代理戦争/最下層街編/終・静寂/1


朝焼けの中駆け足で戻った病室には寝息が一つ、規則正しく聞こえていた。
疲労の一方で頭を駆け巡る夜間の会話。謎の言葉。そして――掌に残ったもの。
ウスライは日が高くなるまでそれを見つめ、じっと考えていた。
隠し立てなど今さら意味はない。だがそれに代わるものとは?
文字通り掌に残ったものがそれだとしても、
ウスライにはそれがどのような意味を持つのか分からなかった。
ただそうやって意味を模索すること自体が、
ハダレを呼び戻したいという意志の現れであるとも自覚しないまま。
ウスライは目を閉じた。







聞こえていますか?
私の声が。ねぇ。
貴方は遠い所にいるけれど多分聞こえていると思うので、
いえ、聞こえているか分からないから、だからわざと言っちゃいます。
だって、そうしたら必死で耳を傾けてくれるでしょ?
私は人が思うより悪い人だから、そうやってふざけてないと
隠していたことすらちゃんと言えないんです。








ゆっくりと瞼を開けると白い天井があった。
視界が狭いのは――失ったからだろう。
縞模様をえがく日の光が、窓がブラインドでふさがれていると物語る。
どこからか静かな音楽が聞こえた。ラジオだろう。低い音質。
点滴が滴る動きが認識されると、同時に時の流れを感覚した。
日差しは薄かった。ぼんやり明るい方を向くともうひとつベッドがあり、そこに身を起こす形でウスライがいた。
物憂げな横顔が相変わらず美しい。オレンジ色の光が縁取るように照っている。
ふと、彼がいることに違和感を覚えた。なぜ違和感を持ったのかを考えようとする。
すると頭痛がした。というより今感じている以上のことを思い出そうと試みる力がなかった。
目線とともに頭を傾ける。その衣擦れの音に、ウスライが反応してこちらを見た。
らしくない疲れた顔をしている。
寝起き――だろうか、ちょっと髪に癖がついて絡んでいる。
それを指で直しながらウスライがこちらに向き直った。それだけでなく、起きてハダレの傍の椅子に腰かける。

「おはよう」
「……」
かさかさと唇が鳴った。水も飲まない口は乾ききっている。
口の動きが止まるまで待って、ウスライは続きを口にした。
「もう夕方だが。昨日のことは覚えているか」
眼を伏せて黙考すると、察したように相手は話しだす。
「昨夜ある者がここに来た。俺に届け物を持って。
 彼は負傷していたため血の匂いをさせていた。
 それに惹かれ、お前は『異』に支配されるまま部屋を抜け出したんだ。
 膝や肘が痛まないか。
 はいつくばるように移動していたから、全身が擦り切れていると思う」
確かに、シーツに触れる肘が痛い気がする。だが、それより気になることがある。
血に惹かれて、そいつを追いかけたというがつながりが分からない。
命を脅かされたりしていないのにどうして追いかけたのだろう。
だがウスライは特に疑問をくみ取らずその続きを説明していった。
「最初、見知らぬ相手から届け物を預かった、と医者から聞いた時は罠かと思った。
 だが中身が兄の遺灰だと分かったんだ。
 俺は届け物を持ってきた男を追った。何のつもりか問いただしたかった」
――まるで、一通り説明すれば全て謎が解けるかのように。
そこでウスライは一呼吸おいた。
「……ハダレ。これから話すことは俺が見聞きしたことだ。
 事実かどうかは分からないが、嘘は一つもない」
戸惑うようにしながらも、こちらの目をじっと見つめる。
『異』などで視なくても濁りのない黒い瞳が、そこにあった。
「男はお前の兄だった。あの拘束衣の男だ」
「……」
ゆっくりと瞬きをする。
かわりのないウスライの瞳に、時がたつにつれて陰りがさす。
「思いのほか驚かないな」
何といい返せば分からず、首を振る。
ウスライもちょっと黙った後すぐ言葉をつづけた。
「彼は奇跡的に生きていた。俺が殺したにもかかわらず。
 大怪我を負いながら、俺の兄の遺言に従って組織に反抗して働いているらしい」
「…ぅ…」
ああ、少しだけ記憶が戻ってきた。
暗い病室でひとり高ぶる匂いを感じ、伸びた爪で腕を引っ掻きながら点滴を引きちぎった。
朦朧としながら追いかけたのを強い力で引き戻された。
腕に感じたちくりとした針の痛み、そしてすべてのいきさつを思い出す。
病室の前――誰かに抱えられて夢を見た闇の中。そこで聞いた声。
その前の絶望を。それから――その前の――何か――


