな男。青灰色の瞳がぱちっとこちらを見つめていた。
「お前の血の匂いに反応して、動かない体を引きずって会いに行こうとしていた。
これから死に行こうというなら、あってやって損はないだろう」
「……えーと」
ウスライはふとその態度に違和感を覚える。寒気のような何かが脊髄を駆け抜ける。
確かに男は正気だった。だが、正気だという事と、期待していることとは何かが違うのではないだろうか。
ただの予感を言葉にまとめられるほどの沈黙を経て、男が口を開いた。
「私は彼を殴って誘拐して、変態的なことをいろいろして、
舞台の上でおいしくいただいちゃったんですよ?それにいろいろ裏でだましてたし」
「会いたくないと?」
「うーん……なんて言ったらいいのかな」
最終的な身支度をしながら、男が困ったように考えている。ベルトの位置を少し下げ、ほこりだらけの椅子に触れていた尻をぱんぱんとはたく。もうここから離れるつもりであることを如実に示す行為。
ウスライは置物のようにじっとして、行為を見ていた。答えを待つというより、ただ見ていた。その疲労の視線を、何と勘違いしたのか、より慎重に言葉を選ぶ男。その顔にはまだ微笑が浮かんでいる。
変わらぬ微笑。――まるで、全てを隠しとおしたカギロイのような笑顔。
ふと、男が思いついたように手を打った。いい言い回しを思いついたらしい。
「……必要、ないっていうのが一番近いのかも?」
あっさりとした口調で、何もかもを否定する男。
「私、あなたが思うより悪い人ですから。
あの子と殴り合いのケンカしたり、あなたのこと忘れさせようとアメの役目したり、
そもそも……首輪付けるようなマネしたのは私ですし。 会う理由がありませんもん」
ああ、でもあの子可愛くて好みなんですよ。そう思うでしょ?――そう言い添える、その真意は疲労しきったウスライには見えない。うっすらと透けて見える、彼の本心なのかただ思わせぶりなだけなのか掴みがたい意図。微笑と物腰とで誤魔化され、ウスライの固い探り方ではひらりひらりと指から漏れるだけ。
ついに漏れ出た嘆息をかみしめながら、本格的に戻らなければならない時刻が迫っているのを感じた。
ふと、まったく筋違いなことを考える――ハダレが、この場に立っていたら。
男の瞳を見据えることがあったら、どう反応するだろうか。
なんとなく想像できる気がした。
茶色の髪――染髪から時間がたって根元が元の色に戻っているが――の隙間から男を見据える。驚いたように目を見開く。幼いころの呼称で呼ぶ。相手が振り返った瞬間、走っていって抱きつく。どんな言葉にも左右されず、心の奥底の好意を嗅ぎ取る瞳の前では、この男のふらふらした心も難なくつかみとれるだろう。
もう……それも、ハダレの目が傷ついた今はない話ではあるけれど。
「……それにね、私にはまだ役目があるんですよぉ」
ふと空想にふけっていたウスライを、男の言葉が引き戻す。
目深にフードを下げ、腰元に手を当てて何かのそぶりをする。
「刀?」
「そう、御主人様の」
預けてあるので、それを取り戻して……と指折りしてみせて、最後にウスライの方を向き直ってにこっと笑った。
「しばらくしたら街の西側で、この黒ずくめで、刀持ってうろつきますから。
……あなたは、あの子を連れてここを離れてくださいね」
「囮に――なると?」
「そゆことです。御主人様を故郷に無事連れて帰ってあげてください」
確かに最下層街脱出の確率は上がるだろう。刀を持ってうろつく人間など、自分以外では見たことがない。フードをとれば赤毛の標的にも見えるので、二重の囮をこなせる、まさに適格の人材だった。
――見送る側に深い痛感を残す以外は、完璧な。
「それでいいのか…」
ウスライは掌の中の金属片を握りしめた。
何かが変わるかもしれない。そう思って病院を飛び出してきた。
だが何も変わらなかった。
同じように故郷を離れ、そして任務を終えたものの、深い虚無感にとらわれた心はそのままだった。なにも変えることができなかった。
さきほどの男の言葉が容易に想像できた。ハダレの行動と同じように、予感ではあるが確信に近くはっきりと。
ササメがほほ笑んだ。目じりを綺麗に閉じた、優しい顔で。
「はい」
この上なく純粋な肯定が胸に刺さる。ウスライになすすべはなかった。
あるいは、ハダレでも。
ササメはゆっくりとウスライに近づき、両手で右手を包んだ。金属片を包み、固く握りしめられた拳を撫でさすって緩ませながら、呟く。
「あなたは人は殺せてもウソはつけないんですね。真面目な人」
至近距離で再び青い目を見下ろし、ふと思考を読まれていたということを思い出す。
恥じらいが一瞬浮かぶが、手のひらの感触と、疲労と、そのほか諸々で今さらという気がした。目も逸らさずじっとしていると、ふと指の間に金属片以外のものを押しこまれたという感覚が起こる。
「だから断れないと思ってあなたにわがままもうひとつ言っちゃいます」
反射的に手のひらを覗こうとした視線。だが、同時に柔らかな掌が、懇願するようにきつく閉じられた。ウスライの拳を包み込むように。
見るなという意図を感じて目を挙げると、ササメはもう微笑んでいなかった。
「首輪をはずしてあげてください」
意味が分からず、眉をひそめるがササメは意に介さなかった。
両手を名残り惜しげにゆっくりと引かせると、一歩、ニ歩と後ずさる。そのまま数秒見つめ合った後、ササメはさっと身をひるがえして去っていった。パキ、パキとがれきを踏み分ける足音が遠ざかっていく。
二度と感じることのない手の感触、声、足音、そして気配。ひっそりとした廃墟の中で、すべてが五感から消え去るまで、ウスライは疲労と感傷のままに立ち尽くしていた。
>>NEXT
<<BACK