それから何分もかけてウスライは説明をつづけた。
どうして兄が生きていたか。
目覚めた後兄が号泣したこと。カギロイの死にざま。
その後も兄がカギロイに従っていること。
キスを求められ、対価として聞いた彼の過去。
兄はなぜ奴隷として最下層街にいたか。
自分がなぜ裏切られたか。
そして、これから兄が自分達の身代わりとなること。

「彼に聞いた。それでいいのか、と。
 ……微笑みながらはっきりそれでいい、と彼は言い切った」
「……」
「驚かないんだな」
ウスライが瞳を緩ませた。先ほどの陰りを通り越したような色だった。
「俺は正直に言って……その言葉が信じられなかった。
 加害者の弟が言うことではないが、カギロイが彼にした事を思えば
 自由になった今こそもう一度やり直す機会ではないのか。
 記憶があっても、なくても、彼を制限するものは何もないのだから」
ぼんやりと瞬きを繰り返すと、ウスライは"非難しているわけではない"というように首を振った。
「彼は……お前に逢わないと言った。あいたくない、でもあわない、でもなく『逢う必要がない』。
 まるでお前にもう彼が必要でないかのような言い方で」

必要、ない?
ハダレは目を見開いた。
嘘だ。そんなことあるものか。
自分がどれだけ兄を必要としていたか、そんな事が分からないはずがない。
喜怒哀楽、すべてが彼に因っていたというのに、それすらも彼は忘れてしまったというのか。
それとも、青い空、まだ見たことのない海、日の下の草花の何もかもを教えた人間を
急に忘れるほど自分が身勝手な人間だと思われたのか?
何のために身を削り心を殺してきたのか。
奇跡が起こったのに、もう二度と会えないなんて。
そんなことあるものか。
嘘だ。

「……ハダレ……?」
見下ろすウスライの顔に驚きの色が射した。そしてぼやけた。
身体中の水分を文字通り絞り出したかのような涙が瞳を覆っていた。
激しい動揺が脳を駆け巡り、全身のあちこちに伝わっていく。
凍った水面を激しい波が襲い、氷を砕いていくようだった。思いもよらない激情で全身が沸き立つようだ。
単純に二度と兄に会えないことがとても悲しく、辛かった。今までやってきたことが本当に今度こそ無意味になってしまった辛さだ。
一方で怒りも感じていた。外の世界を教えるだけ教えていなくなり、再び置き去りにしていった兄に対して。
それを幇助したウスライと医者に対しても。
さらにウスライの言葉を信じたくない気持ちもあった。
くだらない嘘をついて、自分を兄から引きはがそうとしているのではないかという考えが頭をめぐる。
そして何もできずにいた自分に腹が立って仕方なかった。
はいつくばってでもズボンの裾くらいはつかめたかもしれない。大声を出して引きとめられたかも知れないのに。
それでも涙はこぼすまいと必死に上を向いて耐える。
何もかも失った今でも、自身が生き延びるために手をかけた者への罪悪感と己のために、ゆっくりと涙が消えるのを待つ。
塩辛い液体が鼻の奥から喉へ抜けるのが分かった。
落ち着くまで、ひどく長い時間がかかった気がする。涙が消えても感情は消えなかったが。

その様子を見ていたウスライは意を決したように立ち上がった。
つられて視線を上げる。すると、ウスライの顔が急に迫ってきていた。



>>NEXT

<<BACK



創作物へ戻る